あの蒼い夏に〜チラシづくりの青春・37〜


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「河村、ちょっといいか」
 午前九時半過ぎに、ワタリ係長から声が掛かった。僕はバナナの写真を切り抜いている手を止めて、ワタリ係長に続いて商談室に入った。白目を剥いたモジリアニのリトグラフが壁にかかっていて、テーブルの上ではクリスタルカットのガラス灰皿が輝いている。後ろ手でそっとドアを閉めると、二人の商談室はすぐに朝の職場の喧噪から隔絶された。
 椅子に座る前にワタリ係長はその重いカットガラスのライターを持ち上げて、カチッとタバコに火を点けた。
「さきほど、ステップ写植の社長から電話があったけど、例のテレビ価格の写植間違いをした子のことで」
「佐里君のことですね」
「そう」
「どこにいるか分かったんですか?」
「ああ、実家に帰っていたそうだ」とワタリ係長は頷きながら、タバコの灰を弾いて落とした。
 さっきまで僕を見つめていたモジリアニの女の目が、ブラインドの作る影に隠れていく。表情を奪われはじめた女の顔の前を、タバコの煙が静かに昇って行く。

「この話、俺以外には誰にも知られたくないということだが、いいか?」
 僕は息を飲んでゆっくりと頷いた。膝の上の両拳に力がこもった。
「誰にも言うなよ」とワタリ係長は念を押した。

「自殺しようとした」
「えっ、自殺ですか?」
「そう、一昨日」
 ワタリ係長は大きく煙を吐き出すと、ほんの少し先端の火を見つめた後、タバコを揉み消した。
「未遂だったそうだ。今、入院している」
 
 ワタリ係長はステップ写植の社長から聞いた内容をかいつまんで伝えてくれた。佐里君は手首にナイフを入れたが、母親の早い発見で、偶然にも一命を取り留めたそうだ。  
 仕事の方はどうなるか分からないが、しばらくはそっとしておいて欲しいということ。それに、彼の将来のこともあるし、自殺未遂のことは誰にも口外しないでくれと念を押されたらしい。僕は表面では平静を保ちながらも、無意識に出るため息の数だけ力が抜けて行くのが分かった。

 自殺を図った本当の理由については、分かるはずもなかった。ワタリ係長の段階では、写植の値段間違いなどが、悩みの直接の原因として受け止められていた。僕が知っている夜の仲間のことまでは伝わっていないようだ。

「これ以上ウチには迷惑がかからないように、新しく補填の社員を募集するそうだ」と、ワタリ係長は言った後、席を立った。ドアノブを握った係長は振り向きざまに「聞かなかったことにしてくれるな。あの子のためにも」と付け加えた。滅多にない厳しい表情で。

 自殺未遂。回復できるかどうかは分らないが、恐らくステップ写植の社長の選択肢の中には、佐里君の職場復帰プランなど存在していないに違いない。このままでは間違いなく、僕とペアを組んだチラシづくりは出来なくなるだろう。
 社会人として、越えてはいけない一線。たった一度だけのラインオーバー。やはり無断欠勤、自殺未遂が及ぼす社会的影響は決して軽くはないのだろう。だからといって、一度の失敗だけで復帰が閉ざされる現実というものは、厳しすぎないだろうか。所属する会社と得意先に迷惑をかけたという重い事実があるにしろ、それでも絶対に冷たすぎる。二度とチャンスを与えられないという冷酷な現実を目の前に突きつけられて、社会人二年目の僕は狼狽した。

 自腹を切ってでも経験すべきだと言う若い頃の失敗。ステップ写植の社長は若い頃に失敗なんかしたことがなかったのだろう。へ〜、そんなの神業じゃないか。あの社長が神様? 失敗を経験していないから他人の苦しみに理解を示せないだって? 失敗のない人生など聞いたことがないし、100%完璧な人間など絶対にいるはずがない。僕が知っている社長も当然ながら神様にはほど遠い人種だ。だから分るはずだ、彼の苦しみが。社長の佐里君への対処は酷いに尽きる。

 僕は午後の仕事を続けながら、一人で憤っていた。
 このままでは納得できそうもない。一緒に汗を流した仲間として、友人として。だが、この僕にいったい何が出来るだろうか。この非力すぎる僕に。
 脳裏を佐里君の姿が駆け巡る。崖っぷちの世界に身をさらした佐里君。絶望の果ての選択だったのだろう。そして今、自殺未遂の片隅にうずくまっている佐里君。
 職場の壁を眺めていると、雨の大濠公園を走った後に見せてくれた満足そうな佐里君の笑顔が現れる。すぐに笑顔は濠の水面に落ちる一滴の雨のように、同心円の波紋を描きながら広がり、外周円の遥か遠くの無に向かって溶けていく。笑顔が消え去ると、僕の心の中にはやるせなさだけが残される。
 僕は仕事に上手く集中できなかった。「もう済んだことだ、忘れてしまえ!」と頭の中で黒い生き物が指図を始めた。今年流行のボートネックのTシャツのセールコピーを、二日酔いの翌朝のように、何度も何度も書き直した。

