あの蒼い夏に 〜チラシづくりの青春・16〜




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 僕は冷静さを保とうと努力したが、無理だった。机の上には腹を空かした池の鯉のように、口をぱくぱく開けた仕事が群れをなして待っている。会社に戻るストーリーが脳裏をかすめた。無意識の中で天秤のバランスが「諦め」に傾きかけ、僕の迷える足はふらふらと会社の方角に30歩ほど向かった。

「上出来だ。早く会社に戻って、いつものように仕事をするのだ」と悪魔の声が大きくなった。

 その瞬間、あなたのもとへ帰れたら素敵、と歌うヘレン・メリルの昨夜の声が聞こえて来た。僕は顔にかかった水を嫌う猫のように、顔を振って悪魔の声と夏の湿った夜気を振り払った。急にエジソンの電球が頭の中で点灯し、ネガティブな霧が少し晴れた。 今日は仕事よりかすみを選んだのじゃなかったのか、僕は。昨夜から、思い続けたのはかすみとの時間じゃなかったのか。僕は慌てて踵を返し、ブラジレイロに向かった。

 僕は珍しく諦めなかった。
「短い髪の毛の女の子がもし来たら、これを渡してもらえますか? 名前はかすみって言います」と無茶を言って、屋台『晴照』で待ってるよと書いた名刺をレジにいるウェイトレスに渡した。普段なら照れくさくてできない事も、難なくできた。可能性がゼロでない限り、できる事は何でもしようと思った。しかし、親に嘘をついて出てきたかすみの家に電話をかけるのはずいし、できる事は限られているが…。

 冷泉公園横の屋台は櫛田神社から200メートルほど離れたところにある。僕は『晴照』に行く途中、ポケットの中の10円玉を確認した。冷泉公園横の公衆電話ボックスから、事情を多少は知っている会社の笠木君に電話をかけた。自分宛に電話がかかってこなかったかを確認した。万一、電話が入れば、屋台の晴照にいると伝えてほしいと頼んだ後、佐里君のアパートに電話を入れることにした。佐里君は不在だった。ステップ写植の社長の言葉が蘇り、別の心配が膨らむ。まだ、帰り着いてはいないのだろうか。
 僕はコール音を10回聞き届けた後、フックに受話器を返した。手がかりをつかみ損ねた両手をポケットにしまって、夜空を見上げた。午後7時過ぎまでは晴れ間ものぞいていた冷泉公園の上空は、いつの間にか厚い雲に覆われている。月は見当たらない。打つ手をなくしたやるせなさに僕は喘ぎ、湿った闇に息苦しさを感じた。ネガティブな霧が再び僕を包み込み始めている。少しうつむき加減でゆっくりと『晴照』に向かった。

「やぁ、衆ちゃん。仕事の途中ね? ん、終わったと。珍しかね〜」
 晴照の大将はのれんを割って中を覗く僕を見て言った。
「いっぱいですね。後にしようかな…」
 僕は少し口ごもった。
「今日は早すぎるとじゃかないと?」と大将の奥さんがホルモン焼きを客に差し出しながら言った。熱せられた鉄皿からはジュー・ジューとホルモンの脂が飛び跳ねている。
「何事?」と白波の水割りをつくりながら大将が訊ねた。
「ええ、ちょっと。待ち合わせで…」と言ってその場を離れようとした。

「ちょっと待ちんしゃい」
「はっ?」
「特別野外席をつくったげるから。飲むとでしょ?」
奥さんは屋台の横の出入り口から出て来て、ビールケース4箱を足にして木の板を上に置いた。背もたれのないパイプ丸椅子を周りに4脚配置して「屋台の中より、気持ちがヨカよ」とにっこり微笑んだ。
「ビールば出そうね」
「ビールは後でいいです。できれば水をもらえたら嬉しいです。すみません、いつも忙しいときに来て」と、僕は頭を下げた。
「気にせんでちゃヨカよ、そげなこと。あんたはお客さんやろ。頭を下げるのはうちの方たい」と奥さんは言った。

