あの蒼い夏に 〜チラシづくりの青春・17〜


 
                    17


 僕は屋台から洩れている弱いオレンジ色の光の中にいた。屋台の中からはプロ野球中継のよく聞き取れないアナウンスが聞こえる。コップの水を飲み干し、腕時計の文字盤に目を落とした。午後8時30分になろうとしている。不意のアザミ爆弾は落ち込んでいた心を瞬間的に救ってくれた。しかし問題が解決した訳ではなく、浮かない表情に変わりはない。立ち上がって首をまわし、周りの風景にかすみの存在を探ったが見いだせなかった。
 テーブルの端に乗った中央が少し凹んだフランスパンの紙袋が目に入った。このところ写植間違いが続いている佐里君の顔が無意識に蘇る。佐里君が打ってくれた「フランスパンフェア」のタイトル文字がネオンサインのように、脳内スクリーンを点滅しながら消えていく。

 そして、やっぱりかすみはこの場所にいない。

 不可抗力だとはいえ、30分の遅刻がこんな事態を招いたのだ。ブラジレイロの店内の様子が浮かび上がってくる。僕は満身の憎悪を振り向けて自分を責めた。屋台の簡易テーブルの前で、形の無い何かに押しつぶされようとしている。苦しかった。今はため息をごまかす煙が必要だ。胸ポケットのセブンスターに手を伸ばそうとしたその時、小さな圧力が僕の両目にかかった。

 僕は再び背後から視界を遮られた。しかし今度はずっと小さな両手で。

「アザミよ、ア・ザ・ミ」と小さな手の持ち主は精一杯の低音でゆっくりと発音した。僕は瞬間的に理解に達し、笑いを噛み殺した。僕は心臓から送り出される血流が速くなるのを感じながら、こめかみから全身に広がっていく温かさを楽しんだ。安堵感が全身から緊張の神経を抜き取っていく。そっと両手を振り解いた。アザミさんよりずいぶん温かくて小さな手だ。僕は腰掛けたまま後ろを振り向いた。

 赤いTシャツとブリーチアウトジーンズのかすみがちょこんと立っていた。ベージュの雑材バッグをたすきがけのように、肩から斜めに掛けている。僕と視線を交わしたかすみの表情はこわばっていた。かすみは笑顔を無理に作ろうとしたのがいけなかったのか、失敗して表情が一気に壊れた。感情のダムが決壊してしまったのだ。僕を見つめる瞳を濡らし、大粒の涙がどっと流れだした。
 僕は少し狼狽しながらも反射的に立ち上がり、「ごめん」と言って肩を抱き、背もたれの無い丸椅子に座らせた。いつもは陽気なかすみだけに、これまでに見せたことのないないぎこちなさと溢れる涙の量に驚いた。今日、僕と会えるまで健気に頑張っていたのだ、かすみは。そういえば僕だって、ずいぶん縮んでいたし、妙に心細かった。僕はもう一度「ごめん」と声をかけ、吸おうと思って出していたセブンスターを一本引き抜いて火をつけた。

 途方に暮れていた時間の切なさを、煙と一緒に冷泉公園方向の空に吐き出した。僕はタバコに感謝した。

「ビールでいいかい?」と訊ねると「ぐすん」と首を縦に振った。
「焼き鳥は? 豚バラとか鶏さんでいい?」と僕は訊ねた。
かすみは「うん、うん」と2回頷き、少し笑顔が戻った。
「最後はとんこつラーメンだよね?」と確認すると、かすみの表情に満月が宿った。
 保護色を求めるカメレオンのように、食べ物につられて簡単に表情が変わって行くかすみの様子が可愛かった。そして、僕も救われた。
 僕は屋台の勝手口から晴照の奥さんにそれらを注文した。

 かすみは7時20分にブラジレイロに到着した。とても混んでいて2階奥の席しか空いていなかった。ブレンドコーヒーを注文し、僕が来るまでと、宮沢賢治の文庫本を読み始めた。約束の7時半を過ぎても、仕方ないわねと本を読み続けた。途中8時前に注文の多い料理店のところでトイレに行った。少し心配になったがきっと大丈夫よと、また本の続きを読みはじめた。さすがに8時15分になると落ち着かなくなり、小さい自分の姿を見落とされたんじゃないかと席を立って店内を回り始めたところ、店の人に呼び止められた。かすみは名前を確認されると名刺を一枚渡された、と、ビールを飲みながら僕に話した。「まあ結局、こうして最後は私が望むように、神様はサイコロを振り間違えてくれたけど」と口を尖らせた。最後に「とても、長かったけど」と付け足した。

