あの蒼い夏に〜チラシづくりの青春・40〜

                   
                    40


「え~っ、自宅謹慎なの、河村クンが」と受話器の向こうで、かすみは呆れ声を上げた。「河村クンのほうから、バイト先に電話をくれることもびっくりだけど」
 僕は自分の声が低くて、張りの無いことに気付いた。かすみも僕の元気無さを気遣い、バイト先の花屋から「おいしいごはん、作りにいこうか」と、いつにも増して明るく応えてくれた。そうだね、人にはやっぱり元気が一番だ。かすみに感謝した。

 一週間の自宅謹慎期間中に、笠木くんとキヨシくんがこっそりと電話をくれた。三ツ谷さんだけは「おう、落ち込んどらんか?元気出さんといかんバイ」と会社から昼間に堂々と電話をかけて来た。「まあ、衆矢みたいな凶暴な奴は、しばらく頭を冷やさんといかんタイ」と真面目を装いながら言った。職場の同僚を殴り倒した人間の使うセリフじゃない。
「これで、オレと衆矢は同じ穴の虫な。すぐに暴力を起こす奴は虫けらと同じかもしれん。注意せにゃいかんバイ」
 同じ穴のムジナは判るけど、「虫な」という人は初めてだった。駄洒落のプロはいつどんな時でも、「人を楽しませようとするフィルター」を通しながら五感を働かす。駄作もたくさん放つが、それでも三ツ谷さんのギャグ力には圧倒された。その日、僕はついに虫けらにされてしまったが、仲間にしてもらえて嬉しかった。

 やはり人に暴力を振るうだけでは、何も解決できなかった。胸ぐらを掴んで突き飛ばした僕の方が悪い。誰が見ても明らかだ。遵守すべき社会のルールを複数の目の前ではっきりと破ったのだから。悔しいけれど仕方がない。
 これから、突き飛ばした社長に接触できにくくなることを思えば、解決の道は閉ざされていく可能性が高い。終わりの始まりとなるその行為を思い出しては、心の中で佐里君に謝り続けた。

 8月も終わりを告げようとしているのに、僕のアパートに居座るもやもやとした暑気は立ち去らなかった。謹慎期間がとても気怠く感じられた。扇風機の風はやたらと生温い。涼しくないと不満ばかりたれていた会社のエアコンが恋しくさえある。
 騒がしいけれど、熱気の溢れる職場。一人きりの寂しさを強制され、味わってみてはじめて見えてくるものがあった。コピー書きも、もっと静謐な場所でやりたいと、愚痴ってばかりいたが、これからは考え直す必要もあるだろう。空調だけに限らず、実は職場の喧噪も捨てがたい魅力を持っていたのだ。本当は、天国だったのかもしれない。
 そういえば恵屋さんへのプレゼンを、もう仕上げなければいけない時期だ。リミットが近づいていた。僕は早急に企画書の未完成ページを埋めなくてはならない。なのに、今は完成にはほど遠い無気力な場所にいる。書ける時間だけはたっぷりあるのに、どうしてもその気になれなかった。
 謹慎中だったが、部屋を離れて久しぶりにパチンコ屋を覗いた。学生時代にはよくその日の食事代を賭けた勝負をしたが、遠ざかって久しい。零戦のプロペラとハネのついたパチンコ台が並んでいた。僕をあわれに思ったのか、パチンコ台は銀色の玉を景気良くジャラジャラと吐き出してくれた。これまでは勝ちたいと思った時は必ず負けていた。欲は運をつれてはこないのだ。今日は勝ち欲が希薄だったから勝てたのだろうが、まあ、こんな謹慎期間の中では買った喜びに浸れるはずもなかった。

