あの蒼い夏に 〜チラシづくりの青春・13〜

  


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 営業の金井さんが指のVサインを蟹の爪のように閉じたり開いたりさせながら、僕の席にやってきた。
「河村は確かセブンスターだったよな?」と、口元に笑みをたたえながら、これ以上ない明るい笑顔で僕にすり寄ってきた。僕がセブンスターを吸っていることを去年から知っているはずなのに、今朝もまた同じフレーズだ。しかし今日の彼のにこやかさは尋常じゃない。この笑顔、1本じゃ済まない。僕のセブンスターの2本、いや3本は確実に持っていかれる運命にあった。
 金井さんは自分の利益のことだけに集中できる天才だ。社内では手の内を証されているにもかかわらず、「課長はショートホープだったですよね?」と擦り寄る神経の太さ。あきれるほどの鉄面皮なのだ。やる気満々の雌ヤブ蚊だって、彼の顔だけには針を立てられないと僕は確信する。
 ビール瓶を持って回る宴会の時には、金井さんのタバコの箱はいつもいっぱいに膨らんでいる。白や茶色のフィルターがいろいろ混じっているのを知らない人はいない。僕は息を飲んで覚悟した。営業の前田がこちらを見てにやにやしている。

 金井さんは僕のセブンスターのパッケージから3本抜いて、福岡競艇場にいるお兄さんのように、両耳に1本ずつタバコを挟み、3本目は僕のジッポライターで火をつけてふ〜っと、旨そうに煙を出した。そして「いつも済まんな」と一言残してすたすたと歩いていった。金井さんが歩いた後には草は1本も生えていなかった。
 野瀬課長の席に近寄り、新聞のスポーツ欄に目を通していた課長に「王は756号間違いないですよね」と金井さんは声をかけた。阪神ファンの野瀬課長はあまり嬉しそうな顔はしなかったが、「世界新、いきそうやな」と声を返した。「巨人は嫌いやけど、王と長嶋だけは憎めんのや」と、残っていたお茶をグビッと飲み干した。そして、机の端を中指を立てて「コン・コン・コン」と3回叩いた。同じ阪神ファンのワタリ係長もすぐに「ハンク・アーロンは抜かれますね。残念だけど」と奇妙な相槌をうった。

 僕は笠木君と同じ同期入社デザイナーの中川キヨシ君からコピーライティングを頼まれた。そのファッション衣料専門店のDMに入れるヘッドラインを午前10時過ぎに書き終えた。デザインがよければコピーのペンも気持ちよく走る。キヨシ君のデザインはディテールにはこだわっていないように見えるが、よく見れば気配りが行き届いているのが解る。その感性は素晴らしいと思う。だが、未熟な僕にとってはそれ以上、その素晴らしさの説明が上手くできない。「制作ディレクターを目指すのやったら、デザインでけへんでもデザインを理解することくらいできんとあかんわ。デザインの良し悪しを判断できんやったら、デザイナーに指示を出すことや、得意先を納得させることもでけへんわけやから」と、課長からは言われたことがある。
 僕のコピーはキヨシ君のデザインの上に乗り、頼りなくもなんとかその格好を保っていた。そのコピーライティング能力は、まだ夜の漆黒が濃い時だけにその存在が確認できる3等星のようなものかもしれない。悔しいけど。

 コピーを書き終えた後、すぐに2階の誰もいない商談室に向かって、階段を駆け下りた。慎重にメモ用紙の電話番号を見ながらダイヤルを回した。「今日は間違いなく大丈夫だと思う。午後7時にブラジレイロの2階で会おうね」とかすみに連絡を入れた。商談室を出るところで藤木女史とすれ違った。なぜか彼女はニタニタしながらウィンクをして「幸せそうね」と言った。もしも会社に諜報部ができたら、彼女にはすぐに部長の椅子を用意しなければならないだろう。出世は違いない。