 屋台の中からTVやラジオでよく耳にする標準語が聞こえ、博多弁が応え、わっと笑い声が広がった。笑い声が大きくなるほど、僕は縮んで行く。冷泉公園近辺は追い山見物の観光客でいつもより人が多い。僕が座っている歩道特設野外席の後ろを大阪弁が通り抜ける。その大阪弁は野瀬課長の関西弁よりもっとコテコテしていた。通天閣の近くの囲碁将棋センターの中で聞けるような、オクラ真っ青の本場の力強いねばりだ。今夜の博多は「言葉博覧会」の会場になっている。話し相手がコップの水だけの僕は、ため息だけだから「言葉博覧会」には参加できない。

簡易テーブルに飲みかけの水を置いたとたん、一人ぼっちが身にしみて来た。蒸暑いのに心細くて寒いという奇妙な感覚が襲ってくる。その瞬間、鳥肌が立った。


 背後の歩道から両手が伸びて、僕の両目を塞いでしまったのだ。
「かすみちゃん?」と僕は高い声でとっさに反応した。

「ふん、残念でした。アザミよ、ア・ザ・ミ」と、広い肩幅の持ち主は低音で答えた。「河村君でしょ、やっぱりね」

 クラブ「アナザー・ウェイ」のアザミさんは僕の顔から両手を離し、満足そうに微笑みながら正面に回った。ドレスから覗く足の筋肉は「オトコ」を隠しきれていない。アザミさんは立ったまま僕を見下ろすと、すぐに声を低くして言った。
「悪かったわねぇ、かすみちゃんでな・く・っ・て」 
 過剰な香水の匂いが鼻先をかすめた後、すぐにその場を支配した。目眩がするほどの圧倒的な香りの真ん中に大柄なアザミさんが立っている。
「いっ、いや、その、そういう意味じゃなくって…」
 今の僕は冗談でかわせるほど陽気ではなく、正直に喋れるほど強くもない。

「ところで、誰なの? かすみチャンって? まさか彼女じゃないでしょうね。この前、店で会ったときは彼女いないですって言ってたわよね?」
「ん〜、その」と僕は困った。
「彼女なんでしょ?」
「いや〜、そんなんじゃ」
「何なの、かすみって。よくわからないわね。彼女じゃないとしたら、ボゥ〜ッとした春の空気みたいなものなの? えっ?」と、アザミさんは語気を荒げた。
「と、ともだちです」
「そう言うと思ったわ? この新幹線男」
「はっ?」
「新幹線よ、新幹線」
「僕が新幹線ですか?」
「そうよ、最悪よ」
「よく分からないんですが?」
「素早くいきたくて、なりふり構わずすぐに『えき』を飛ばす卑怯ものよ」
「えっ……?」
「オトコなら分かるでしょ、液を飛ばすくらい」
「………ははは、駅を飛ばすですか、上手ですね」僕は少し緩んだ。
「はははじゃないわよ。えきを飛ばした後はすぐに忘れてしまうのよ。わかる? そして、別のえきを目指して一直線。たまんないわね、そんなオトコを相手にするオンナは。辛いわよ、まったく、もう。そんなオトコに限って好きなものを好きってきちんと言えなんだから」
 顎の辺りを白く入念に塗っているアザミさんはそう言いながら、怒ったような表情をつくり、僕の股間を大きな手でぎゅっと握りしめた。「うっ」と僕は驚いて身をよじってその手をつかもうとしたが、その前にアザミさんは素早く手を離した。

「僕はそんなんじゃありません」と僕は少しむっとした。

「ははは、冗談よ、冗談。分かってるわよ、河村君がそんな人間じゃないってことくらい。アザミよりかすみの方が爽やかな感じがして、ちょっと嫉妬したのかもね。ごめんなさ〜い。それに河村君がいい人間だから、ついつい、突っ込んでみたくなるのよね。あらっ、突っ込んでみたくなるなんて男みたいでいやだわ」とアザミさんは苦笑いをした。そして、腕時計に目をやると「あらこんな時間」と言って、「行かな〜くちゃ」と井上陽水の口調で歌い始めた。
アザミさんは「たまには遊びにきてね」と上川端商店街の方に歩きながら言った。さらに5歩ほど歩いて立ち止まり、振り向きざまに「元気だしなさいよ」と僕をまじめに励ました。
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by hosokawatry | 2007-08-25 19:14 | ブログ小説・あの蒼い夏に


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