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あの蒼い夏に〜チラシづくりの青春・39〜

                   

                    39



 佐里君は僕への手紙を出し終えた後、自殺を図ったのだ。僕は茫然としながら、読み終えたばかりの分厚い便せんの束を封筒に戻した。誰なのかはよく分らないが、手紙の内容からは佐里君をそこまで追い詰めた人間の存在だけははっきりと分る。とにかく、自殺が未遂に終わっていたのがせめてもの救いだった。
 食い込めそうな弱い部分を探し当てようと、卑怯な目を光らせながら、白くて柔らかい佐里君を見つめていた怪物。防ぐ術を持たない無垢な心に襲いかかったその怪物を僕は許せなかった。手紙の文面からは、その男の立場が彼より上の人間だということだけは読み取れるが、それ以上詳しくは判らない。本当に卑怯な奴だ。
 頭の芯は数杯のウィスキーですでにしびれ始めていたが、怒りだけは勢いを失いそうもなかった。僕は叫び出しそうになる自分を必死で堪えた。「ある人」って、一体誰なんだ? 死の覚悟をもってしても、尚もその名を明かすことを拒んだ佐里君。
 佐里君、僕はどうすれば良いのだろう?仮に、僕がその怪物を探し出せても、果たして佐里君は喜んでくれるのだろうか。このままそっと静かにしていることを望んでいるのかもしれない。ただ単に犯人を暴くためにフィリップ・マーロウを登場させれば良いという訳でもなさそうだ。 
 ワタリ係長の「あの子のためにもこの話はなかったことにしてくれ」という言葉が午前中の記憶から聞こえてくる。頭の中の悪魔が囁きかけて来た。「止めときな、面倒なだけだ。何遍言ったら分るんだ」僕の迷いは勢いをなくしながらも、回転木馬のようにいつまでも揺れながら回り続けていた。

 河村さんはコピーライターなのに言葉ではなくて、心で伝えようとしますね、と書いていた佐里君の手紙。文字や言葉を操るプロとしてはいただけない評価だが、それでも想いが伝わっていたことのほうがとても嬉しかった。僕はグラスに残った最後のウイスキーを流し込んだ後、ゆっくりと立ち上がった。そしてシャワーを浴びた。
 午前三時の静寂の中、犬の鳴き声が深夜の闇を切り裂く。その遠吠えは、膠着状況を打破するための強い意志を持った監督のサインに思えた。しかし僕の頭は送りバントを失敗した2番打者のように混乱したままだ。麻痺が判断を試みようとする意思を急速に飲み込んでいく。もう誰のサインにも応じられない。僕は弱いため息をつきながら、濡れたままの髪の毛でベッドに大の字になって目を閉じた。
 もう一週間もすればお盆になる。帰省の時季だ。かすみは福岡、笠木君は大分、三ツ谷さんは長崎、竹田さんは滋賀とそれぞれの故郷がある。そして佐里君は病院のベッドの上かもしれないが、すでに実家のある町に帰っている。
 今夜、最後の責任感が僕を確かめに来た。ワタリ係長の声を無視して、佐里君に会いに行くべきだろうか? しかし、僕には佐里君の実家がどこかも分らない。
 僕は自分が拾ってきて育て、実家に住み着いている「しぶ」という猫を想った。元気にしてるかい?茶トラの丸い大きな顔が現れ、笑っている。ニャーン。やっぱり、家に帰ろう。

 僕は佐里君の実家の住所か電話番号を教えてもらおうと、盆休みに入る前に一度だけ、最後の迷いを振り切るようにステップ写植に電話を入れた。しかし、守秘義務があるので、会社を辞めた人間のことを、得意先とはいえ勝手には教えられないと拒まれた。守秘義務という言葉を初めて耳にした僕は、面白くない違和感を覚えた。
 諦められなくて、市内の電話番号を電話帳で調べたが無駄だった。どこにも佐里という名字が掲載されていなかった。手当り次第に九州中の市外番号案内で調べれば良かったのかもしれないが、すでに気力はそこで切れてしまっていた。

