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あの蒼い夏に42

                  42


 河村さん、と聞こえた瞬間に鳥肌が立った。そして僕には反射的にその声の持ち主が誰だか判った。年齢とともに渋みを増した、ゆったりと落ち着いた声だったが、抑揚だけは当時と同じだった。よく事情を飲み込めていない僕は動揺の色を隠せないままに、社長の顔を覗き込んだ。
 目元にほんの少しだけ面影を残していた。彼に間違いないという判断を下して見るから判ることだったが、顔の輪郭は以前に比べてかなり丸みを帯びていた。ゆうに三十年以上の月日が流れていたのだから、その変化は当然のはずだった。彼の人生を変えてしまった「顔の色」は、既にその面影もなかった。しかし、なにがどうであれ、今ここに、僕の目の前に立っているのは、間違いなく佐里君だ。

「河村さんの会社の危機を知ったのに、行動を起こすのが遅くなってしまって、申し訳ありません。いろいろと大変だったのでしょうね」と佐里君は僕を気遣う言葉を続けた。そして時間を少しばかりくださいと、僕の目を覗き込んで事の成り行きを話し始めた。
「実は、私の実家は造り酒屋をやっていました。焼酎を造っていたのです。その話も、おそらく河村さんにはお話ししたことはなかったかと思います。ご存知かとは思いますが、焼酎はこれまでに一度、1980年くらいにスポットライトが当たり、『ホワイト革命』といわれた第一次焼酎ブームを経験しました。しかしそれは癖がなくて口当たりの良い飲みやすさだけが前面に出ていた焼酎でした。1990年代に起こる日本酒の淡麗辛口と同じように、いいかえれば牙を抜かれた没個性トレンドでした」
 もちろん僕もそのことは知っていた。その後、それらの焼酎はさっぱりとした味と同じように、未練も残さず、ブームの舞台から降りていったのを憶えている。頷く僕の目を見ながら、佐里君は話を続けた。
 「そして、今は次のブームが来ていると言われますが、今度は本格焼酎ブームです。実家で造っていた焼酎は古くからの手作り芋焼酎で、ホワイト革命では取り上げてもらえなかった、よくも悪くも癖の強い焼酎です。今、そんな不器用な個性をもつ味にやっとスポットライトが当たり始めたのです。これまでとは違う焼酎ブームです。造り続けてきた本格芋焼酎がやっと注目され始め、ようやく私たちの蔵も希望が持てるようになりました。そうやって親から受け継いだ焼酎蔵も少しばかり経営に余裕が出てきたころに、封印していた永年の夢、『文字』にかかわる仕事のことがムクムクと頭をもたげて来たのです。もちろん、河村さんと別れて以来、ずっと、その仕事を忘れたことはありませんでしたが、残念ながらデザイン領域は全てといっていい程デジタル化し、もう昔のように写植を打つ単独の仕事は存在しません。現在はコピーワークもデザインワークもパソコンに頼らないわけにはいきません。もう若くはない私でしたが、意を決してパソコン操作とデザイン用のアプリケーションを習得したのです」

 社長は少しばかり残念そうな表情で窓の外に視線を移した。

 私は伝達手段としてとりわけ文字を重要視していましたが、河村さんはコピーライターなのに文章でなく「行動や熱意」で伝えようとしていたことを思い出しました。優れた伝達手段は表現材料を論理的に組み立てられるものだと言う人もいます。いわば文法のようなものでしょうか。文字のかたちは意味を持つけれど、はたしてそのことだけで、いや、その組立だけで相手に思いの全てが、きちんと届くものでしょうか。私は無理なような気がするのです。それだけでは片手落ちです。
 やはり、言葉をつくる人の態度、姿勢が重要だと思います。それは熱意のようなものです。ライオンの攻撃から我が子を守るシマウマの母親のアドレナリンです。子育てのオランウータンの愛情ホルモンです。姿勢、熱意などエモーショナルな部分を許容しすぎると科学合理性を否定するようなことのように思えますが、やはり、テクニックだけでは限界があるのです。絶対に心が必要なのですね。それは、河村さんと出会って、それがどんなに大切かを身をもって体験した過去があったから解ったことです。それが、あなたから戴いた一番の人生の宝物なのです。
 血の通った広告作りをやりたい。残りの人生をかけてと、田舎の人間にとってはたいへんな決断なのですが、私は父に無理を言い、弟に蔵の経営を譲って出て来ました。ひとつだけ我が儘な条件を飲んでもらって」

 社長、いや佐里君は自分用の大きなデスクに腰掛けると、自分もコーヒーが飲みたくなったと言って、内線で女性にキリマンジャロを催促した。「社員もまだ焼酎蔵より連れてきた事務の女性だけしかいません。超零細企業です」と、笑った。
 「大手の流通業も大苦戦している時代です。それに恵屋さんの経営破綻も大きく報道されました。この時期、自分の夢の実現のためにとはいえ、可能性のない冒険など出来るわけはありません。卑怯かもしれませんが、私は父親に『ある人と一緒に仕事ができるのであれば、新しい会社を起こせる』ことを告げました。もしその人がそれを受け入れてくれるのならという条件をつけました。普通は通るわけのない都合の良いお願いなのですが、両親に無理を言いました。   
 いろいろ調べさせていただいたら、河村さんは福岡市内にいらっしゃるとのことで、河村さんに届けばいいなと『インビテーション』という会社名にしたのです。河村さんと一緒に仕事をしていた時、何処かのショップの招待状を作りましたね。河村さんは確かあの時、インビテーションの欧文をヘルベチカで書体指定をされました。私にはその文字を打ちながら、感じるものがありました。自分を導いてくれる明るい未来からの招待状かもしれないと思えて、本当に有り難かったのを憶えています。河村さんが退社されたのを確認できたので、今度は私が河村さんに招待状を送る番だと思ったのです。私の為にいろいろと頑張っていただいたのを、実はワタリ係長から聞いていたのです。私につきまとっていたその当時の社長を突き飛ばした話も。やっぱり河村さんはコピーライターなのに、言葉より先に、態度や動作にでてしまうんだなんて。河村さんだなあって、笑ってしまいましたが」


 佐里君は受け取ったコーヒーを一口すすり、視線をカップに落とした。
「私と一緒に、また走っていただけますか?」と佐里君は上目遣いに訊ねた。急に屈託のない表情に変わり、あっけにとられる僕の目の前に女神ニケの翼のマークが入ったジョギングシューズを持ち出してきた。
「河村さんは確か二十六センチでしたね」と、微笑んで僕に差し出した。

「私は賭けました。求人広告で『インビテーション』という会社名が河村さんに伝わるだろうか。伝わったら河村さんと一緒に会社を興そうと。私は一世一代の広告を打ったのです。それがチラシだったら、さらによかったのでしょうが。コミュニケーションの大切さを、その力を知っておられる人とだったら、そしてまだその心が残っておられたら、一緒に仕事が出来ると思ったわけです。私は迷ってはいません。一度は死んだ人間です。そう、あの夏に。蒼かった夏に」と、当時の想い出を噛み締めながら話す佐里君の表情が強張った。間髪置かずに頬を一筋の涙が伝った。そして溢れる涙に「あの時の、ただ、河村さんの気持ちだけが嬉し…」と、言葉を詰まらせてしまった。「…嬉しかった」

 僕はこれまでに味わったことの無い静かな感動に震えていた。あの佐里君が目の前に現れて、就職に困っているハローワーク通いの人間にぜひ一緒にとお願いしている。シンデレラのジョギングシューズをさしだしながら。魔法にかかっているのなら覚めないで欲しいと願った。

