あの蒼い夏に 〜チラシづくりの青春・29〜



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 僕はフラフラと綱場町に向かった。一人っきりで食事を取れる場所が必要だった。うちの会社の人間が普段はあまり行かないラーメン屋へと、無意識のうちに足は動いていた。車で満ち溢れている大通りの騒音も耳に入ってこない。周囲の光景はよそよそしく流れていき、僕は疎外感に占領されていた。信号の色が赤に変わったことすら分からなかった。ずいぶん大きなクラクションが飛んできたことも、今日の記憶に残らないだろう。
 博多で二番目においしいラーメンという過激なフレーズが出ている「柳生」という店に入った。ひっそりと老夫婦が営んでいる路地裏のラーメン屋だが、古いタイプの博多ラーメンの味はけっして悪くない。
 注文を済ませたその瞬間に、入り口の引き戸がガラガラと音を立てた。
「やっぱり、河村さんだわ」
 聞き覚えのあるそのかん高い声は婦人服のモデルの声だった。カメラマンも一緒だった。撮影途中で昼食をとりに来たのだろう。そのモデルはよく喋ることで有名だった。
 僕は湯気の向こうに見える14型のテレビを見るふりをして、天井のシミを眺めながら静かにため息をついた。一人になりたいという、敗者のささやかな願いさえも奪われていく。

 僕の午後はこれまでに味わったことのない苦さを振りまきながら、カタツムリのようにゆっくりと過ぎている。あのいまいましい「花柄ワンピース、半額」のコピーへの対処は、売り場で担当者が謝って理解を求めるということだった。とにかく、来店客に迷惑をかけてはいけないのだ。我が社からも念のために、営業の人間がひとり開店前に入るようになった。
 梅雨明けしたのだろうか。雨は昨日で上がり、今日は暑くて蒼い夏空が広がっている。いまだに湿っているのは僕だけだろう。僕は博多の街の不幸を全て背負ってしまった。世の中は明日から長く楽しい夏休みに入ろうというのに。僕は絶望の淵から、さらに出口の見えないブラックホールに落ち込もうとしている。
 僕の仕事ぶりは素人の空中ブランコのように危険過ぎるのだろうか。少なくとも野瀬課長や永野さんの目にはそう映ったに違いない。僕はすでに、周りの多くの人を巻き込んでは、かなり危険な目に遭わせている。
 能力の無さに落胆した心は惨めな貝になり、殻を閉じようとしていた。「たった一回のミスで、信頼というのは吹き飛んでしまうんだよ」と、永野さんの声が暗闇の中に響く。お前はだめなやつだ、この仕事はもう無理だ、と頭の中で黒い悪魔も囁いた。二度の失敗。得意先とこの会社に迷惑をかけすぎている。これはもう、辞表ものだろうか。
 僕は職場の中で、ひとりぼっちを味わっていた。周りの社員の動作が自信に満ち、これまでになく表情が活き活きしている。電話の呼び出し音と話し声、コピー機の動作音、椅子を引く音。折り畳んだコピー用紙を広げる音。本当の孤独は静寂の中にはない。ひとりぼっちの寂しさはジングルベルが流れる雑踏の中に見つけることができる。ブルーな気分は何回も経験済みだ。
 笑い声が矢になって、容赦なく僕の心に向かって飛んでくる。

 青二才だろうが、それでも僕はプロの端くれだ。負けてはいられない。気を取り戻そうと歯を食いしばった。今週末に提案するラフスケッチに取りかからなくてはならない。恵屋花咲店の一周年記念祭のチラシ原稿を広げた。咲田店長が楽しみにしてくれているので、期待を裏切るわけにはいかない。
 僕は本社の企画室から届いていた、有名スーパーのチラシと東京の百貨店のチラシを広げた。企画室で収集している全国のチラシサンプルからの貸し出し依頼資料だった。靴とバッグのフェアを大きく取り扱っているチラシ、北海道物産展の特集が掲載されているチラシを俯瞰した。咲田店長が靴とバッグ、北海道物産のセールに力を入れたいと言っていたからだ。
 タイトル訴求力、アイキャッチの表現力、商品コーナータイトルおよびコピーの誘導力、そして完成度が量れる紙面全体の構成力。僕は気になったチラシを選り抜き、エッセンスを抽出した。それを今回のチラシ制作コンセプトの表現に利用した。開店一周年だから、「メリハリがついた美しさと元気のよいデザイン」に狙いを定めていた。

