あの蒼い夏に 〜チラシづくりの青春・23〜


                    23


 半数の制作スタッフが出社していたが、午後3時を回ると多くの人が帰り支度をはじめだした。一人二人と人が減り始めて、電話の受話器を掴む手の数も減っていく。隔週休の土曜日にかかってくる電話の件数は多くはない。最近は週休二日制への取り組みへの得意先の理解も進み始めている。
 そのぶん、かかってくる電話は緊急度の高いものが多くなる。内容は深刻なクレームの確率が高くなり、応対に手間取るものも少なくはないことをみんな知っている。担当以外の案件だったとしても、きちんとした会社対応が求められた。辛いけどクレームに対する対応責任は全ての社員に共有される。
 5回目のコール音でやっと竹田さんが受話器を手にした。今日は出社していない永野さんの担当店からの電話だった。竹田さんは永野さんと同じグループに属する僕に内線で電話を回した。
 
 来週売り出し予定の商品入荷が急に出来なくなったとのことだった。チラシにはメインで大きく扱っている商品なので、紙面修正してほしい。お客さんに迷惑はかけられないので進行を止めてほしい。印刷にかかっていたら、印刷を止めてでも訂正してほしいという依頼だった。
 依頼に対して、誰がその判断を下すにも現状の工程状況把握が必要だった。僕は折り返しの電話を約束して受話器を置いた。まずは現状把握をしなくてはならない。最初に永野さんの机の引き出しから、該当するチラシの最終コピーを探し出した。僕は問題の商品を確認した後、工程伝票を調べた。このチラシを印刷するのは大博多印刷だった。

 永野さんのアパートに電話をしたが留守だった。担当営業の湯浦さんも、ワタリ係長もこの日に限って出社していなくて、家の方にもいなかった。
 大博多印刷への問い合わせには、今日午後6時過ぎから輪転機を回す予定だという返事連絡が入った。得意先の担当者の要望を聞き入れるためには、いくつかの手強いハードルがある。
 今から版下修正するには時間がかるということ。そしてそれを製版してフィルムをつくり、さらにそれからアルミの刷版を作ることになる。まだその他にもしなくてはならない工程があった。
 大博多印刷は印刷に入る時間を延ばしてくれるだろうか、やり直しで生じる経費はどうなるのだろうか。僕だけの判断で結論は出せない。
 早い決断が求められるのに、担当者や上司は捕まらない。僕は焦った。野瀬課長の自宅にも電話を入れたがゴルフに出かけていた。

 過ぎ行く時間が焦りを誘う。頭の中で黒い悪魔が「ご苦労なことだな」と僕を冷やかす。

 独身寮に電話を入れ、最後の可能性に懸けた。10回目のコール音が始まるときに受話器は上げられ、声が聞こえ始めた。

「衆矢か。まだ仕事ばしよるとか? お前は『終夜』という名前やけん、休日の昼間に仕事はしちゃいかんやろうが」と三ツ谷さんは笑いながら冗談を口にした。
 三ツ谷さんは中洲のパチンコ屋に本日第2ラウンドの出撃をかけるところだった。偶然にもつかまえることができた僕はいきさつを話し、三ツ谷さんに判断を仰いだ。恵屋さんには最近迷惑をかけることが多かったので、先方の担当者の希望を聞き入れたほうが良いと三ツ谷さんは言った。
 大博多印刷の営業部長に連絡を取ってくれ、印刷時間を深夜に組み替えてもらった。
「すまんバッテン、衆也。版下変更をしに大博多印刷に行ってくれんか。忙しかろうけど」と三ツ谷さんは申し訳なさそうに言った。

 僕はすぐに依頼を受けた恵屋の担当者に電話をした。カットする商品の代わりに、同じ紙面に配置してある商品を大きくすることしかできないことを伝えた。
 大博多印刷まで会社の白いライトバンを飛ばした。着くとすぐに紙面の修正指示を伝え、間違いのないようにと念を押して打ち合わせ室を出た。本当は出来上がってくる製版フィルムのチェックを終えてから帰るべきだろう。今日の僕は長く待てなかったので、チェックはその工程のプロに任せることにした。

 西空の太陽は夕方なのに高かった。夏至からはまだ一ヶ月も過ぎていないので、昼はまだ長い。僕は車のアクセルをふかせながら腕時計を覗き込んだ。3時間くらいかかってしまったのは痛かったけど、これも仕事だ。仕方がない。
 問題が解決してみると、自分の仕事ではなくてもたいへん気持ちが良かった。これで怒りっぽい永野さんが喜んでくれたらもっと良い。営業の湯浦さんから「手間とらせたな」と、礼の言葉をもらえたら良いだろうなと思ったが、顔を思い浮かべると「それはないだろう」ということを再確認させられた。

 会社に戻ると、仕事を途中で投げ出した机の上には、ノートが開いたままになっていた。「感謝&挑戦」というコンセプトが書き込まれている。その先の表現を考えなければならない。
 土曜日夕方の職場はまた、竹田さんと僕の二人っきりになっていた。

「河村、今日は何時に終わるんや?」と竹田さんが声をかけてきた。
「もう、長くはかからないと思います」と応えたら、飲みにいかないかと誘われた。僕は、佐里君がアパートに現れるので、残念だったけど誘いを断った。竹田さんは後頭部に近い首筋をポリポリ掻きながら、そうか、じゃあまたな、と言った。懐かしいジャニス・ジョプリンの熱い声がラジカセをふるわせている。
 
 暑い暑いと言いながら外回りから戻ってきた営業の金井さんが寄って来た。相変わらず、人差し指と中指を蟹の爪のように閉じたり開いたりしている。僕はすぐにセブンスターを差し出した。 

 今日はメインのビジュアルとフレーズのアイデア出しまで終わらせなければいけなかった。そして、持ち帰っている花咲店の開店一周年記念セールの原稿整理も済ます予定だった。
 予定通りに進まないもどかしさを抱えながら、コピーフレーズの2〜3本位は書き出そうとペンを握った。そのとたんに電話のベルが鳴った。

「もしもし、先日のチラシ校正分の追加訂正ですけど、まだ間に合いますか?」
 やれやれ。竹田さんも受話器を握りしめて苦戦していた。自分の仕事ができないでいる。




 結局僕はコピーを一本だけ書いて、会社を退散してしまった。アパートで佐里君と飲むことにしている。つまみを買うために商店街のスーパーに立ち寄った。そして酒屋で缶ビールを半ダース買った。
 シャワーを浴びて、ベランダの窓を開け放って佐里君を待った。薄暗くなってきた隣のテニスコートの端をとら猫がゆっくりと歩いている。
 僕はタバコに火をつけ煙を輪にして一個吹き出した。宙で直径が大きくなっていく煙の輪に向かって、素早く次の小さくて元気のよい輪を吹き出した。小さい輪が大きい輪の中をくぐり抜け、窓の外に消えていく。
 ロバータ・フラックの「やさしく歌って」が大型ウーファーを備えたスピーカーから流れ出す。案外熱いコーヒーも美味しそうだな。僕は一瞬ごとに闇が増していく、とら猫が通り過ぎたテニスコートの暗がりをじっと眺めていた。
 佐里君はまだやって来ない。
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by hosokawatry | 2008-08-04 00:35 | ブログ小説・あの蒼い夏に


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