「不摂生がたたって、血糖値と中性脂肪値が高いですが、こんな私で良かったら、ぜひ一緒に走らせて下さい」と言って、僕はペニーローファーから足を抜いた。ジョギングシューズに足を移して、紐を締め直すと、上着を脱いでネクタイをはずした。
「私も走ります」と言って佐里君もネクタイを緩めて、襟元からすっと抜き取った。シュッと気持ちの良い音が聞こえた。
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by hosokawatry | 2015-10-12 13:25 | ブログ小説・あの蒼い夏に

あの蒼い夏に〜チラシ作りの青春・41〜


                    41

 「中洲の店を閉めます」とアナザーウェイのアザミさんが会社を訪ねてきた。二十一世紀最初の年だったことを憶えている。消費が停滞して、危険なデフレが進行していると多くの経済評論家が政府の取り組みを批判した。バブル経済の崩壊は経済用語から現実へと姿を変えて、僕達の業界にも行儀悪くにじり寄ってきていた。そして、陰気にじわじわと営業活動の隅々にまでまとわりついていった。
 そういえば、アザミさんの店にはもう何年も顔を出してはいなかった。つれないと思えても、自腹で行ける余裕はない。この数年、接待経費も絞られ、課長から承認印をもらえる回数は激減した。営業コミュニケーションの必要性を訴えても、そのほとんどは徒労に終わった。接待経費の直接影響下にある中洲のネオン街は、まさに強風下のロウソクの灯火だった。中州を愛する誰もが炎の次の瞬間を息を凝らしながら見つめていたが、どうすることも出来なかった。惜しまれながらのれんを降ろす店は絶えなかったし、性の境を越えて愛されてきたアザミさん店ももちろん例外ではなかったのだ。

 僕達を心底怯えさせたのはメインのクライアントの経営破綻だった。スーパーマーケット業界もバブル期までの積極的な投資が裏目に出て、景気低迷の中でもがき苦しんでいた。企業リストラを繰り返すわりには、効果は出なかった。大量出血を恐れた結果、本来の思い切った手術も出来ずにいたのだ。それらの経営陣はあまりにも人が良すぎた。いや、まだ温かすぎた時代だったと思う。
 我が得意先であった恵屋から漏れて来る情報もほとんどが暗いものだった。どんな分析結果にも、明るい未来は感じられなく、容態は想像以上に悪化していたようだ。売り上げの多くを恵屋に頼っていた僕の会社の運命も、時間の問題になっていた。そんな中、本社で行われる全社支店長会議から帰ってくる、僕の上司であるワタリ支店長の肩はいつも大きく落ちていた。「俺は撫で肩だからな」という支店長のジョークが虚しく響いた。

 若かった僕や笠木君達も、すでに五十歳に手が届く年齢に達していた。問題が起こると、とん、とん、とんと中指を立てて、イライラしながら机を弾いていた野瀬課長は既に定年退職していた。バブル経済が弾けて以来、ワタリ支店長以外の管理職社員の多くも早期退職を余儀なくされていた。そこをさらに恵屋の破産が追い討ちをかけた。
 恵屋のチラシ制作依頼がゼロになり、制作に携わる人間は一方的に不要になってしまったのだ。総務部のひんやりとした催促の掌が、容赦なく社員の肩に向かっていった。年齢が高くて、おおよそ給与が高い制作者の順に、「ご苦労様でした」の声をかけられた。
 仮に退職勧奨を受け入れても、年金支給開始年齢まではまだまだ長い。わずかな退職金を手に出来ても喜べるはずもなかった。大事な家族はもちろん、可愛いペットも含めての「生きていく糧」を得る為には、僕たちはこの先も働き続けなくてはならないのだ。
 しかし、この10年近く、取り巻く就業環境は最悪だった。湿りきった不況は就職への扉を錆び付かせ、僕たちの心にギシギシと重くのしかかっていた。扉の隙間から漏れてくるわずかな希望の光は弱々しく見え、特に中高年にはどこまでも頼りないものに思えた。そんな過酷な現実の中、社員は決断を求められた。 
 僕は少数の仲間と会社の再生を夢見て頑張ってみたが、思った以上に再生の道は険しかった。民事再生法が適用されたものの、結局、会社は二年後に断末魔の叫び声をあげてギブアップした。


 「今朝の新聞にね、求人広告が出てたみたい。あなたにちょうどいいかも」

 退社してちょうど三ヶ月が過ぎようとしていた。僕はメジャーリーグの試合中継を見ていた。TVの中の細身の日本人選手が美味くヒットを打って、ランナーをホームに帰した。どうしてこの選手はこんなに見事に期待に応えることができるのだろう。自分が持ち得ない「答えを出せる」能力に嫉妬した。
 僕はまだ今朝の求人欄には目を通していなかった。妻の言葉に「ああ」とだけ小さく応えたものの、TV画面から視線を切らずにいた。ただ、ゲームを決める大切なヒットに出会えたはずなのに、平日の午前中にテレビ観戦している無職の身には、やっぱり熱くなれるはずもなかった。煮え切らない毎日が続く。すべての旨味はオブラートに味を奪われている。

 先日もハローワークで、広告制作会社の求人を見つけたが、条件が合わなかった。ホームページ制作もできることが条件になっていたからだ。コピーライター出身のディレクターだったので、Macを使ったデザイン制作は得意ではない。パソコン操作が下手なデジタル避難民としてのキャリアが長かった僕の就職は、応募の入口で躓くことが多かった。
 一社だけデジタル制作の条件がなく、希望職種と合致する案件もあったが、あまりにも基本給が安過ぎた。もちろん、五十がらみの中高年に対する条件の良い就職口は「宝くじの当選確率」だと思わなくてはならない。そんなことはわかっている。しかし、それでも現実に支給されている失業給付金より少ない給与には、二の足を踏まざるを得なかった。 
 元気が出そうな情報が少なく、足げく通ったハローワークのパソコン閲覧の毎日にも疲れ始めていた。最近、粘りが欠けて来たのが自覚できる。だが、暮らしがある。家族がいる。そんな弱気は許されないのだ。勇気を持って現実を直視しなければならない。無職の身でも今日・明日はなんとか凌げるだろう。だが、必ず結論を出さなくてはならない日がすぐにやって来るのは判りきっている。すでに、現実の問題として、子供の大学生活にかかわる経費負担が重くなり始めていた。もうじき、愛猫のペットフードの質も落とさなければならなくなるだろう。先が見えにくい家計をやり繰りしている妻は、毎日明るく振る舞ってくれていた。「あなたも三十年近く頑張ってきたんだから、そんなに慌てなくてもいいわよ」と、再就職への負担を思いやる妻の存在に支えられたが、逆に男としてそれが何よりも辛かった。ここに答えを出せない情けない自分がいる。意地を張らずに、もう、職種を問うのは止めようかと本気で思い始めていた。
 
 「ねえ、ここ、ここ」と反応の鈍い僕の目の前に、妻が新聞求人欄を広げた。他の求人欄より大きめの枠内に「経験豊富な五十代のコピーライター求む」とだけ書いてある。会社名は「インビテーション」で、そんな名前の広告代理店や制作スタジオはこれまで聞いたことがなかった。少なくとも有名な会社ではないはずだ。所在地は中央区大濠にあるビルの中らしい。場所は一等地だ。
 その他、何の具体的な要望も条件の明記もなく、ただ委細面談の文字だけはしっかり書かれていた。僕は妻に「よく解らないけど、ちょっとだけ覗いてくるか?」と言った。「ダメもとだから」と心の中で呟くことも忘れなかった。
 一応、確かめるために電話を入れた。ご来社いただける日をお聞かせください。営業時間中であれば基本的に大丈夫ですが、ご希望の時間もご指定くださいと、電話の女性は丁寧に応えた。こちらの都合で面接の日時を決めることができるとは。僕はさっそく明日の午前十時に伺う旨を伝えた。電話をかけ終わると「経験豊富な」と書いてあった求人コピーを思い出した。永年勤めたけど、すべてのコピーライティングにおいての「経験豊富」には自信がない。スーパーや百貨店等の小売りにかかわるコピーライティングについての経験は豊富だったし、自信もあった。しかし、マス媒体を中心とするメーカーの商品広告やTVやラジオ媒体のコピーはかかわることがほとんどなかった。不安がよぎる。そのことについても質問されるだろうし、弱点をえぐられるのは嫌だったが、しかし、それはそれで仕方のないことだった。
 僕はいつもと同じように、また履歴書と職務経歴書を用意した。