 「もうそんな悪あがきは止めておけ。お前は能力なしだ。すぐに足を洗うべきだ」と黒い悪魔が耳打ちする。僕はその都度ペンを止めて、何回も深いため息をつきながらもスケッチを続けた。
 脳が受けた失敗のショックは大きく、疲労感を伴って僕を包み込んだ。午後6時過ぎに、近くの定食屋でハムエッグ定食を食べた後も黙々と仕事を続けた。重症患者がいるというのに、オリビア・ニュートン=ジョンの風のような歌声がキラキラとFMで流れていた。

 星の瞬きが窓越しに深夜を告げている。生ぬるいエアコンの風に集中力を奪われた竹田さんが、牛丼じゃんけんしませんかと声を上げた。堰を切ったように10人が席を立って、コピー機の前に集まった。
 いつも参加する僕にキヨシ君が声を掛けてくれたが、僕は「ごめんね」と元気無く断った。そういえば、佐里君からの連絡がなかった。先に帰る方が連絡を入れることにしていたので、まだ仕事が終わらないのだろう。
 「あ〜っ」と大きな竹田さんの叫び声が上がった。言い出しっぺが負けるという、じゃんけんの伝説は守られた。竹田さんは今夜、10人分の牛丼とみそ汁代を支払わなければならない。

 
「お客さん、いつも仕事遅くまでやってますね」
「はあ」
「先週もお客さんを乗せたしね。覚えてません?」
「ごめんなさい」と僕は小声で呟いた。
「いやぁ、謝ったりされると困っちゃうんだけど。しかし、お客さんの会社の人たちはよく仕事をしますね」
「……」
 深夜のタクシーは天神交差点を猛烈なスピードで抜けていった。
「今、通り過ぎた銀行と病院勤務の人、それにタウン情報誌の人。それにお客さんの会社だね。この時間に連絡をくれるところは」
 僕はタクシー運転手によく働く社員として、褒められているのだろうか。

 ところで、怖い話が嫌いでなかったら、と運転手は前置きをした後、喋り始めた。
「私には釣り好きの友達がいまして、その友達は会社の同僚とよく一緒に海釣りに出かけていましたが。あぁ、お客さん、釣りやりますか?」
 僕はいいえと力の抜けた返事をした。気持ちのよい冷房に気を許した身体は、後部座席に深く沈み込んでしまっている。魂が身体を支えきれていなかった。奇妙な重さに意識も引きずり込まれている。緩んだ視界にいきなり暴走車が入って来て、爆音だけを残しながら暗闇の中に消えていった。
「週末でもないのに、本当にうるさい奴らですわ」
運転手は不愉快さを隠しきれずに、バックミラーで僕の方をちらっと眺めてそう言った。

「ところで、さっきの続きですけどね、同僚の人は釣りに行ったときは必ず奥さんが作った弁当を持ってきていたそうです。愛妻家っていうんですか、結婚指輪をしっかりはめてるタイプですわ。まあ、友達の方は自分でおにぎりを握っていくそうですが。嫁さんが作ってくれないとかで…。で、その同僚のひとは、ある時、夜の磯釣りに出かけ、足を滑らしてしまったのか、行方不明になってしまったんですね。危ないんですね、磯釣りは」

 最後の最後まで、心静かに過ごさせてくれない一日だ。腹立たしささえ湧いてこない程、弱りきっているのというのに。タクシーの運転手の声は元気に続いている。

「5〜6年前かな、新聞にも出てたし、お客さん覚えてませんか? 結局、死体は上がらなかったそうですけど。私の友達もその釣り場には、それ以来、気持ち悪くてずっと行かなかったと言ってました。ある時、事故のあった近くの磯で釣り仲間がデカイ鮃を釣ったそうで、さばいてみると腹の中から金の指輪が出てきて驚いた、という話を聞いたそうです。その刺身はこれまでに食べた鮃の中でも特別に美味しかった………」
 僕は怖さより猛烈な眠気に襲われ始めていた。
「………… 指輪にK.Tなんてイニシャルでも彫っ……、田中さんという名前…………」
途切れ始めた僕の意識は、もう意味を捉えきれなくなっている。
「魚相手にこんなモテ方されるとはね。モテ過ぎも考えも………」

「お客さん、お客さん。この辺りじゃなかったですか?」
 突然、天からの大声が雷鳴のように落ちてきた。眠りに落ちていた僕は慌てて背を伸ばし、目の焦点を合わせた。
 バス停一駅分の距離を乗り過ごしてしまっている。Uターンした後、領収書を切ってもらった。タクシーを降り、熱帯夜に佇む自分のアパートのドアに向かった。鍵を回したが部屋に明かりは点いていない。佐里君はまだ仕事を続けているのだろうか。
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by hosokawatry | 2008-11-09 14:13 | ブログ小説・あの蒼い夏に


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