「ところで、アザミさんって誰?」と、焼き上がった豚バラ串を手に持ちながらかすみが訊ねた。
「えっ」
 僕はその瞬間、嫌な予感に支配された。「アザミよ、ア・ザ・ミ」で始まった今夜のかすみとの時間。アザミさんとのことは黙ってやり過ごす予定だったが、無理矢理引き戻されてしまった。かすみはしっかり気に留めていたのだ。
「やっぱり河村クンでしょ、とか言ってた身体の大きい人」
「え〜、聞いてたの?」と、僕はばつが悪そうに人指し指の背で鼻をこすった。
「慌てて、屋台に来てみたら、河村クンが女の姿をした男の人と話しているし、おまけにその男の人に触られて、遊びにきなさいとか、元気だしなさいとか言われていたし」とかすみは早口で喋った。「私が今日楽しみにしていたデートの相手が、そんな趣味の人だったとはね〜」
「……」
「新幹線とか駅をどうするとか、よく聞こえなかったけど」と、かすみは言った。
「うっ、うん」と、僕は焦った。「ほんとうに僕だって、よく解らない話なんだけど…」どうしてこんなに短い時間の間に、男性と女性の両方から攻められなくてはならないのだろうか。
「河村クンのこと本当に信じていたし。これまで、そんなこと一度だって話してくれなかったし」
「………」
「私、ショックだったわ。こんなに悲しくなったの久しぶり、こんなに涙が出たのも」
「えっ、さっき泣いたのは?」
 裏切られたようで悲しかったと、涙の理由を聞いて僕は唖然とした。逢えない苦しみと憔悴感から解放された歓びに泣いたのではなかったのだ。女性はやっぱり難しい。
「そりゃ、男の人が男の人を好きになっちゃいけないなんて、そんなこと言うつもりはないし、誰にだってそんな権利はないと思うけど、でも付き合っている相手に黙っているなんて最低よね。だめだよ、そんなの」

 僕は懸命にかすみの誤解を解こうと頑張った。付き合いのある印刷屋さんの営業担当が「アナザー・ウェイ」というオカマバーに2度ほど連れて行ってくれたこと。けっして、そちらの趣味は絶対にないということ。もちろん、アザミさんとは何もあるはずがないということ。こういったことは、会社の付き合いの中でよくあることで、普通はあまり喋る必要のないことなのだ、と僕は自己弁護した。かすみは結局、僕の必死の説明を鶏の砂ずりと一緒に飲み込んでくれて、納得してくれた。僕は違う種類の汗をかき、深呼吸ではない大きなため息をついた。その大変さはTVの値段間違いの理由を野瀬課長に報告することと変わらなかった。

 二人連れが綺麗な標準語でお礼を言いながら屋台から出てきた。
「衆ちゃん、入ってこんね」と晴照の大将が顔を出して手招きした。

「こげなべっぴんさんば連れて来るとやったら、言うてくれとったら空けとっちゃるとに」
 大将はかすみを見ながらニヤニヤした。かすみは素直にニコニコと笑顔を返して座った。
  
 僕はおでんを注文した。こんにゃくを噛みしめ、巾着餅に口の中をやけどしそうになった。かすみは辛子明太子を卵で巻いた「めんたま」を頼んで、楽しそうに箸で壊しては口に運んだ。「ふ〜ん、河村クン達はいつもこんなもの食べてんだ」と興味深そうに、「あぶってかも」をつつく僕の皿を眺めた。
「彼女はこげなスズメダイやら、見たことなかったろう? こん魚は博多じゃ『あぶってかも』と言うとやけど、ばってん、スーパーとかじゃ売りよらんしね」と、大将は言った後、焼酎がこの「あぶってかも」には最適だと教えてくれた。僕は芋焼酎をロックで頼んだ。かすみは臭いお酒ねと芋焼酎をやめて、日本酒を注文した。

 「あんた達は強かバイ」と大将が驚く間にも、二人にはアルコールが確実に沁み続けている。
 話が男らしさに移った。僕は男の夏はしっかりと日焼けして逞しさを感じさせる方が素敵だと言ったら、かすみはそうでもないと言った。浅黒くてマッチョなだけの男はごめんだわ、と言った。大将がその言葉に反応した。
「そうゆうたら、今日8時過ぎだったろぅ、色の白い男ん子が黙って屋台の中ば覗いて行きよったけど、あげん顔の白かったらいかんバイね、男なら」
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by hosokawatry | 2007-10-08 18:21 | ブログ小説・あの蒼い夏に


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