 残暑の朝、僕は就職面接のためにマンションを出た。「お前の餌代、任しとけよ」と腹を上にして寝転がっている猫に一声かけ、妻にウインクをしながらドアを閉めた。今日一日、僕は明るく元気に振る舞わねばならない。自信があろうと、なかろうと、結果が出ようと出まいと、現時点での全力は尽くすつもりだ。それがいくつになっても男の意地ではないか、と思った瞬間、入社したての頃の課長の声が聞こえてきた。「長嶋だって、王だってヒットは三本に一本しか打てんのに。それを全打席ヒットにしようなんて、そりゃちょっとしんどいわな」懐かしい言葉に笑いがこみ上げてきた。三十年後もまた、精神的にも弱りかけながらも、まだ全力で「百パーセント」を尽くそうとしている自分がここにいる。頭の中で、永年付き合ってきた黒い悪魔が「もうお前には付き合いきれんよ。俺は負けたよ。ほんとうに諦めの悪い奴だ」と白旗を揚げた。「良いことがあるといいな」と悪魔が出した初めてのピースサインに、僕は笑ってしまった。

 目指す会社は地下鉄大濠公園駅の近くだった。背が高い黒色タイルの建物は、大濠の地価にふさわしい格調の高いビルだった。エレベーターの前で目指すフロアを確認し、僕はお目覚めのミーアキャットのようにきちんと背筋を伸ばした。これまでの面接と同じように、エレベーターのボタンを押した後、一度だけ深く息を吸い、呼吸を整えた。
 僕は受付で電子ブザーを押した後、気持ちの良い声の女性に迎えられた。すぐに、会社の応接室にしては重厚な感じのする部屋に通された。マホガニーの重そうなテーブルが置いてある。「社長より、こちらの部屋にお通しするようにと言われていますので」と笑顔は柔らかだった。その女性はすぐに社長が参りますので、と言った後、お辞儀をして部屋を出て行った。
 社長直々の面接など、久しぶりだった。新卒の入社面接でずいぶん昔に味わったような、緊張感の中で上気していく50才の自分が可笑しかった。出されたコーヒーカップを持つ手が少し震える。酸味が強いコーヒーだった。キリマンジャロかな、味覚の嗜好を知っているのだろうか。まさか。
 ビルの最上階のオフィスの広い窓越しに、午前十時の蒼い空が広がっていた。僕は窓越しに広がるパノラマに惹き込まれるように立ち上がり、窓辺に歩いて顔を近づけた。最上階からの眺望が眩しい。見渡して、見下ろした。眼下に大濠公園が広がっていた。キラキラと輝く水面と浮島に続く観月橋が見えている。池の回りの外周路をジョギングしている人がいた。その中に息を切らしながら走る自分を見つけたような気がした。思わず僕は息を飲み、その風景に見入ってしまった。
 大切な面接の前なのに、懐かしい記憶が一気に湧き出してきた。一九七七年、あの蒼かった夏の記憶が、外周コースのジョギングシーンに続き、次から次へと鮮明なシーンとなって一気に溢れ出てくる。
 
 ノック音がして、続いてドアノブの回転音が聞こえた。不意をつかれ、面食らったように慌てながら僕は我に帰った。すでに社長と思われる男性がドアを背にして僕の方を見ていた。「景色が素晴らしいので、このビルの最上階を借りたのですよ。大濠公園は想い出もあるし、絶対にこの物件しかないと思いましてね」。窓の外の光景に目を奪われていた僕は、ドア入口の近くに立つその男性の顔がシルエットのように黒く見えた。どんな人物なのか、よくは判らない。
 声をかけられた時、社長に背を向けていた僕は非礼を詫びて頭を下げた。
「いいえ、失礼していたのは私の方です、河村さん。こんなに遅くなってしまって」
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by hosokawatry | 2015-01-01 18:08 | ブログ小説・あの蒼い夏に

あの蒼い夏に〜チラシづくりの青春・40〜

                   
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「え~っ、自宅謹慎なの、河村クンが」と受話器の向こうで、かすみは呆れ声を上げた。「河村クンのほうから、バイト先に電話をくれることもびっくりだけど」
 僕は自分の声が低くて、張りの無いことに気付いた。かすみも僕の元気無さを気遣い、バイト先の花屋から「おいしいごはん、作りにいこうか」と、いつにも増して明るく応えてくれた。そうだね、人にはやっぱり元気が一番だ。かすみに感謝した。

 一週間の自宅謹慎期間中に、笠木くんとキヨシくんがこっそりと電話をくれた。三ツ谷さんだけは「おう、落ち込んどらんか?元気出さんといかんバイ」と会社から昼間に堂々と電話をかけて来た。「まあ、衆矢みたいな凶暴な奴は、しばらく頭を冷やさんといかんタイ」と真面目を装いながら言った。職場の同僚を殴り倒した人間の使うセリフじゃない。
「これで、オレと衆矢は同じ穴の虫な。すぐに暴力を起こす奴は虫けらと同じかもしれん。注意せにゃいかんバイ」
 同じ穴のムジナは判るけど、「虫な」という人は初めてだった。駄洒落のプロはいつどんな時でも、「人を楽しませようとするフィルター」を通しながら五感を働かす。駄作もたくさん放つが、それでも三ツ谷さんのギャグ力には圧倒された。その日、僕はついに虫けらにされてしまったが、仲間にしてもらえて嬉しかった。

 やはり人に暴力を振るうだけでは、何も解決できなかった。胸ぐらを掴んで突き飛ばした僕の方が悪い。誰が見ても明らかだ。遵守すべき社会のルールを複数の目の前ではっきりと破ったのだから。悔しいけれど仕方がない。
 これから、突き飛ばした社長に接触できにくくなることを思えば、解決の道は閉ざされていく可能性が高い。終わりの始まりとなるその行為を思い出しては、心の中で佐里君に謝り続けた。

 8月も終わりを告げようとしているのに、僕のアパートに居座るもやもやとした暑気は立ち去らなかった。謹慎期間がとても気怠く感じられた。扇風機の風はやたらと生温い。涼しくないと不満ばかりたれていた会社のエアコンが恋しくさえある。
 騒がしいけれど、熱気の溢れる職場。一人きりの寂しさを強制され、味わってみてはじめて見えてくるものがあった。コピー書きも、もっと静謐な場所でやりたいと、愚痴ってばかりいたが、これからは考え直す必要もあるだろう。空調だけに限らず、実は職場の喧噪も捨てがたい魅力を持っていたのだ。本当は、天国だったのかもしれない。
 そういえば恵屋さんへのプレゼンを、もう仕上げなければいけない時期だ。リミットが近づいていた。僕は早急に企画書の未完成ページを埋めなくてはならない。なのに、今は完成にはほど遠い無気力な場所にいる。書ける時間だけはたっぷりあるのに、どうしてもその気になれなかった。
 謹慎中だったが、部屋を離れて久しぶりにパチンコ屋を覗いた。学生時代にはよくその日の食事代を賭けた勝負をしたが、遠ざかって久しい。零戦のプロペラとハネのついたパチンコ台が並んでいた。僕をあわれに思ったのか、パチンコ台は銀色の玉を景気良くジャラジャラと吐き出してくれた。これまでは勝ちたいと思った時は必ず負けていた。欲は運をつれてはこないのだ。今日は勝ち欲が希薄だったから勝てたのだろうが、まあ、こんな謹慎期間の中では買った喜びに浸れるはずもなかった。

