2009年 01月 24日 ( 1 )

あの蒼い夏に 〜チラシ作りの青春・34〜





                  34



 僕はかすみの手を握りしめながら、浅い夜の斜めに伸びる月影の中をバス停まで歩いた。
 かすみは「河村クン」と僕の名前を呼んだ後、愛すべき指で僕の手のひらに二文字を書き込んだ。少しくすぐったい。僕が首を傾げると、今度は簡単な二文字にして「すき」と書き直した。
 僕は汗ばむ手のひらでかすみの指を包み込み、強く握りしめることでゆっくりと返答した。かすみが門限ギリギリの西鉄バスに乗り込むまで、僕たちは手を離さなかった。
 遠ざかるバスの後部座席から寂しさが入り交じった複雑な笑顔がのぞき、そして消えていく。かすみは今日、誰と泳ぎにいったことになるのだろう。警察官の父親は果たして信じてくれるだろうか? ただ、今、言えることは僕と一緒に大人への道を「しっかり」と歩いているということだ。心配は、多分要らない。僕は相棒が消えてしまっても、約束どうりに大濠公園を走り回っているような男だから。

 日曜日をかすみと佐里君の記憶と一緒に過ごした。僕の部屋に体温を残していった二人。書き込まれたばかりの甘美な記憶。そして消失の危機にある存在の記憶。 
 僕は早朝ランニング以外は暑い部屋で、一日中、本を読み通した。CIAとKGBの局員が争うスパイ小説のページの章が変わるごとに、二人の記憶が割り込んでくる。扇風機にはページを何度も飛ばされるし、いっこうに読み進む速度が上がらない。
 指でしっかりと押さえながら読むことはずいぶん骨の折れることだが、今はそれも仕方がない。冷房専用クーラーはまだまだ値段が高く、社会人二年目の僕には手が届かないのだ。
 夕方、ストーリーの終盤にCIAのエージェントが追いつめられたところで、電話のベルが鳴った。かすみからだった。お土産のジャムはもう食べた?と、聞いてきたので、もう嬉しくって朝からイチゴジャムを動けなくなるほど食べ過ぎてしまい、それで一日中部屋の中で横たわったまま本を読んでいるんだ、と答えた。
「へぇ〜、そう」と、かすみは何故か疑うような口調で言った。「で、美味しかった?」
「うん、とても。昔からイチゴのジャムが大好きだったんだ」
「…… そうなの」と、かすみは声のトーンを落とした。
「そう」
「ん〜、河村クンだって嘘つくんだ」
「えっ?」
「本当はまだ食べてないでしょ、ワタシのお土産」
「うっ……」
「実はね」
「何?」
「だってあれ、マーマレードだったはずだけど」
「ん?」
「その店、マーマレードの箱を切らしていたらしくて、ワタシ、イチゴ用の箱でもいいって言ったんだ、実は」
「………………」

「友達だっていう佐里クンという男の人も、ほんとにただの友達なんだよね? なんだか怪しくなってきたわ」
「………」
「じゃあ、昨日、愛しているって言ってくれたことは?」
「ジャム以外のことは全部本当だよ」
「本当?」
「神に誓って」
 僕は神妙に声をだした。軽いノリで美味しかったよとお土産へのお礼を言ったつもりだったのに、まるで結婚式の宣誓のようなものまでさせられようとしている。軽はずみだった自分を悔やんだ。
 少しばかりの沈黙の時間を演出した後、かすみは気を取り直したように陽気に切り出した。

「うん、でも、許してあげる。ただし条件付きで」

 嘘をついた罰にと、僕はかすみから来週の日曜日のサンドイッチ作りを強引に約束させられた。

 かすみからの電話の後に、佐里君のアパートに電話を入れてみた。呼び出し音を二十回数えた後、力なく受話器を置いた。回り続ける扇風機の風に、テーブルの上の文庫本がパラパラと音を立てながらめくれ続けている。最近、僕は佐里君へのダイヤルをまわす度に、責任を果たせていない虚しさに襲われ始めるようになってしまった。この瞬間も夏の終わりに感じるような、得体の知れない物悲しさと不安が僕を包み込もうとしてる。まだ、夏休みに入ったばかりで、バカンスモードもこれからだという時期なのに。
「お前の友達は見つかったかい。見つかっていないって? そうだろう。もう、止めておくことだな、友達を何とかしようなどと馬鹿げたことは」
 頭の中で、黒い悪魔がご苦労なことだという顔をした。