 午前中にもう2件の仕事をこなさなくてはならないのを、自分の予定表で確認した。来週折り込み予定の「夏休み突入、レジャー用品セール」の版下完成を急がなくてはならなかった。文字のチェック、掲載する写真の確認を始めたとたん、僕の担当店「恵屋、花村店」から電話がかかってきた。店長の咲田さんからだった。僕はその瞬間、午後7時からのかすみとのデートが脳裏をかすめた。嫌な予感がした。
「河村君、今日の夕方に店の方まで来れないね? ちょっと頼みたい仕事ができたもんだから」
予感は的中した。僕は今日の仕事のスケジュールとその後のかすみとの時間を頭の中に書き出し、整理をしようと焦った。フル回転で脳を回しながら対策を立てようと試みたが無駄だった。僕には白旗の選択肢しか用意されていなかった。
「夕方のお時間は何時頃がいいでしょうか?」と咲田店長に訊ねた。
「そうだな、閉店時間が7時だから、6時30分過ぎ。いいかな、そんな時間で?」
 最初は夕方だと言ったのに、6時30分過ぎは夕方ではないじゃないか。神様のさいころは僕の望みを危ういものにしようとしている。しかし文句を言っても始まらない。仕方がない。
 花村店は郊外店舗で、僕の会社から車でとばせば20分の距離だった。店長との話が30分だとすれば、帰り着くのが午後7時30分くらいになる。かすみちゃん、ごめん。
 僕は多くの20代サラリーマンアンケートの結果と同じように、デートより仕事を優先させようとしていた。
「分かりました。お伺いします」と僕は複雑な気持ちを悟られないように、少し元気に応えた。
「すまんね。いつも急で」
「営業の湯浦は今日は宮崎の方に出かけていますけど…」
「いいよ、河村君だけで」とあっさりと咲田店長は電話を切った。

 僕は慌てて2階の商談室に走り、かすみに電話を入れた。
「解った。じゃあ7時30分過ぎにブラジレイロで。河村君の神様もなんだか怪しいもんだ。でも、しょうがないよね、仕事だから」とかすみは言った。僕は午後7時30分が確約できなかったので、7時30分「過ぎ」という婉曲的な言い回しを使った。

昼のFMニュースで、今日にも出されそうだった九州北部の梅雨明け宣言は、すこし延びそうだと言うアナウンスがあった。暑いのは嫌いじゃないけど、僕は湿った空気だけには馴染めなかった。しかしもう少しの辛抱で梅雨が明けるのは間違いない。我慢、我慢。
 午後から周りの人の声が聞こえないくらい珍しく集中して仕事を進めた。しかし、途中一度だけ僕のその張りつめた時間は笑い声で破られた。
 午後3時過ぎにキヨシ君が買ってきた缶コーラを受け取った三ツ谷さんは、昨日と同じようにスックと立ち上がった。間髪入れずにキヨシ君が「ウルトラマンさんコーラは好きですよね?」と質問した。三ツ谷さんは大きくうなずき、缶コーラを握りしめ、その腕を天井に向けて力強く差し出した。

「シュワッチ!」

 職場と言う風船に針は立てられた。僕は思わず吹き出してしまった。ワタリ係長も笑っている。破裂した風船から勢いよく吹き出した笑いの空気。口元を緩ませた空気はそのまま職場を包み込む。緊張が緩む瞬間。頭に対する3時のおやつ、心のコーヒーブレイク。睡眠不足で半分死にかけている制作マンもみんな生き返る。

「本当はサイダーの方が好きなんでしょ? 三ツ谷(三ツ矢)さんは」と竹田さんがツッコンだ。
「ハハハ、ばれたごたるね」と三ツ谷さんは三ツ矢さんになって笑った。

 永野さんは笑顔を見せずに静かに席を立ってトイレに向かった。
 夕方に流舁が始まった。明日の未明に控えた本番に向けての最後の舁山だ。危ういビルの壁を通して、路地を熱気が駆け抜けるのが感じられる。曳山が抜けるまで、車は通れない。僕は流舁が終わったところで恵屋さんに出かけることにした。その時間がやってくるまで、黄色ラッションペンを紙面に走らせた。



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by hosokawatry | 2007-03-12 00:22 | ブログ小説・あの蒼い夏に


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