 謹慎3日目の土曜日の夕方に、かすみはアパートに現れた。かすみは「ふうっ」と溜息をついて、重そうな食料品の入った紙バッグを下ろした。そして、もう一方の腕で大切そうに抱えていたLPの黄色いビニールバッグを僕に差し出した。
 ビニールバッグにはロバータ・フラックのLPが入っていた。かすみは「『やさしく歌って』が入ってるアルバムが良いかなと思ったけど、でも、この『ファーストテイク』にしたの」と言った。「このLPね、なにか救われるような気になるんだって。お店の人がそう言ってた」
 かすみはゴハン作るね、と言って立ち上がり、キッチンの前で紙バッグの食材を確認し始めた。僕はヤマハのレコードプレーヤーの前で座り込み、LPジャケットの曲名を確かめようとした。ベイ・シティ・ローラーズが大好きなかすみが、ふだんは聴いたこともないようなこんな渋いLPレコードを何故?と、思った瞬間、レコードショップのかすみの姿が浮かんだ。僕のために懸命にレコードを探している姿が。雑誌情報やレコードショップの店員の意見を参考に、決めたタイトルなのだろう。

 かすみの気持ちがこの上なく嬉しかった。僕は急激に沸き上がってくる感情に突き動かされた。キッチンに立つかすみの後ろ姿をギュッと強く抱きしめた。いきなり抱きしめられたかすみは驚き、少し身体を硬くしたが、僕の「ありがとう。とても嬉しい」という声ですぐに柔らかさを取り戻した。かすみは手にしていたスパゲティの乾麺をそっとまな板の上に置いた。
 夕暮れの最後の海風が部屋のカーテンを大きく揺らした。どのくらい、かすみを抱きしめていたのだろう。僕はかすみの向きを変え、正面から抱きしめてキスをした。長いキスの後、「私のこと、好き?」と、いつものようにかすみが訊いた。僕は目を見ながら頷いた。かすみが現れた時はまだ夕日が残っていたが、晩夏の夕暮れはもう薄闇に溶け始めている。
 薄暮の逆光の中、ベッドの上のかすみはだんだんと輪郭を曖昧にしていく。僕はその存在を確かめるように何度も何度も強く抱きしめた。かすみは僕の愛情にきちんと反応した。ショートヘアの頭が柔らかく傾ぎ、揺れた。
 しばらく二人は汗の海の中で横たわっていた。
「やっぱり、河村クンって真っすぐだから、大好き」と言って、かすみは微笑んだ。僕はお腹が空いたねと言いながら、かすみのお腹をつついた。
 
 謹慎が解ける二日前には、野瀬課長から「予定を変更するけど、ええか?仕事がいっぱいなんや。一日分、許したるさかい、とりあえず明日から出てこい」と乱暴な電話がかかってきた。野瀬課長の机を中指でとんとんとんと叩く音が聞こえたような気がした。会社規定の謹慎期間を課長が勝手に変えてもいいのだろうか。まあ、それもありなのだろう。
 謹慎決定時に、頭を冷やせと言われていたが、本当に冷やせたかどうかは自分でもよく解らない。しかし、出社した僕を待ち構えていたものは、恐ろしいほどに積まれたチラシ原稿の山だった。どうやって捌こうかと考えるだけで、高熱が出そうだった。一時的に頭を冷やせたのかもしれないが、いずれにしても、「冷静」な自分の姿を見つけ出すのは難しい、この仕事では。「お前には無理な事が多すぎる。能力のせいだから仕方ないがな」と久しぶりに黒い悪魔が頭の中に現れて言った。

 その週の日曜日にまた、かすみがアパートにやってきた。残暑が残る季節なのに、妙に空が青くて爽やかな朝だった。外の空気が気持ち良さそうなので、大濠公園のカフェテラスでコーヒーでも飲もうよと、かすみから誘われた。
 そういえば、最近は大濠公園には出かけていない。佐里君とのランニングシーンを思い出すので、近づくのを無意識のうちに避けていたのかもしれない。思い出すだけで、とてもやるせなくなるからだ。何もしてやれなかった情けない自分の姿なんて、誰だって思い出したくないはずだ。しかし、今日は少し違った。かすみの声に、心の扉が少し開きかけている。よく解らない何かに誘われているような気がした。僕は冷えきった日陰から、陽の当たる暖かい草むらに歩き出そうとしている。本能が温められ始めている。僕はそのような、初冬に出会える小春日和の子猫になった。

 僕は歩きながら、昨夜、巨人の王選手がメジャーの記録を抜く七五六本のホームランが出たことを話した。地元球団を懸命に応援してきたつもりだったが、つい、華やかな話題を提供してくれる人気球団の選手に注目してしまう。地元球団はスポンサーがめまぐるしく変わり、新しい球団名だけを与えてくれるだけで、僕たちの熱い夢は叶えてくれそうもなかった。球団経営が大変なのだろう。残念だが仕方がない。それにしても、やっぱり背番号1は偉大だ。

「河村クン、ほら、あれ」アパートを出て少し歩いたところで、空を見上げたかすみが突然立ち止まって声を上げた。青空をバックに三角翼の紙飛行機が円を描いていた。
 その白い飛行機はゆっくりと僕の足もとに舞い降りてきた。紙の三角機首がアスファルトに当たり、突っ込んだ先端を支点にして前方に一回転した。低速で降りてきた割には、最後はハードなランディングだった。
 僕にはその前のめりの着陸姿勢が可笑しかった。この夏の自分の姿そのもののような気がしたからだ。社会人2年目として、全力で地場の大手スーパーのチラシづくりに努めたつもりだった。だが、そこには未熟な人間が避けては通れない、成長のための厳しい関門が幾重にも待ち構えていた。ヤル気だけの若さはとても危険なものだった。結局、正確さが要求されるチラシづくりで、何度もミスを起こし、得意先はもちろん会社や職場の先輩達にもその都度大きな迷惑をかけた。
 そして、我が身のサイズに合わない正義感を発揮しようと頑張ったことも裏目に出た。結局、僕達を支えてくれている関連会社の人に、暴力を振るってしまうことになってしまった。起因に関する部分は明らかではないにしろ、とにかく僕は苦い謹慎処分を受けた。
 しかし、こんな危なっかしい人間を周囲の人は見捨てなかった。いや、未熟だからこそ、手を差し伸べてくれたのだろう。恵屋の咲田店長には「新人のヤル気」を、先輩の三ツ谷さんにはろくでもない「若気の至り」を、アナザーウェイのアザミさんには「若い男の行動力」を、そしてかすみは僕の「真っすぐな気持ち」を買ってはくれた。
 それらはみな成熟にはほど遠く、立派な男として認められ、讃えられるものではないような気がする。悔しいけれど、まだまだ蒼く甘い。
 僕は自分に励ましの声や、温かい眼差しを向けてくれる人がいることを忘れてはいけないと思った。いくつもの失敗を犯しても、その都度立ち直らせてくれた、それらの多くの思いやりのこころ。その温かさは僕に大切な感受性と深い判断力を、そして今も大きな可能性の芽を育ませてくれようとしているのだ。
 あの二日酔で迎えた残業の夜には、大切な仕事を前に、不覚にも寝込んでしまった。それを見越して、黙って僕の仕事を済ませてくれた三ツ谷さんの姿が脳裏をかすめた。僕に足りない部分を埋めてくれる、強くて温かい行為が思い出される。あの時のように、また熱いものがハートに触れた。目頭が緩み、少し風景が滲んだ。