 七月最後の週は暑く、火曜日に一時間ほどお湿り程度に雨が降った以外は、カラカラと晴れる日が続いた。最高気温がなんと三十四度近くまで上がった日もあった。もちろん熱帯夜は連日続く。そんな中で、僕の心の中の最後の柔らかい部分だけは、かすみを思うことでかろうじて潤いを保つことができていた。
 永野さん・三ツ谷さんとチームを組む「年末・年始の恵屋合同チラシコンペ」のためのプロジェクトは、やっと実りに向かって進み始めていた。幸いなことに、二人の間に起こった衝突のわだかまりも嘘のように感じられなくなった。それは、あくまでも表面上の話だと、周りの誰もがそう認識しているように見えた。中心部のマグマの沸騰温度は、そんなに早く冷めてしまうはずがない、と僕も思っている。
 未定だった正月の折込みチラシのメインフレーズ「もっとあなたのために」のビジュアルも決まった。恵屋はパンを店内で焼き上げるのが自慢だ。地域一番店を目指す恵屋のパン職人のお客様への想いを込めた「フランスパンの手作りシーン」を採用することになった。お客様の幸せのための真剣な職人のまなざし。それは企業理念にもきちんとフィットするし、三人ともこれはいけると思った。

 僕は恵屋の咲田店長から貰ったものの、屋台の晴照に忘れて帰ったフランスパンを思い出した。佐里君と二人で貰った褒美だった。佐里君もそのフランスパンも今はない。徐々に重苦しさを増す喪失感は仕事中も時間をわきまえることなく、悪戯を楽しむ子供のように、僕の心の中をどこまでも追いかけてくる。

 僕たちのチーム案は仕上がりに問題さえなければ、社内コンペで勝つのではないか。僕の中にも確信に近いものが芽生え始めていた。ワタリ係長が「勝ったチームには賞金が出る」と言ったのをはっきりと憶えている。僕は捕らぬ狸の皮算用に入った。
 三人で旨い高級寿司を食べにいくというのはどうだろうか。しかし、犬猿の二人に僕が混じる構成では、これまでの心理状況を考えると、せっかくの旨いものも旨く感じられないのではないか。高級クラブで祝杯をあげるのも、二人の会話の発展次第では間違った方向に走る可能性がある。やっと小さくなっていた炎に、アルコールを注ぐようなことをしてはいけない。とにかく慎重にならなければならないし、いずれにしても骨が折れそうなので、コンペの勝利を簡単には喜べないかもしれない。
 そうはいっても、今年こそは広告代理店の電広堂に負ける訳にはいかない。出来映えも上々、相当に期待できるレベルだ。ワクワク感が広がり、前輪駆動車のように前のめりになりかかっているのが、自分でも可笑しかった。

 
 車のリース会社からの外線電話を竹田さんが三ツ谷さんに取り次いだ。
「ウルトラマンさん、車の修理が終わったそうです。三番です」
 三ツ谷さんは受話器を取りながら立ち上がったが、いつものようにはすぐに言葉が出てこなかった。ウルトラマンへの期待感から、職場内は固唾を飲んだ。
「う〜ん……、ジ、ジャッキ」
 周りの反応が鈍い。いつものように、笑い声が聞こえてこない。思いっきり外したのかもしれない。
 期待に応えられなかった残念な思いに駆られた三ツ谷さんは、かなり焦っているように見えた。外線ボタンを慌てて押し、受話器に八つ当たりをした。
「こら修理屋、お前が悪かとタイ」と三ツ谷さんが大声を出したとたん、野瀬課長が「フフフ、役者やのう」と、舌を鳴らしながら人差し指をワイパーのように二、三度振った。野瀬課長は三ツ谷さんのトリックを見事に見抜いていた。
 皆を驚かそうとした三ツ谷さんはバレたかなと、後頭部を掻きながら改めて三番のボタンを押した。
「お待たせしました、三ツ谷です」
 三ツ谷さんは、外線電話が入っていない四番のボタンを押し、相手のいない受話器に向かって大声を出し、八つ当たりをしていたのだ。野瀬課長はタバコを一本抜いて火をつけ、満足そうに煙を吹き出した。中指でコンコンコンと机をたたかない課長も久しぶりだ。
「まだまだ、若いわな、三ツ谷も」
 流石ですね課長、と持ち上げながら、野瀬課長のタバコの箱に金井さんが近づいてきた。

 毎日、僕はステップ写植に電話をして、佐里君が出社していないかを確かめた。返ってくるいつも同じ答えに、僕は力を抜かれ続けた。ふ〜っ。誰にも負けないくらいのため息。失恋した百人のため息をまとめても、僕のため息の方がきっと大きいだろう。
 夏休みの宿題を放り出してしまって、いったい佐里君はどこに行ったのだろう。とても大切な人生の宿題なのに。


「河村、今日は早く終われるか?」
 ワタリ係長からの内線電話で、今日は木曜日だけど飲みに付き合わないかと誘われた。
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by hosokawatry | 2009-01-24 23:58 | ブログ小説・あの蒼い夏に