あの蒼い夏に42

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 河村さん、と聞こえた瞬間に鳥肌が立った。そして僕には反射的にその声の持ち主が誰だか判った。年齢とともに渋みを増した、ゆったりと落ち着いた声だったが、抑揚だけは当時と同じだった。よく事情を飲み込めていない僕は動揺の色を隠せないままに、社長の顔を覗き込んだ。
 目元にほんの少しだけ面影を残していた。彼に間違いないという判断を下して見るから判ることだったが、顔の輪郭は以前に比べてかなり丸みを帯びていた。ゆうに三十年以上の月日が流れていたのだから、その変化は当然のはずだった。彼の人生を変えてしまった「顔の色」は、既にその面影もなかった。しかし、なにがどうであれ、今ここに、僕の目の前に立っているのは、間違いなく佐里君だ。

「河村さんの会社の危機を知ったのに、行動を起こすのが遅くなってしまって、申し訳ありません。いろいろと大変だったのでしょうね」と佐里君は僕を気遣う言葉を続けた。そして時間を少しばかりくださいと、僕の目を覗き込んで事の成り行きを話し始めた。
「実は、私の実家は造り酒屋をやっていました。焼酎を造っていたのです。その話も、おそらく河村さんにはお話ししたことはなかったかと思います。ご存知かとは思いますが、焼酎はこれまでに一度、1980年くらいにスポットライトが当たり、『ホワイト革命』といわれた第一次焼酎ブームを経験しました。しかしそれは癖がなくて口当たりの良い飲みやすさだけが前面に出ていた焼酎でした。1990年代に起こる日本酒の淡麗辛口と同じように、いいかえれば牙を抜かれた没個性トレンドでした」
 もちろん僕もそのことは知っていた。その後、それらの焼酎はさっぱりとした味と同じように、未練も残さず、ブームの舞台から降りていったのを憶えている。頷く僕の目を見ながら、佐里君は話を続けた。
 「そして、今は次のブームが来ていると言われますが、今度は本格焼酎ブームです。実家で造っていた焼酎は古くからの手作り芋焼酎で、ホワイト革命では取り上げてもらえなかった、よくも悪くも癖の強い焼酎です。今、そんな不器用な個性をもつ味にやっとスポットライトが当たり始めたのです。これまでとは違う焼酎ブームです。造り続けてきた本格芋焼酎がやっと注目され始め、ようやく私たちの蔵も希望が持てるようになりました。そうやって親から受け継いだ焼酎蔵も少しばかり経営に余裕が出てきたころに、封印していた永年の夢、『文字』にかかわる仕事のことがムクムクと頭をもたげて来たのです。もちろん、河村さんと別れて以来、ずっと、その仕事を忘れたことはありませんでしたが、残念ながらデザイン領域は全てといっていい程デジタル化し、もう昔のように写植を打つ単独の仕事は存在しません。現在はコピーワークもデザインワークもパソコンに頼らないわけにはいきません。もう若くはない私でしたが、意を決してパソコン操作とデザイン用のアプリケーションを習得したのです」

 社長は少しばかり残念そうな表情で窓の外に視線を移した。

 私は伝達手段としてとりわけ文字を重要視していましたが、河村さんはコピーライターなのに文章でなく「行動や熱意」で伝えようとしていたことを思い出しました。優れた伝達手段は表現材料を論理的に組み立てられるものだと言う人もいます。いわば文法のようなものでしょうか。文字のかたちは意味を持つけれど、はたしてそのことだけで、いや、その組立だけで相手に思いの全てが、きちんと届くものでしょうか。私は無理なような気がするのです。それだけでは片手落ちです。
 やはり、言葉をつくる人の態度、姿勢が重要だと思います。それは熱意のようなものです。ライオンの攻撃から我が子を守るシマウマの母親のアドレナリンです。子育てのオランウータンの愛情ホルモンです。姿勢、熱意などエモーショナルな部分を許容しすぎると科学合理性を否定するようなことのように思えますが、やはり、テクニックだけでは限界があるのです。絶対に心が必要なのですね。それは、河村さんと出会って、それがどんなに大切かを身をもって体験した過去があったから解ったことです。それが、あなたから戴いた一番の人生の宝物なのです。
 血の通った広告作りをやりたい。残りの人生をかけてと、田舎の人間にとってはたいへんな決断なのですが、私は父に無理を言い、弟に蔵の経営を譲って出て来ました。ひとつだけ我が儘な条件を飲んでもらって」