 僕はかすみに涙を覚られないように視線をそっと上げた。視界に入る瀟洒な洋館は、二階の窓が開いている。大きく解放された窓から、女の子がじっと、僕達二人を見つめていた。「もう治ったのかしら、退院したみたいね」とかすみが口を開いた。僕は足もとでひっくり返ったままの紙飛行機を拾い上げた。それはスケッチブックの画用紙を一枚破いて作った飛行機だった。文字らしきものが書いてあった。僕はすぐに紙飛行機を解いてみた。
「ありがとうございました」とクレヨンで大きな文字が描いてあった。僕はかすみと繋いでいた手を離し、頭の上に指先をつけて上唇の後ろに舌を差し込んだ。さらに鼻の下をぐ~っと伸ばして、あの時と同じようなチンパンジーの顔を作った。門柱の陰からククッと笑い声が聞こえ、僕達に向かって頭を下げる母親の姿が見えた。

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by hosokawatry | 2014-01-27 12:57 | ブログ小説・あの蒼い夏に

あの蒼い夏に〜チラシづくりの青春・39〜

                   

                    39



 佐里君は僕への手紙を出し終えた後、自殺を図ったのだ。僕は茫然としながら、読み終えたばかりの分厚い便せんの束を封筒に戻した。誰なのかはよく分らないが、手紙の内容からは佐里君をそこまで追い詰めた人間の存在だけははっきりと分る。とにかく、自殺が未遂に終わっていたのがせめてもの救いだった。
 食い込めそうな弱い部分を探し当てようと、卑怯な目を光らせながら、白くて柔らかい佐里君を見つめていた怪物。防ぐ術を持たない無垢な心に襲いかかったその怪物を僕は許せなかった。手紙の文面からは、その男の立場が彼より上の人間だということだけは読み取れるが、それ以上詳しくは判らない。本当に卑怯な奴だ。
 頭の芯は数杯のウィスキーですでにしびれ始めていたが、怒りだけは勢いを失いそうもなかった。僕は叫び出しそうになる自分を必死で堪えた。「ある人」って、一体誰なんだ? 死の覚悟をもってしても、尚もその名を明かすことを拒んだ佐里君。
 佐里君、僕はどうすれば良いのだろう?仮に、僕がその怪物を探し出せても、果たして佐里君は喜んでくれるのだろうか。このままそっと静かにしていることを望んでいるのかもしれない。ただ単に犯人を暴くためにフィリップ・マーロウを登場させれば良いという訳でもなさそうだ。 
 ワタリ係長の「あの子のためにもこの話はなかったことにしてくれ」という言葉が午前中の記憶から聞こえてくる。頭の中の悪魔が囁きかけて来た。「止めときな、面倒なだけだ。何遍言ったら分るんだ」僕の迷いは勢いをなくしながらも、回転木馬のようにいつまでも揺れながら回り続けていた。

 河村さんはコピーライターなのに言葉ではなくて、心で伝えようとしますね、と書いていた佐里君の手紙。文字や言葉を操るプロとしてはいただけない評価だが、それでも想いが伝わっていたことのほうがとても嬉しかった。僕はグラスに残った最後のウイスキーを流し込んだ後、ゆっくりと立ち上がった。そしてシャワーを浴びた。
 午前三時の静寂の中、犬の鳴き声が深夜の闇を切り裂く。その遠吠えは、膠着状況を打破するための強い意志を持った監督のサインに思えた。しかし僕の頭は送りバントを失敗した2番打者のように混乱したままだ。麻痺が判断を試みようとする意思を急速に飲み込んでいく。もう誰のサインにも応じられない。僕は弱いため息をつきながら、濡れたままの髪の毛でベッドに大の字になって目を閉じた。
 もう一週間もすればお盆になる。帰省の時季だ。かすみは福岡、笠木君は大分、三ツ谷さんは長崎、竹田さんは滋賀とそれぞれの故郷がある。そして佐里君は病院のベッドの上かもしれないが、すでに実家のある町に帰っている。
 今夜、最後の責任感が僕を確かめに来た。ワタリ係長の声を無視して、佐里君に会いに行くべきだろうか? しかし、僕には佐里君の実家がどこかも分らない。
 僕は自分が拾ってきて育て、実家に住み着いている「しぶ」という猫を想った。元気にしてるかい?茶トラの丸い大きな顔が現れ、笑っている。ニャーン。やっぱり、家に帰ろう。

 僕は佐里君の実家の住所か電話番号を教えてもらおうと、盆休みに入る前に一度だけ、最後の迷いを振り切るようにステップ写植に電話を入れた。しかし、守秘義務があるので、会社を辞めた人間のことを、得意先とはいえ勝手には教えられないと拒まれた。守秘義務という言葉を初めて耳にした僕は、面白くない違和感を覚えた。
 諦められなくて、市内の電話番号を電話帳で調べたが無駄だった。どこにも佐里という名字が掲載されていなかった。手当り次第に九州中の市外番号案内で調べれば良かったのかもしれないが、すでに気力はそこで切れてしまっていた。

 盆休みが終わって2、3日過ぎた頃、竹田さんの退社情報を笠木君が教えてくれた。僕達同期生三人は昼食時の喫茶店にいた。
「竹田さんはお父さんの具合が急に悪くなって、家を継ぐために帰るんだって。河村、知ってた?」
 僕はそのことについては飲みながらだったが、本人から直接聞いていたので特に驚くこともなかった。ああ、と頷く僕に向かって「それから、ステップ写植さんに"うち担当"の新しい人が入ったんだってよ」と付け加えた。
 ウェィトレスの気配を敏感に捉えた笠木君は、さっと手を挙げて呼び止めた。笠木君は僕達を気にして、視線を大好きなウェィトレスの豊かな胸から意識的に外している。不必要な笑みをたたえながら、3人分の注文を口にした。いつものように、クリスチナ・リンドバークはオーダーを復唱すると、「いつもありがとうございます」と、艶かしい笑顔を返して、よく引き締まった腰を優雅に振りながらカウンターに消えた。
「しかし、よくも飽きないでトルコライスばかり食えるね」と僕は呆れながら言った。キヨシ君と僕は久しぶりのトルコライスだった。
「笠木さんはなんでも一途ですからね」と、キヨシ君は視線をカウンターの美女に向けた。僕もフフッと笑ってしまった。
 すぐに注文したランチは出来上がってきた。クリスチナ・リンドバークが持ってきたトルコライスのうち、一番大きなトンカツが乗っている皿が笠木君の前に置かれた。
「大きすぎない?そのトンカツ」と僕は目を見開いた。
「笠木さん、クリスチナに心が通じてますよ。きっと」とキヨシ君が言うと、「そんなん、ある訳ないやろ。単なる三分の一の確立。たまたまやん」と笠木君は一番大きなトンカツにも相好を崩すことはなかった。気持ちを無理に抑えているのが分る。言葉の裏には嬉しさが透けて見える。
「ふん、嬉しいくせに」と僕は隣の笠木君の肘をつねった。
「でも、藤木女史は悲しむでしょうね?」とキヨシ君が一歩踏み込んだ。
「あの子とはなんにもないんやから、悲しむ訳ないやろ」と笠木君は鼻孔を広げてキヨシ君の言葉をすぐに否定した。
「客観的に見ても見なくても、表面的には藤木女史とクリスチナでは勝負にならないよね。ただ、慈愛に富む笠木君の『美に対する価値観』は時々僕らの理解を超えることがあるし。クリスチナが負けることだってあり得る」と僕は茶化し気味に言った。
「そうそう、笠木さんの審美眼もけっこう怪しい時がありますよね。藤木女史が選ばれる可能性だって否定できないかも」
 キヨシ君の言葉に笠木君は即応した。
「どうだっていいやん、俺のことなんか。藤木女史とかクリスチナとか、いい加減にしてくれん」
「ムキになるところが怪しいな〜? そろそろ、藤木女史が結婚退社させて下さいとか言い出すんじゃないのかな。誰かとの社内結婚ということで」と僕はニヤニヤしながら言った。
「笠木さん、結婚祝いは何が良いですか?」とキヨシ君が真面目な顔を作って質問した。
 その瞬間、タイトスカートに包まれたカタチの良いヒップをくねらし、とても良い香りをまき散らしながら、僕達のテーブルの横をクリスチナは通り抜けた。
 僕達はその後ろ姿に息を飲んだ後、三人でため息をついた。
「それより、竹田さんがいなくなったら寂しくなるよね」と笠木君は無理矢理話題を変えてしまった。「仕事、沢山抱えていたし、その仕事、誰が引き継ぐんやろう?」
 笠木君のその疑問に僕達の肝は一気に冷えてしまった。みんな自己能力を超えそうな仕事量をたっぷりと抱えていたからだ。誰かがその仕事をしなくてはならないが、竹田さんの仕事を引き継げるほどの余裕など、誰にもあるはずがない。一気に憂鬱が三人のテーブルを支配し始めた。僕達はまた溜息をついた。クリスチナの後ろ姿を見た後よりさらに深く。