 謹慎3日目の土曜日の夕方に、かすみはアパートに現れた。かすみは「ふうっ」と溜息をついて、重そうな食料品の入った紙バッグを下ろした。そして、もう一方の腕で大切そうに抱えていたLPの黄色いビニールバッグを僕に差し出した。
 ビニールバッグにはロバータ・フラックのLPが入っていた。かすみは「『やさしく歌って』が入ってるアルバムが良いかなと思ったけど、でも、この『ファーストテイク』にしたの」と言った。「このLPね、なにか救われるような気になるんだって。お店の人がそう言ってた」
 かすみはゴハン作るね、と言って立ち上がり、キッチンの前で紙バッグの食材を確認し始めた。僕はヤマハのレコードプレーヤーの前で座り込み、LPジャケットの曲名を確かめようとした。ベイ・シティ・ローラーズが大好きなかすみが、ふだんは聴いたこともないようなこんな渋いLPレコードを何故?と、思った瞬間、レコードショップのかすみの姿が浮かんだ。僕のために懸命にレコードを探している姿が。雑誌情報やレコードショップの店員の意見を参考に、決めたタイトルなのだろう。

 かすみの気持ちがこの上なく嬉しかった。僕は急激に沸き上がってくる感情に突き動かされた。キッチンに立つかすみの後ろ姿をギュッと強く抱きしめた。いきなり抱きしめられたかすみは驚き、少し身体を硬くしたが、僕の「ありがとう。とても嬉しい」という声ですぐに柔らかさを取り戻した。かすみは手にしていたスパゲティの乾麺をそっとまな板の上に置いた。
 夕暮れの最後の海風が部屋のカーテンを大きく揺らした。どのくらい、かすみを抱きしめていたのだろう。僕はかすみの向きを変え、正面から抱きしめてキスをした。長いキスの後、「私のこと、好き?」と、いつものようにかすみが訊いた。僕は目を見ながら頷いた。かすみが現れた時はまだ夕日が残っていたが、晩夏の夕暮れはもう薄闇に溶け始めている。
 薄暮の逆光の中、ベッドの上のかすみはだんだんと輪郭を曖昧にしていく。僕はその存在を確かめるように何度も何度も強く抱きしめた。かすみは僕の愛情にきちんと反応した。ショートヘアの頭が柔らかく傾ぎ、揺れた。
 しばらく二人は汗の海の中で横たわっていた。
「やっぱり、河村クンって真っすぐだから、大好き」と言って、かすみは微笑んだ。僕はお腹が空いたねと言いながら、かすみのお腹をつついた。
 
 謹慎が解ける二日前には、野瀬課長から「予定を変更するけど、ええか?仕事がいっぱいなんや。一日分、許したるさかい、とりあえず明日から出てこい」と乱暴な電話がかかってきた。野瀬課長の机を中指でとんとんとんと叩く音が聞こえたような気がした。会社規定の謹慎期間を課長が勝手に変えてもいいのだろうか。まあ、それもありなのだろう。
 謹慎決定時に、頭を冷やせと言われていたが、本当に冷やせたかどうかは自分でもよく解らない。しかし、出社した僕を待ち構えていたものは、恐ろしいほどに積まれたチラシ原稿の山だった。どうやって捌こうかと考えるだけで、高熱が出そうだった。一時的に頭を冷やせたのかもしれないが、いずれにしても、「冷静」な自分の姿を見つけ出すのは難しい、この仕事では。「お前には無理な事が多すぎる。能力のせいだから仕方ないがな」と久しぶりに黒い悪魔が頭の中に現れて言った。

 その週の日曜日にまた、かすみがアパートにやってきた。残暑が残る季節なのに、妙に空が青くて爽やかな朝だった。外の空気が気持ち良さそうなので、大濠公園のカフェテラスでコーヒーでも飲もうよと、かすみから誘われた。
 そういえば、最近は大濠公園には出かけていない。佐里君とのランニングシーンを思い出すので、近づくのを無意識のうちに避けていたのかもしれない。思い出すだけで、とてもやるせなくなるからだ。何もしてやれなかった情けない自分の姿なんて、誰だって思い出したくないはずだ。しかし、今日は少し違った。かすみの声に、心の扉が少し開きかけている。よく解らない何かに誘われているような気がした。僕は冷えきった日陰から、陽の当たる暖かい草むらに歩き出そうとしている。本能が温められ始めている。僕はそのような、初冬に出会える小春日和の子猫になった。