 社長、いや佐里君は自分用の大きなデスクに腰掛けると、自分もコーヒーが飲みたくなったと言って、内線で女性にキリマンジャロを催促した。「社員もまだ焼酎蔵より連れてきた事務の女性だけしかいません。超零細企業です」と、笑った。
 「大手の流通業も大苦戦している時代です。それに恵屋さんの経営破綻も大きく報道されました。この時期、自分の夢の実現のためにとはいえ、可能性のない冒険など出来るわけはありません。卑怯かもしれませんが、私は父親に『ある人と一緒に仕事ができるのであれば、新しい会社を起こせる』ことを告げました。もしその人がそれを受け入れてくれるのならという条件をつけました。普通は通るわけのない都合の良いお願いなのですが、両親に無理を言いました。   
 いろいろ調べさせていただいたら、河村さんは福岡市内にいらっしゃるとのことで、河村さんに届けばいいなと『インビテーション』という会社名にしたのです。河村さんと一緒に仕事をしていた時、何処かのショップの招待状を作りましたね。河村さんは確かあの時、インビテーションの欧文をヘルベチカで書体指定をされました。私にはその文字を打ちながら、感じるものがありました。自分を導いてくれる明るい未来からの招待状かもしれないと思えて、本当に有り難かったのを憶えています。河村さんが退社されたのを確認できたので、今度は私が河村さんに招待状を送る番だと思ったのです。私の為にいろいろと頑張っていただいたのを、実はワタリ係長から聞いていたのです。私につきまとっていたその当時の社長を突き飛ばした話も。やっぱり河村さんはコピーライターなのに、言葉より先に、態度や動作にでてしまうんだなんて。河村さんだなあって、笑ってしまいましたが」


 佐里君は受け取ったコーヒーを一口すすり、視線をカップに落とした。
「私と一緒に、また走っていただけますか?」と佐里君は上目遣いに訊ねた。急に屈託のない表情に変わり、あっけにとられる僕の目の前に女神ニケの翼のマークが入ったジョギングシューズを持ち出してきた。
「河村さんは確か二十六センチでしたね」と、微笑んで僕に差し出した。

「私は賭けました。求人広告で『インビテーション』という会社名が河村さんに伝わるだろうか。伝わったら河村さんと一緒に会社を興そうと。私は一世一代の広告を打ったのです。それがチラシだったら、さらによかったのでしょうが。コミュニケーションの大切さを、その力を知っておられる人とだったら、そしてまだその心が残っておられたら、一緒に仕事が出来ると思ったわけです。私は迷ってはいません。一度は死んだ人間です。そう、あの夏に。蒼かった夏に」と、当時の想い出を噛み締めながら話す佐里君の表情が強張った。間髪置かずに頬を一筋の涙が伝った。そして溢れる涙に「あの時の、ただ、河村さんの気持ちだけが嬉し…」と、言葉を詰まらせてしまった。「…嬉しかった」

 僕はこれまでに味わったことの無い静かな感動に震えていた。あの佐里君が目の前に現れて、就職に困っているハローワーク通いの人間にぜひ一緒にとお願いしている。シンデレラのジョギングシューズをさしだしながら。魔法にかかっているのなら覚めないで欲しいと願った。

「不摂生がたたって、血糖値と中性脂肪値が高いですが、こんな私で良かったら、ぜひ一緒に走らせて下さい」と言って、僕はペニーローファーから足を抜いた。ジョギングシューズに足を移して、紐を締め直すと、上着を脱いでネクタイをはずした。
「私も走ります」と言って佐里君もネクタイを緩めて、襟元からすっと抜き取った。シュッと気持ちの良い音が聞こえた。
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by hosokawatry | 2015-10-12 13:25 | ブログ小説・あの蒼い夏に


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