 翌日午後、三ツ谷さんと僕はワタリ係長から商談室に呼ばれた。ステップ写植の社長が新しく補填した写植オペレーターを連れてきたので、紹介したいということだった。
 社長はその若いオペレーターの経歴を簡単に紹介して、これから一生懸命頑張るので他の社員同様よろしくお願いします、と汗を拭きながら頭を下げた。紹介された若いオペレーターも慌ててピョコリと頭を下げた。
「この子は前の会社ではページものや編集ものの仕事が多かったので、チラシの経験は多いとは言えませんが、作品を見るとセンスも良いのできっと優秀な戦力になってくれると思います。前の子はちょっと神経質すぎたけど、今度は人当たりも良いし、大丈夫ですわ」と、社長は小太りの腹を突き出すようにして自信を示した。

 三ツ谷さんと僕は、こちらこそよろしくお願いしますと二人に頭を下げた。顔を上げた時、僕は今日はじめて見るその若いオペレータの顔が白いことに気付いた。よく見ると佐里君ほどまではなかったが、かなりの色白だった。藤木女史が運んできたコーヒーのカップを持つ彼の指は細かった。
 男らしさを感じさせない可愛いタイプの男だな、と思った瞬間、僕の脳の中心部に強い警戒信号が走った。これは佐里君が手紙の中で書いていた「あの人」の嗜好に合致する。怪物が好む容姿そのものだった。佐里君との共通点がはっきりしている。僕は興奮する心を抑えながら社長に訊ねた。
「余計なことかもしれませんが、社長、入社の面接をされるのは誰ですか?」
「会社のことで専務や部長に任せていることはイロイロありますが、人選びだけはやっぱり任せられません。河村さんもご存知のように、写植会社は人とその技術でもっているわけですし、もちろんうちも人選は社長である私が責任を持ってやっています」
「ずっとですか?」と僕は間髪を入れずに訊いた。
「そうですね、この三年ほど前からですか。兄から会社を引き継いで、その後私一人で選んでいます。けっこう最近の若い人は苦労を知らない我がままな人が多いので、結構大変ですわ」と社長は大変さを強調した。
「そういえば、最近のステップさんは大人しい人が増えましたね」と三ツ谷さんが言った。
「よく出来た子を探すのは難しいけど、私は見る目だけには自信があるので、その点に関しては大丈夫ですわ。この仕事は大人しくて責任感の強い子でないと務まりませんから、まあ、そのへんを見抜くのは大変ですが、この子は絶対に大丈夫ですわ」
 社長はそう言いながら新人オペレーターの白い顔と首筋を満足そうに目を細めながら眺めた。

 その瞬間、湧き起こった確信が一気にアドレナリンを呼び、激情へのスイッチが入った。怪物はこいつだ。
「白いというのも判断基準でしょ」と言うや否や、僕は椅子を後ろに跳ね飛ばし、テーブル向こうの社長の胸ぐらを掴んで、思いっきり突き飛ばした。
 あっけにとられた社長は僕の手首を掴むことも出来ずに、後頭部を後ろの壁にぶつけ、鈍い音を立てて倒れた。

 三ツ谷さんの手が僕の肩を掴んでいる。社長以外はいきなりの出来事に驚き、椅子から立ち上がっていた。社長がぶつかった余韻で、壁にかかっているモジリアニの額縁が揺れている。我に返った僕に、社長は一気に口を震わせながら言った。
「なんや、あんたは。理由もないのに暴力をふるいおって。得意先やから、何をしても良いんですか? 許しませんで、こんなこと」「そうでしょ、係長」と言いながら社長はワタリ係長にもキッと視線を向けた。僕は作った拳をいつまでも緩めることが出来なかった。
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by hosokawatry | 2012-01-06 14:41 | ブログ小説・あの蒼い夏に

あの蒼い夏に〜チラシづくりの青春・38〜

                    


                    38



 時には、楽しそうな友達同士はいいなと思いました。心を通わせることが大切な事くらいは僕にだって分っていましたから。だけど、そんな大切な友情のようなものでも、白い恐竜と天秤にかけてみると答えはいつも一緒でした。必ず選択するのは周囲との拒絶のほう。大切なことは絶対に白い恐竜と争わないことです。
 高校に通い始めてからも孤独でした。それからずっと同じです。河村さんから電話をもらうまで、本当にずっと。
 独りは淋しくはあるけれど、慣れてしまえば案外こちらのモノです。逆に交友関係のもつれがないだけ気楽だともいえます。最初から外れているわけですから、仲間はずれの心配などは絶対にありません。

 僕は空想の世界で遊ぶのが好きになりました。一人で本を読み、膨らんだ夢と遊び、密やかな自我の悦びに浸りました。ものの見事に「文字のある世界」に引き込まれたのです。
 コピーライターの河村さんのように、キャッチフレーズや広告の文案を考えることも好きでしたが、広告作りは自分だけの世界に閉じこもっていては出来ない事を知り、断念せざるを得ませんでした。
 簡単な打ち合わせを除けば、ほとんど誰にも言葉を交わさずとも文字に触れることが出来る仕事が「写植打ち」です。それは僕にとっては文字だけに囲まれた、贅沢な空間。けっして自分が好きな文章だけを打つことなど望めないけれど、それでもその職業は神様が僕に用意してくれたたったひとつの道だったように思えました。僕は親が進める大学への道を拒み、写植学校に進みました。

 もちろん写植の学校でも、特に仲の良い友達はできませんでした。そして、勤めていたステップ写植でも、ご存知のようにほとんど独りでした。ある時、間違えてはいけない重要な文字を打ち間違え、ミスプリントを起こしてしまいました。河村さんの会社の物件ではありませんでしたが、得意先から猛烈に怒られました。もちろん社長からもきつく注意を受けました。
 得意先からの意向もあり、その仕事の担当から外されました。僕は他人と仲良くなることへの自信はゼロですが、写植の仕事にだけは少なからず自負心がありました。だから僕にとっての仕事の失敗はその分だけ落ち込みも強烈でした。
 その後すぐに河村さんの会社の担当になりましたが、やはり集中できずに誤植が続き、叱責されることもたびたびでした。
 かろうじて僕を支えてくれていた「仕事にだけは自信があった」という最後の砦も崩壊寸前まで追い詰められたのです。誰にも相談できない毎日。身を固くしたまま、孤独に震え続け、遂には慣れていたはずの「独り」にも、耐えきれなくなりました。