 盆休みが終わって2、3日過ぎた頃、竹田さんの退社情報を笠木君が教えてくれた。僕達同期生三人は昼食時の喫茶店にいた。
「竹田さんはお父さんの具合が急に悪くなって、家を継ぐために帰るんだって。河村、知ってた?」
 僕はそのことについては飲みながらだったが、本人から直接聞いていたので特に驚くこともなかった。ああ、と頷く僕に向かって「それから、ステップ写植さんに"うち担当"の新しい人が入ったんだってよ」と付け加えた。
 ウェィトレスの気配を敏感に捉えた笠木君は、さっと手を挙げて呼び止めた。笠木君は僕達を気にして、視線を大好きなウェィトレスの豊かな胸から意識的に外している。不必要な笑みをたたえながら、3人分の注文を口にした。いつものように、クリスチナ・リンドバークはオーダーを復唱すると、「いつもありがとうございます」と、艶かしい笑顔を返して、よく引き締まった腰を優雅に振りながらカウンターに消えた。
「しかし、よくも飽きないでトルコライスばかり食えるね」と僕は呆れながら言った。キヨシ君と僕は久しぶりのトルコライスだった。
「笠木さんはなんでも一途ですからね」と、キヨシ君は視線をカウンターの美女に向けた。僕もフフッと笑ってしまった。
 すぐに注文したランチは出来上がってきた。クリスチナ・リンドバークが持ってきたトルコライスのうち、一番大きなトンカツが乗っている皿が笠木君の前に置かれた。
「大きすぎない?そのトンカツ」と僕は目を見開いた。
「笠木さん、クリスチナに心が通じてますよ。きっと」とキヨシ君が言うと、「そんなん、ある訳ないやろ。単なる三分の一の確立。たまたまやん」と笠木君は一番大きなトンカツにも相好を崩すことはなかった。気持ちを無理に抑えているのが分る。言葉の裏には嬉しさが透けて見える。
「ふん、嬉しいくせに」と僕は隣の笠木君の肘をつねった。
「でも、藤木女史は悲しむでしょうね?」とキヨシ君が一歩踏み込んだ。
「あの子とはなんにもないんやから、悲しむ訳ないやろ」と笠木君は鼻孔を広げてキヨシ君の言葉をすぐに否定した。
「客観的に見ても見なくても、表面的には藤木女史とクリスチナでは勝負にならないよね。ただ、慈愛に富む笠木君の『美に対する価値観』は時々僕らの理解を超えることがあるし。クリスチナが負けることだってあり得る」と僕は茶化し気味に言った。
「そうそう、笠木さんの審美眼もけっこう怪しい時がありますよね。藤木女史が選ばれる可能性だって否定できないかも」
 キヨシ君の言葉に笠木君は即応した。
「どうだっていいやん、俺のことなんか。藤木女史とかクリスチナとか、いい加減にしてくれん」
「ムキになるところが怪しいな〜? そろそろ、藤木女史が結婚退社させて下さいとか言い出すんじゃないのかな。誰かとの社内結婚ということで」と僕はニヤニヤしながら言った。
「笠木さん、結婚祝いは何が良いですか?」とキヨシ君が真面目な顔を作って質問した。
 その瞬間、タイトスカートに包まれたカタチの良いヒップをくねらし、とても良い香りをまき散らしながら、僕達のテーブルの横をクリスチナは通り抜けた。
 僕達はその後ろ姿に息を飲んだ後、三人でため息をついた。
「それより、竹田さんがいなくなったら寂しくなるよね」と笠木君は無理矢理話題を変えてしまった。「仕事、沢山抱えていたし、その仕事、誰が引き継ぐんやろう?」
 笠木君のその疑問に僕達の肝は一気に冷えてしまった。みんな自己能力を超えそうな仕事量をたっぷりと抱えていたからだ。誰かがその仕事をしなくてはならないが、竹田さんの仕事を引き継げるほどの余裕など、誰にもあるはずがない。一気に憂鬱が三人のテーブルを支配し始めた。僕達はまた溜息をついた。クリスチナの後ろ姿を見た後よりさらに深く。




