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あの蒼い夏に 〜チラシづくりの青春・14〜




                    14


 僕は会社のロゴマークがドアに描かれている白のライトバンで、恵屋花咲店への道を急いだ。帰宅ラッシュのピークを過ぎたばかりで依然として車は多く、スピードは制限された。約束時間が午後6時30分だ。その15分前には店に着くようにと余裕を持って出かけたつもりだった。しかし、到着したのは自分で設定した予定時間より10分遅れの午後6時25分だった。僕の中でもギリギリの時間だ。能瀬課長は「人と会うときはやなぁ、遅くともその10分前には着いておくのが普通やで」と何回も繰り返した。僕は普通の優秀な社員にはなれない、そういう意味でも。

 花咲店は昨年誕生した郊外のベッドタウンに立地している。花咲ニュータウン開発にセットでオープンしたのが恵屋の花咲店だった。取り扱い品目は衣料品、生活関連商品、家庭電化製品、食料品で、すべてをコンパクトにまとめたGMS形態の量販店で、駐車台数は120を数えた。建物は1層なので、すべてが揃った売り場は思ったより広く感じる店だった。

 そういえば今日は7月14日、木曜日、パリ祭だった。パリ祭の由来はフランスの建国記念日だと記憶している。1700年代年のその日に起きたフランス革命の象徴、バスチーユ監獄襲撃は高校の世界史で学んだ。花咲店ではパリ祭ということで、今日から「フランスパンフェア」を実施している。
 僕はチラシに一番肉太の丸文字ふちどり書体「スーボO(オー)」で見出しを付けて案内した。本当は僕が書体指定したのはゴチック系の「ゴナU」だった。佐里君は「フランスパンフェア」というタイトル文字は丸みを持った文字の方が雰囲気が良くなると思ったのだろう。電話をかけて来て「スーボO」を使わせてくれと言うので了承した。二人の気持ちがこもっている。だから今日、個人的にはフランスパンが売れると嬉しい。
 そして、木曜日である今日は一週間の中で、スーパーの新聞折り込みチラシが一番多い日でもあった。レギュラーセールは通常どのスーパーでも木曜日スタート、日曜日がセール最終日というパターンが多い。花咲店では、今朝10時からの早朝日替わり目玉品が婦人用のTシャツが500円で、明日の金曜日が婦人デザインブラウスの500円だった。それぞれ先着5名様、お一人様一枚限りという制限がついている。
 
 僕は関係者用の駐車場に車を停めて、従業員入口のある店舗裏側に向かった。雲間からのぞく夕暮れの逆光が、駐輪場のまばらな自転車をシルエットにしている。自転車を押しながら帰ろうとしている客に、挨拶をしている女性社員がいた。ポニーテールの髪の毛が元気に揺れた。挨拶をされたお客さんが笑顔を返している。夕陽のオレンジ色が混じった風景に、人影のグレーが穏やかに伸びている。その若い女性社員はツツジの植え込みに手を入れ、枝に挟まっているビニール袋を拾い上げた。誰も見ていない店裏を掃除をしている姿は美しい。
 僕は柔らかく腰を曲げているシルエットに向かって「お疲れさまです」と声をかけた。「こんにちは。あら、今日はお一人ですか?」と逆光の中の白い歯が僕の目に飛び込んできた。彼女は去年入社したと言っていたから、今年19歳のはずだ。

 守衛室の前で会社名と自分の名前、入店時間を書き入れると番号のついたプレートを必ず渡される。僕はそれを胸ポケットにつけて店の中に入り、急いで事務所に向かった。

「すみません。店長は急にお客さんが見えて、申し訳ないですけど、河村さんには30分くらい待ってもらえないでしょうかとのことです」
事務の女性からの言葉に僕はため息をついた。
 売り場の様子を見るためにバックヤードを抜けて店内に入った。雑誌売り場で平凡パンチが目についたのでちょっとページをめくった。アメリカ西海岸発ファッション情報がペンタッチのイラスト付きで掲載されていた。
入り口の喫煙スペースで時間を気にしながらタバコを吸っていると、閉店合図の曲「蛍の光」が流れ始めた。

 お客さんの退店が終わった。各売り場担当者や部門長、フロア長は急ぎ足で中央のインフォメーションスペースに集合している。僕は事務所に戻らずに終礼を見る事にした。
 店の従業員がすべて集まるとすぐに店長の話があった。その後4人のフロア長による今日の売り上げ成績についての報告があり、反省の言葉が続き、巻き返しを誓う決意表明で終わった。僕はてきぱきと熱く語られるそれらの話を、大きな丸い柱の陰で聴いた。フランスパンはよく売れたそうだ。よかった。

 
「やあ、ご苦労さん。悪かったね、待たせたりして」

 終礼が終わると咲田店長は柱の横に立っていた僕に向かって声をかけた。
僕は緊張感を隠しながら「こんにちは」と言って頭を下げた。先日、テレビの値段間違いで謝りに来てから、何日も経っていない。店内の蛍光灯に映し出される僕の影は、少し気持ちを引き摺っていた。初期のUS恐竜特撮映画のように動きに角が立っている。