 写植学校時代の仲間にマリファナを勧められて吸ったり、酒を沢山飲んだのもその時です。河村さんの電話の少し前のことです。全部ではありませんが、河村さんには話をしたことがありましたね。結局、彼らとの関係は長続きはしませんでした。そういう仲間と長続きしなかったことは逆に良いことだったわけですが、仲間との友人関係を保てない、自分の社会人としての未熟さを同時に思い知らされたわけです。

 薄暗いバーでは自分の顔の色も白くは見えないし、なぜか妙に落ち着きました。アルコールで陽気になることもできるし、お酒自体は全く嫌いじゃありません。アルコール度の強いズブロッカなども大好きです。昨年末の会社忘年会でそのことが知られてしまい、今年に入って会社のある人から飲みに行かないかと誘いを受けるようになりました。
 君は社会に対する適応能力が欠けていると、その人は指摘しました。特に協調能力はとても大事で、これから社会で生きていくためには必要不可欠なものだ、と教えてくれました。
 2回目に飲みにいった時も、アルコールが入った状況であったにしろ、年配者の経験に基づく話は僕をしっかりと頷かせました。きっとウィスキーソーダが美味しかったのでしょう。勧められるままに何杯も飲みました。

 僕は意識をなくし、バーからそのままその人に連れて行かれたのでしょう。記憶のない1〜2時間の後、奇妙な違和感が僕を目覚めさせました。これまでには味わった事のない感覚です。恐る恐る薄目を開けて現実をたぐり寄せると、僕たちはベッドの上で、その人の手は僕の肩を抱いていました。
 同性と一緒にベッドの上にいる自分。人には絶対に知られたくない行為です。早くその場から逃げ出さなくてはいけないと思いながらも、何故かそのままでいたいという不思議な感覚がそれを邪魔しました。僕の肩をしっかりと握りしめてくれている手の温もりと体内に居座るアルコールが、判断を鈍らせたのだと思います。
 そこに至る事情や理由はどうであれ、とにかく孤独だった心が解きほぐれていくようで、僕はその心地よさを確かに一度は受け入れました。ただし、それは一回限りのことで、望まない事故のようなものだったと、無理矢理自分を納得させました。

 しかし、その人はすぐに次を要求してきました。誤植や失敗で迷惑を繰り返すたびに「大丈夫、ワシが何とかする。心配しなくてもいいから」と誘いをかけてきました。誘いを断ると、「あまり言いたくはないけど、君はもう会社に必要じゃないかもな。会社に何度も迷惑をかけてるし、それに協調能力もないし」と、しつこく酒とホテルを強要しました。
 どうしても好きな仕事を奪われたくなかったので、二、三度付き合いましたが、さすがにそれ以上は許せませんでした。その人から夜のアパートに電話がよくかかってきました。「得意先の接待は終わったので今から深夜の食事に行くが、出て来ないか?」「今月も売り上げが伸びたので、お祝いに一杯どうや?」とか、様々な理由の誘いを受けました。
 河村さんのところに泊まり込んで大濠公園を走った頃、ほんの少し日焼けをしたのです。そうするとその人は、早速当日の会社帰りに日焼け止めローションをそっと手渡してくれました。僕が日焼けしていくのが堪らなかったのでしょうね。僕がその人に気に入られたのは「白いこと」だったのかもしれません。



 僕はロックグラスを取ろうと、手紙から目を離さないで机の上を手で探った。この部屋で佐里君が泊まった日に、佐里君の首筋に浮かんでいた内出血はその男からの望まないキスマークだったのだ。ロックグラスを掴んでウイスキーを一気に流し込んだ。グラスに付着していた水滴がぽたりと落ちて手紙を濡らした。



 小学生の「あの時」、白い恐竜が僕を支配するようになって以来、これも白いことに関することだとすれば、今夏が最大のピンチだったと思います。
 河村さん達とはこの「文字」の仕事は絶対に続けたいし、社員として続けるためにはその人とのデートも断れなくなってしまうでしょう。僕は迷い続け、結構お酒も飲みました。考えれば考えるほど出口の見えない深みにはまっていきました。 
 そんな時、河村さんが大濠公園を毎朝走ろうと言ってくれたのです。最初は戸惑いながらで、あまり気乗りがしませんでした。実際に走ってみると苦しかったけれど、しばらく感じたことのなかった充実感が残りました。
 河村さんが「走ろう」と言ってくれたのは、僕のためだということは最初から分っています。河村さんのアパートに泊まり込む案は、あの人の電話から僕を守るためという理由ではなかったでしょうが、とにかく三、四日間は逃れることが出来ました。
 しかし、会社ではあの人から逃れることが出来ません。僕はどこに泊まっているのかと詰問されました。河村さんのアパートに行けなくなった日は、実はその人に跡をつけられているのが判り、回り道をして自分のアパートに帰りました。
 すぐに僕のアパートのドアが長い間、何回もノックされました。耳を両手で塞いで、ノックの音が去るのをベッドの隅で鳥肌を立てながらうずくまり、待ち続けました。ノックの音がこれほど怖いものだとは。しばらくして静かになったと思ったら、今度は電話が鳴り始めました。音を避けようとバスルームに駆け込んでも、音は小さくなりながらもどこまでも追いかけてきます。あまりにも長く鳴り続けるベルについに正気を保てなくなってしまいました。
 バスルームを飛び出るとすぐに電話線を引き抜きました。僕はまた拒絶の道を選んだのです。今なら電話線を抜く前になぜ河村さんへ電話しなかったんだろうと思えます。しかし、恐怖心に駆られた時点ではそうすることしか出来ませんでした。
 
 僕には河村さんが「自分自身のため」じゃなくて、あかの他人である「佐里」のために、走るという行為を一緒に始めてくれたのだと確信しています。しかし、TVの値段間違いで迷惑をかけたり、河村さんの役に立つことなど少なかったのに、どうしてこんな僕のためにそこまで気を遣ってくれたのでしょうか。
 何故、利益になりそうもないことにまで、気持ち良く首を突っ込んでくれるのでしょう。僕には分りません。これまで、殻に閉じこもって、自分のことだけしか考えて来なかったからでしょうか。残念だけど、理解できません。だけど、これだけは言えます。河村さんが僕のためにやってくれようとしたこと自体は、きちんと僕の心に届いていたということです。一人じゃないという安心感と温かさで、涙が出るほど嬉しかったのです。
 河村さんはコピーライターなのに言葉ではなくて、心で伝えようとしますね。本当はコピーライターとしては、それではいけないのかもしれないけど、僕にはそのやり方が一番伝わりました。むしろ、僕もそのことを頭に置いて、もし次の人生があるならばそのような温かいコミュニケーションの方法を考えたいと思います。

 孤独だった僕の短い人生の最期に、人とのかかわり合いがこんなに素晴らしいものかと教えてくれた河村さんに感謝します。お返しも出来ずに立ち去ることをお許し下さい。今日は気分が良くて、こんなに文章が書けましたが、僕の中でまだ解決できていない部分や、話すべきかどうか結論が出せていない部分はそのままです。この次また、と思いますが。ごめんなさい、もう疲れました。

 もう一度お会いしたかった。そしてもう一度、河村さんと大濠公園を走りたかったです。                                      佐里
                   
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by hosokawatry | 2011-09-19 12:00 | ブログ小説・あの蒼い夏に