 翌日午後、三ツ谷さんと僕はワタリ係長から商談室に呼ばれた。ステップ写植の社長が新しく補填した写植オペレーターを連れてきたので、紹介したいということだった。
 社長はその若いオペレーターの経歴を簡単に紹介して、これから一生懸命頑張るので他の社員同様よろしくお願いします、と汗を拭きながら頭を下げた。紹介された若いオペレーターも慌ててピョコリと頭を下げた。
「この子は前の会社ではページものや編集ものの仕事が多かったので、チラシの経験は多いとは言えませんが、作品を見るとセンスも良いのできっと優秀な戦力になってくれると思います。前の子はちょっと神経質すぎたけど、今度は人当たりも良いし、大丈夫ですわ」と、社長は小太りの腹を突き出すようにして自信を示した。

 三ツ谷さんと僕は、こちらこそよろしくお願いしますと二人に頭を下げた。顔を上げた時、僕は今日はじめて見るその若いオペレータの顔が白いことに気付いた。よく見ると佐里君ほどまではなかったが、かなりの色白だった。藤木女史が運んできたコーヒーのカップを持つ彼の指は細かった。
 男らしさを感じさせない可愛いタイプの男だな、と思った瞬間、僕の脳の中心部に強い警戒信号が走った。これは佐里君が手紙の中で書いていた「あの人」の嗜好に合致する。怪物が好む容姿そのものだった。佐里君との共通点がはっきりしている。僕は興奮する心を抑えながら社長に訊ねた。
「余計なことかもしれませんが、社長、入社の面接をされるのは誰ですか?」
「会社のことで専務や部長に任せていることはイロイロありますが、人選びだけはやっぱり任せられません。河村さんもご存知のように、写植会社は人とその技術でもっているわけですし、もちろんうちも人選は社長である私が責任を持ってやっています」
「ずっとですか?」と僕は間髪を入れずに訊いた。
「そうですね、この三年ほど前からですか。兄から会社を引き継いで、その後私一人で選んでいます。けっこう最近の若い人は苦労を知らない我がままな人が多いので、結構大変ですわ」と社長は大変さを強調した。
「そういえば、最近のステップさんは大人しい人が増えましたね」と三ツ谷さんが言った。
「よく出来た子を探すのは難しいけど、私は見る目だけには自信があるので、その点に関しては大丈夫ですわ。この仕事は大人しくて責任感の強い子でないと務まりませんから、まあ、そのへんを見抜くのは大変ですが、この子は絶対に大丈夫ですわ」
 社長はそう言いながら新人オペレーターの白い顔と首筋を満足そうに目を細めながら眺めた。

 その瞬間、湧き起こった確信が一気にアドレナリンを呼び、激情へのスイッチが入った。怪物はこいつだ。
「白いというのも判断基準でしょ」と言うや否や、僕は椅子を後ろに跳ね飛ばし、テーブル向こうの社長の胸ぐらを掴んで、思いっきり突き飛ばした。
 あっけにとられた社長は僕の手首を掴むことも出来ずに、後頭部を後ろの壁にぶつけ、鈍い音を立てて倒れた。

 三ツ谷さんの手が僕の肩を掴んでいる。社長以外はいきなりの出来事に驚き、椅子から立ち上がっていた。社長がぶつかった余韻で、壁にかかっているモジリアニの額縁が揺れている。我に返った僕に、社長は一気に口を震わせながら言った。
「なんや、あんたは。理由もないのに暴力をふるいおって。得意先やから、何をしても良いんですか? 許しませんで、こんなこと」「そうでしょ、係長」と言いながら社長はワタリ係長にもキッと視線を向けた。僕は作った拳をいつまでも緩めることが出来なかった。
by hosokawatry | 2012-01-06 14:41 | ブログ小説・あの蒼い夏に


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