「事務所に行こう」と、咲田店長は僕の前を歩き始めた。
 服飾部門の傘コーナーに、『雨季雨季セール』とタイトルが入ったPOPが天井からぶら下がっている。紺色と綺麗なブルーの水滴が交互に7個並んでいて、雨季雨季セールの7文字がひとつずつ水滴の中に白抜き文字で収まっている。竹田さんが考えたタイトルだ。少し照れるフレーズだが、口に出してみると妙に雰囲気が明るくなるので、売り場ではおおむね好評だった。
「そのPOPのタイトルは河村君が考えたの?」と店長が訊ねた。
「いいえ、僕ではありません」と答えた。
「ワタリさんかい?」
「いいえ、竹田という僕の先輩に当たるコピーライターです」
「爽やかな性格なんだろうね、ウキウキセールは気持ちがいい。おかげで傘とレインコートの売り上げは昨対で150%を超えているんだ。ちょうど、今年は可愛いデザインものを入れることができたしね。すべてが上手くまわったようで、部門担当者もよろこんでいたよ」

『俺はチラシづくりに疲れたミミズだ。湿っている』と黒い首筋をぽりぽり掻きながら、ドライマティー二を飲む竹田さんの姿が脳裏をかすめた。咲田店長は雨季雨季セールのタイトルを書いた人のことを「爽やかな性格なんだろうね」と言った。僕には「はい、そうです」とは言えなかった。瞬間、「はい、竹田はいい人間です」と、見当違いの答えを返す他に選択肢はなかった。

 「関係者以外は通行を禁ず」と書かれた扉を抜け、店長と僕は照明が落とされ始めた店内の通路から事務所にたどり着いた。「河村君にコーヒーを出してあげて」と咲田店長はピンストライプのブラウスを着た女性社員に声をかけた。さっとポニーテールの女の子が給湯室に向かった。

 咲田店長は実用的な応接ソファに腰を下ろすと、僕にも座るように勧めた。テーブルの上の灰皿は吸い殻でいっぱいだった。アルミの灰皿は凸凹に変形している。厳しい店長の現場教育の一環だろうか、かなり宙を舞ったに違いない。三ツ谷さんの話によると、うちの会社ではかつてはディバイダーも空を飛んだことがあったそうだ。怖い上司はどこにでもいるものだ。店長はその灰皿を持つとスックと立ち上がり、給湯室に向かった。自分で吸い殻を捨てて戻ってきた。
「先日はカラーテレビの値段間違いの件、申し訳ありませんでした」と僕は少し固めに切り出した。
「ああ、そんなに何回も謝らなくてもいいよ。もう、済んだことだし」と、店長は言って、ショートホープを胸ポケットから取り出した。旨そうに重い煙をゆっくりと吐き出しながら、
「河村君もタバコ吸ってたよな? これでよかったら吸うかい?」とタバコを差し出した。
「はい、ありがとうございます。でも、持っていますので結構です」といった。
「営業の湯浦君は断らないけどね、私の差し出したタバコは」

「はあ」といって僕は困惑気味に首をすくめた。まわりの空気が固まって、ほんの少し時間が止まった。

「はは、冗談だよ。大丈夫だよ、私のタバコなんて吸わなくても」と店長は空気を読んでにやっと笑った。
「湯浦君は余分な摩擦を起こさないように、得意先の言うことには素直に従う。営業だから仕方がないのかもしれないけどね。ところが、君は私の気持ちを断った。私から見れば素直じゃなかったし、ほんの少しだけど不快感も残った。しかし、断った君のハートの方を信じる」
 ポニーテールの女の子がコーヒーを持ってきてくれた。僕は「ありがとうございます」と言った。
「砂糖は入れてませんけど、それでよかったですよね」と彼女は確かめながら微笑んだ。一瞬だったけど、閉店後の事務所に笑顔の精が舞い降りた。

「それに、先日も間違いの件で一人で謝りに来たときには、最後に『うちの河村にもこれからこういうことのないようにしっかりやらせます』と、丁寧に君の名前をしっかり口に出して頭を下げていった。すみませんとだけ言えばいいのに余計なことまで喋った。間違いを起こしたのは河村です、と私には聞こえたわけだ」

「でも、それは本当です。間違いじゃありません」
 僕はきっぱりと言った。
「そりゃそうかもしれないけど、非常にまずかった。社会経験もけっこう積んでる営業マンが言う言葉じゃない。後輩が犯した間違いは自分がカバーしてやらなきゃいけないんだ。話の流れの中で河村君の話題を上手に消し去ることが先輩としての務めだ。救ってやらなくちゃ。人が困っているときほどね。彼には大切なものがよくわかっていない。すくなくとも、湯浦君は君の名前を口にするべきではなかった」


 僕は咲田店長の話を聴きながら、ソファーにおろした腰と背中がいつの間にかまっすぐに伸びているのを感じた。しかし、いい話をしてもらっているのに、かすみとの待ち合わせ時間が気になって来た。店長の話に相づちを打ちながら膝に置いた腕の時計を見た。午後7時20分を過ぎている。
by hosokawatry | 2007-06-17 14:05 | ブログ小説・あの蒼い夏に


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