 僕は歩きながら、昨夜、巨人の王選手がメジャーの記録を抜く七五六本のホームランが出たことを話した。地元球団を懸命に応援してきたつもりだったが、つい、華やかな話題を提供してくれる人気球団の選手に注目してしまう。地元球団はスポンサーがめまぐるしく変わり、新しい球団名だけを与えてくれるだけで、僕たちの熱い夢は叶えてくれそうもなかった。球団経営が大変なのだろう。残念だが仕方がない。それにしても、やっぱり背番号1は偉大だ。

「河村クン、ほら、あれ」アパートを出て少し歩いたところで、空を見上げたかすみが突然立ち止まって声を上げた。青空をバックに三角翼の紙飛行機が円を描いていた。
 その白い飛行機はゆっくりと僕の足もとに舞い降りてきた。紙の三角機首がアスファルトに当たり、突っ込んだ先端を支点にして前方に一回転した。低速で降りてきた割には、最後はハードなランディングだった。
 僕にはその前のめりの着陸姿勢が可笑しかった。この夏の自分の姿そのもののような気がしたからだ。社会人2年目として、全力で地場の大手スーパーのチラシづくりに努めたつもりだった。だが、そこには未熟な人間が避けては通れない、成長のための厳しい関門が幾重にも待ち構えていた。ヤル気だけの若さはとても危険なものだった。結局、正確さが要求されるチラシづくりで、何度もミスを起こし、得意先はもちろん会社や職場の先輩達にもその都度大きな迷惑をかけた。
 そして、我が身のサイズに合わない正義感を発揮しようと頑張ったことも裏目に出た。結局、僕達を支えてくれている関連会社の人に、暴力を振るってしまうことになってしまった。起因に関する部分は明らかではないにしろ、とにかく僕は苦い謹慎処分を受けた。
 しかし、こんな危なっかしい人間を周囲の人は見捨てなかった。いや、未熟だからこそ、手を差し伸べてくれたのだろう。恵屋の咲田店長には「新人のヤル気」を、先輩の三ツ谷さんにはろくでもない「若気の至り」を、アナザーウェイのアザミさんには「若い男の行動力」を、そしてかすみは僕の「真っすぐな気持ち」を買ってはくれた。
 それらはみな成熟にはほど遠く、立派な男として認められ、讃えられるものではないような気がする。悔しいけれど、まだまだ蒼く甘い。
 僕は自分に励ましの声や、温かい眼差しを向けてくれる人がいることを忘れてはいけないと思った。いくつもの失敗を犯しても、その都度立ち直らせてくれた、それらの多くの思いやりのこころ。その温かさは僕に大切な感受性と深い判断力を、そして今も大きな可能性の芽を育ませてくれようとしているのだ。
 あの二日酔で迎えた残業の夜には、大切な仕事を前に、不覚にも寝込んでしまった。それを見越して、黙って僕の仕事を済ませてくれた三ツ谷さんの姿が脳裏をかすめた。僕に足りない部分を埋めてくれる、強くて温かい行為が思い出される。あの時のように、また熱いものがハートに触れた。目頭が緩み、少し風景が滲んだ。

 僕はかすみに涙を覚られないように視線をそっと上げた。視界に入る瀟洒な洋館は、二階の窓が開いている。大きく解放された窓から、女の子がじっと、僕達二人を見つめていた。「もう治ったのかしら、退院したみたいね」とかすみが口を開いた。僕は足もとでひっくり返ったままの紙飛行機を拾い上げた。それはスケッチブックの画用紙を一枚破いて作った飛行機だった。文字らしきものが書いてあった。僕はすぐに紙飛行機を解いてみた。
「ありがとうございました」とクレヨンで大きな文字が描いてあった。僕はかすみと繋いでいた手を離し、頭の上に指先をつけて上唇の後ろに舌を差し込んだ。さらに鼻の下をぐ~っと伸ばして、あの時と同じようなチンパンジーの顔を作った。門柱の陰からククッと笑い声が聞こえ、僕達に向かって頭を下げる母親の姿が見えた。

[PR]
by hosokawatry | 2014-01-27 12:57 | ブログ小説・あの蒼い夏に


<< あの蒼い夏に〜チラシ作りの青春... 復活 >>