 
 いつものように最終バスでアパートに帰り着いた僕を待っていたのは、またもや一通の手紙だった。
 手紙を引き抜く時、新聞受けのカバーは深夜だというのにギシギシと他人迷惑な金属音を立てた。見覚えのある宛名の几帳面な文字。女学生が使う丸文字よりもわずかに角張っている。かすみの文字ではなかった。
 一昨日の消印になっている。
 封筒を裏返すと、差出人の住所も名前も記入されていない。
 
 僕はゆっくりとペーパーカッターの刃を入れた。
 間違いなく佐里君からの手紙だった。人差し指で首筋のネクタイを緩め、扇風機のスイッチを入れた後、ベッドに腰を下ろして便箋を開いた。


河村さん

 暑い日が続いていますが、残業は続いていますか?

 僕は今、実家に戻っています。河村さんに何も言わずに突然姿を隠してしまったこと、本当に申し訳なく思っています。すみません。
 こんな僕のためにいろいろと世話を焼いてくださったのに、一言もなく立ち去ってしまって、僕は本当にダメな人間です。事実を話せないだけでなく、人間の善意を裏切ることを平気でやってしまったり、もう心の奥底まで腐っているのかもしれません。
 実は追い山の後の土曜日の夜、河村さんのアパートに行った時、それまで僕に起こっていたすべてのことを話すつもりでした。しかし、意気地がなくてついに肝心なところは話せませんでした。そしてそれ以後も話すチャンスは何回もあったのに…。すみません。

 しばらくは混乱したままで実家に閉じ篭っていましたが、今日はなぜか心の靄が取れたようでスッキリしています。不思議なくらい視界が良いのです。そして気分のほうもこれまでになく安定しています。
 実は明け方に走っている夢を見ました。本当は何かから逃げている夢だったのかもしれませんが、よく解りません。とにかく目を覚ますと汗びっしょりでした。まるで大濠公園を河村さんと走った後のようでした。理由はなんであれ、走り終えた後のような気持ちのよい汗と爽快感、それが気分を良くさせたのかもしれません。それで河村さんに話せなかったことも、今なら話せるような気がしてペンを取りました。

 僕にはこれまで親友と呼べる友人や相談出来るような先生が一人もいませんでした。もちろん、きちんと付き合った人なんか、一人もいません。僕は「ある時」をもって、人への拒絶のサインを出しはじめました。それ以来、僕に近寄って来る人はほとんどありません。
 僕は生まれつき色素が足りないせいか、肌の色が友達の誰より白過ぎました。髪の色も少し赤茶けていて、真っ黒ではありません。そんなことで? と思われるかもしれませんが、「白すぎる事」はかなり深刻な悩みでした。目に見えて周囲の人と違うものに対して悩み、そして母を憎みました。そのことで囃し立てられたり、いじめられたりと、時には我慢を超えそうなこともありましたが、なんとか負けまいと自分なりに頑張り通したつもりです。
 そんな僕にも幼馴染みで何でも話せる女の子がいました。悪童たちに「シロ」と犬を呼ぶようにからかわれていた時にも、かばいながら一緒に通学してくれた女の子です。しかし小学3年のある時、唯一理解のあったその子に「やっぱり白い子は好きじゃない」と言われたのです。
 その言葉はこの世のなによりショックでした。日焼けした方が活発そうで良いな、というくらいの意味だったのかもしれませんが、僕にはそうは聞こえなかったのです。その瞬間から周りがネガティブな世界に一変したのを憶えています。それ以来、僕はその子に目を向けられなくなりました。その一言が心に残り続け、心の足かせになってしまいました。僕にとっての「白い」は「拒絶」の入り口です。色白は僕の心の中で白い恐竜に育って行き、だんだん他人との接触を拒否させるようになって行きました。河村さんにも解ってもらえないと思いますが、顔の色のことが話題に上ることが怖くて怖くて。それから、もうずっと独りぼっちです。
両親や先生にも友達ができないことを心配して、よく声をかけてもらいましたが「白いこと」が恥ずかしくて、それが原因だなんて言えるはずがありません。


 僕は読みかけの手紙をベッドに置いた。立ち上がって製氷室から氷をグラスに取り出し、ウイスキーを注いだ。机上のスタンドミラーから覗いている自分の顔の色は白くない。
 佐里君の悩みを本当に理解できるだろうか。自殺を図った佐里君の心に触れることは可能だろうか。助けを求めていたあの夢の中の白い手は、最後に僕あてのペンを握ったのだ。窓から見える一番大きな星が頷くように瞬いた。僕は珍しくタバコには手を伸ばさないで、再び手紙を手に取った。
by hosokawatry | 2009-12-29 15:59 | ブログ小説・あの蒼い夏に


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