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あの蒼い夏に 〜チラシづくりの青春・28〜





                    28
  

 水曜日の午前中、永野さんと三ツ谷さんと僕は年末年始プレテのチームミーティングに入った。一時間少しでコンセプトをとりまとめ、クリエイティブ表現のアイデアを出し合った。
 月曜日に三ツ谷さんがパンチを繰り出す原因になったいわく付きのチームミーティングだったが、すんなりと終わってしまった。高ぶらないように極力声を押さえながら話す永野さんと無表情を貫く三ツ谷さんの二人に、いつもの熱気が感じられない。僕だけが二人の間で、母親を捜す幼いペンギンのように心を乱しながら右往左往した。
 結局、僕が考えた「あなたに感謝」が年末最後の折り込みチラシのメインフレーズに、「もっとあなたのために」というフレーズが元旦に折り込む初商チラシ用に決まった。年末チラシはお客様からの感謝と苦情の手紙の写真をメインビジュアルにして、ボディコピーで御礼と反省の気持ちを表現することになった。初商用のチラシは決め手となるような案が出なかったので、再度アイデア出しをすることに決めた。

 珍しく佐里君から午前中に電話があった。
「メンズショップの案内状ですけど」
「ああ、あのDM、何かあったの?」

 僕はスーパーのチラシ以外にも、メンズショップの会員向け特別セールの案内DMはがきの作成を頼まれていた。営業の湯浦さんからの依頼で、僕の好きなトラッドファッションショップの仕事だった。
 営業の湯浦さんが先方の販促担当者との打ち合わせに出かける。その持ち帰った抽象的な話を、説得力のある格好良いデザインへと具象化させるのが僕の制作としての仕事だ。僕はいつだってストアコンセプトに沿った最高の表現を目指した。それも、新しいトレンドやユニークさをちりばめて。しかし、デザインやコピー表現の最終的な採用・不採用の判断基準は、ショップの店長や社長の好みにゆだねられた。
 クライアントの感性次第、時には気分次第を、僕たちには科学的に乗り越えるためのデザインの理論武装をする必要もあった。「誰が、何を、いつ、どこで、どのように、どうした」という広告作りの基本である5W1Hという理論のフィルターも、頭の中では常に稼働させていた。そして流行通信や多くのファッション雑誌に、デザインの新しさを絶えず探した。
 しかし「上手くできた」と思った時ほど、クライアントの感性に同調することができなくて、ダメ出しを食らうことが多かった。まだ、僕には野瀬課長がいつも口を酸っぱくして言う「半歩先の感性」というものがよく理解出来ていないのだろう。言葉では分かったつもりでも、半歩先の程度を掴みきれないでいる。いつだって懸命に、無意識の中で半歩に思える三歩先を目指そうとしていた。
 校正に出かけた湯浦さんがクライアントに受け入れられずに、不機嫌な顔をして帰ってくることも多かった。不機嫌な顔は新たなデザインを緊急に求めてくる。僕にはそれがたまらなかった。緊急制作にも精神的負担は重くのしかかったが、自分の能力のなさに強い嫌悪感を抱いてしまうことのほうがもっと大きかった。

「『INVITATION』の書体指示にGと書いてありますが、へルベチカでいいですか?」と、佐里君は静かに訊ねた。「余分な飾りがなく、一番落ち着いた書体です。スイスで生まれた書体なんです」
「う〜ん、へルベチカねえ」
「河村さんのような誠実な書体です」
「佐里君も巧くなったね、薦め方が」
「ふふっ、もう二十歳だから」
 佐里君は僕の言葉に純粋に照れながら、みずみずしい謙虚さで応えた。
「じゃあ、それにしよう。その誠実な書体に」
「はい、へルベチカにします」と、佐里君は嬉しそうな声をあげて電話を切った。


 昼休みの少し前に永野さんに電話がかかってきた。永野さんは「少し待っていただけますか」と言いながら、その店のチラシの印刷見本を藤木女史に持ってくるように頼んだ。永野さんは藤木女史が刷見本を用意する間にも、受話器の向こうからの声に顔をみるみる緊張させていった。
 永野さんが広げたチラシのレイアウトには見覚えがあった。

 まさか!

 嫌な予感は的中した。
 先週の土曜日に大博多印刷に出向いて修正指示を出したあのチラシだ。花柄プリントのワンピースが手違いで入荷できなくなったので紙面から没にして、近くにあった無地ワンピースを代わりに大きく配置し直したチラシだった。永野さんが三ツ谷さんに殴られる原因にもなったチラシだ。
 永野さんは「はい、申し訳ありません」と2回続けて謝った後、頭を下げたまま受話器を置いた。紅潮した顔を僕の方に向けて、「どうしてこうなったのか確かめてくれ」と赤ラッションペンで囲んだ部分を指差した。
 無地のワンピースの写真の上に「今年人気の花柄プリント、ズバリ半額」という文字が入っている。花柄プリントのワンピースの写真と品名・値段を取り払ったものの、その上部にレイアウトされていたコピーはそのまま残っていた。僕は慌てて、記憶を探った。そういえば、そのコピーにはトルの指示をした覚えがない。ゆらっと、目の前の視界が歪んだ。心臓の鼓動が速度を速め、コトは最悪に向かって駆け出している。

「すみません。僕の指示ミスです」
 僕はうなだれた。カラーテレビ五千円に続く、7月に入ってから2回目のミスを起こしてしまったのだ。あれほど、注意をしていたのに。よりによって、他人の仕事の処理をしてしまったばかりに。僕は運の悪さを呪った。
 大博多印刷に残されていた、僕の修正指示用紙にも「コピートル」の指示はないという連絡がすぐに入った。
 永野さんは僕を連れてワタリ係長に報告に行った。職場では報告・連絡・相談を欠かしてはいけない。「報、連、相(ほうれんそう)」を絶対に守るようにと、ワタリ係長は口を酸っぱくして言い続けていた。ワタリ係長はそのまま野瀬課長にミスの報告を上げた。
 
「俺はこの店のチラシで、これまでに間違いは起こしたことはなかったのに」永野さんは悔しそうに言った。
 永野さんのチラシ作りは「クリエイティブ力を発揮すること」より「間違わないこと」に力点が置かれていた。大切な仕事を引き受けているのだから、間違いのないようにキチンと作り上げることが大事なことだとよく聞かされた。
「河村、何百回間違いなくやれても、その後のたった一回のミスで、信頼というのは吹き飛んでしまうんだよ。築き上げるのは大変だけど、壊れるのはあっという間さ。分かるか?」
 僕は無言で頷いた。
「だから、こうやっていつも真剣にチェックもするし、間違いのでないように仕事の段取りも完璧にやっているんだ。写植屋やカメラマンに嫌がられても、納期を譲らないのはそういうことだからなんだ。俺が嫌がられているのも分かっているし、そりゃ『いいよ、いいよ』って物わかりが良い人間の方が気持ちいいだろうってことぐらいは分かるさ。そのほうが皆に好かれるんだし」
 永野さんはそこまで言うと、タバコに火をつけて自分の席に腰を下ろした。僕は首をうなだれて立ったまま永野さんの言葉を聞いていた。正午を回ったようで、食事に行くために席を立つ社員が多くなった。ザワメキ始めている。
「俺だって、本当はクリエイティブにもっと力を入れたいんだよ、お前みたいに時間をかけて」
 少しだけ、寂しそうな表情が永野さんの顔に浮かんだ。 

 三ツ谷さんも立ち上がりながら、スタンドのスイッチをパンと叩いて明かりを消した。永野さんを視界に入れないようにして僕の方を見た。大丈夫バイ、辛抱、辛抱と僅かに頷きながら視線でサインを送ってくれたものの、残念ながら僕の心の状態は大丈夫ではなかった。殴られすぎて破れてしまったサンドバッグから、ボロボロになった誇りと闘争心が床に落ちようとしている。
 
「たった一行のコピーをカットし忘れただけで、店と従業員はひどく恥ずかしい目にあうんだ。半額の花柄ワンピースくださいってお客さんが来たらどうすんだよ? 紛らわしいことになって、お客さんにも迷惑がかかるんだぞ」と、永野さんは疲れを感じてきたのか、ゆっくりとした口調になっていった。
 永野さんは僕の方を見ずに、カラーチャート表を引き出しに仕舞いながら立ち上がろうとしている。もういいぞって言われた僕は言葉を失ったまま、硬い表情でドアに向かった。社外でランチなど食べれる精神状態ではなかったが、一刻も早くその場を離れたかった。
by hosokawatry | 2008-10-25 16:57 | ブログ小説・あの蒼い夏に


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