あの蒼い夏に〜チラシづくりの青春・37〜


                    37


「河村、ちょっといいか」
 午前九時半過ぎに、ワタリ係長から声が掛かった。僕はバナナの写真を切り抜いている手を止めて、ワタリ係長に続いて商談室に入った。白目を剥いたモジリアニのリトグラフが壁にかかっていて、テーブルの上ではクリスタルカットのガラス灰皿が輝いている。後ろ手でそっとドアを閉めると、二人の商談室はすぐに朝の職場の喧噪から隔絶された。
 椅子に座る前にワタリ係長はその重いカットガラスのライターを持ち上げて、カチッとタバコに火を点けた。
「さきほど、ステップ写植の社長から電話があったけど、例のテレビ価格の写植間違いをした子のことで」
「佐里君のことですね」
「そう」
「どこにいるか分かったんですか?」
「ああ、実家に帰っていたそうだ」とワタリ係長は頷きながら、タバコの灰を弾いて落とした。
 さっきまで僕を見つめていたモジリアニの女の目が、ブラインドの作る影に隠れていく。表情を奪われはじめた女の顔の前を、タバコの煙が静かに昇って行く。

「この話、俺以外には誰にも知られたくないということだが、いいか?」
 僕は息を飲んでゆっくりと頷いた。膝の上の両拳に力がこもった。
「誰にも言うなよ」とワタリ係長は念を押した。

「自殺しようとした」
「えっ、自殺ですか?」
「そう、一昨日」
 ワタリ係長は大きく煙を吐き出すと、ほんの少し先端の火を見つめた後、タバコを揉み消した。
「未遂だったそうだ。今、入院している」
 
 ワタリ係長はステップ写植の社長から聞いた内容をかいつまんで伝えてくれた。佐里君は手首にナイフを入れたが、母親の早い発見で、偶然にも一命を取り留めたそうだ。  
 仕事の方はどうなるか分からないが、しばらくはそっとしておいて欲しいということ。それに、彼の将来のこともあるし、自殺未遂のことは誰にも口外しないでくれと念を押されたらしい。僕は表面では平静を保ちながらも、無意識に出るため息の数だけ力が抜けて行くのが分かった。

 自殺を図った本当の理由については、分かるはずもなかった。ワタリ係長の段階では、写植の値段間違いなどが、悩みの直接の原因として受け止められていた。僕が知っている夜の仲間のことまでは伝わっていないようだ。

「これ以上ウチには迷惑がかからないように、新しく補填の社員を募集するそうだ」と、ワタリ係長は言った後、席を立った。ドアノブを握った係長は振り向きざまに「聞かなかったことにしてくれるな。あの子のためにも」と付け加えた。滅多にない厳しい表情で。

 自殺未遂。回復できるかどうかは分らないが、恐らくステップ写植の社長の選択肢の中には、佐里君の職場復帰プランなど存在していないに違いない。このままでは間違いなく、僕とペアを組んだチラシづくりは出来なくなるだろう。
 社会人として、越えてはいけない一線。たった一度だけのラインオーバー。やはり無断欠勤、自殺未遂が及ぼす社会的影響は決して軽くはないのだろう。だからといって、一度の失敗だけで復帰が閉ざされる現実というものは、厳しすぎないだろうか。所属する会社と得意先に迷惑をかけたという重い事実があるにしろ、それでも絶対に冷たすぎる。二度とチャンスを与えられないという冷酷な現実を目の前に突きつけられて、社会人二年目の僕は狼狽した。

 自腹を切ってでも経験すべきだと言う若い頃の失敗。ステップ写植の社長は若い頃に失敗なんかしたことがなかったのだろう。へ〜、そんなの神業じゃないか。あの社長が神様? 失敗を経験していないから他人の苦しみに理解を示せないだって? 失敗のない人生など聞いたことがないし、100%完璧な人間など絶対にいるはずがない。僕が知っている社長も当然ながら神様にはほど遠い人種だ。だから分るはずだ、彼の苦しみが。社長の佐里君への対処は酷いに尽きる。

 僕は午後の仕事を続けながら、一人で憤っていた。
 このままでは納得できそうもない。一緒に汗を流した仲間として、友人として。だが、この僕にいったい何が出来るだろうか。この非力すぎる僕に。
 脳裏を佐里君の姿が駆け巡る。崖っぷちの世界に身をさらした佐里君。絶望の果ての選択だったのだろう。そして今、自殺未遂の片隅にうずくまっている佐里君。
 職場の壁を眺めていると、雨の大濠公園を走った後に見せてくれた満足そうな佐里君の笑顔が現れる。すぐに笑顔は濠の水面に落ちる一滴の雨のように、同心円の波紋を描きながら広がり、外周円の遥か遠くの無に向かって溶けていく。笑顔が消え去ると、僕の心の中にはやるせなさだけが残される。
 僕は仕事に上手く集中できなかった。「もう済んだことだ、忘れてしまえ!」と頭の中で黒い生き物が指図を始めた。今年流行のボートネックのTシャツのセールコピーを、二日酔いの翌朝のように、何度も何度も書き直した。

 
 いつものように最終バスでアパートに帰り着いた僕を待っていたのは、またもや一通の手紙だった。
 手紙を引き抜く時、新聞受けのカバーは深夜だというのにギシギシと他人迷惑な金属音を立てた。見覚えのある宛名の几帳面な文字。女学生が使う丸文字よりもわずかに角張っている。かすみの文字ではなかった。
 一昨日の消印になっている。
 封筒を裏返すと、差出人の住所も名前も記入されていない。
 
 僕はゆっくりとペーパーカッターの刃を入れた。
 間違いなく佐里君からの手紙だった。人差し指で首筋のネクタイを緩め、扇風機のスイッチを入れた後、ベッドに腰を下ろして便箋を開いた。


河村さん

 暑い日が続いていますが、残業は続いていますか?

 僕は今、実家に戻っています。河村さんに何も言わずに突然姿を隠してしまったこと、本当に申し訳なく思っています。すみません。
 こんな僕のためにいろいろと世話を焼いてくださったのに、一言もなく立ち去ってしまって、僕は本当にダメな人間です。事実を話せないだけでなく、人間の善意を裏切ることを平気でやってしまったり、もう心の奥底まで腐っているのかもしれません。
 実は追い山の後の土曜日の夜、河村さんのアパートに行った時、それまで僕に起こっていたすべてのことを話すつもりでした。しかし、意気地がなくてついに肝心なところは話せませんでした。そしてそれ以後も話すチャンスは何回もあったのに…。すみません。

 しばらくは混乱したままで実家に閉じ篭っていましたが、今日はなぜか心の靄が取れたようでスッキリしています。不思議なくらい視界が良いのです。そして気分のほうもこれまでになく安定しています。
 実は明け方に走っている夢を見ました。本当は何かから逃げている夢だったのかもしれませんが、よく解りません。とにかく目を覚ますと汗びっしょりでした。まるで大濠公園を河村さんと走った後のようでした。理由はなんであれ、走り終えた後のような気持ちのよい汗と爽快感、それが気分を良くさせたのかもしれません。それで河村さんに話せなかったことも、今なら話せるような気がしてペンを取りました。

 僕にはこれまで親友と呼べる友人や相談出来るような先生が一人もいませんでした。もちろん、きちんと付き合った人なんか、一人もいません。僕は「ある時」をもって、人への拒絶のサインを出しはじめました。それ以来、僕に近寄って来る人はほとんどありません。
 僕は生まれつき色素が足りないせいか、肌の色が友達の誰より白過ぎました。髪の色も少し赤茶けていて、真っ黒ではありません。そんなことで? と思われるかもしれませんが、「白すぎる事」はかなり深刻な悩みでした。目に見えて周囲の人と違うものに対して悩み、そして母を憎みました。そのことで囃し立てられたり、いじめられたりと、時には我慢を超えそうなこともありましたが、なんとか負けまいと自分なりに頑張り通したつもりです。
 そんな僕にも幼馴染みで何でも話せる女の子がいました。悪童たちに「シロ」と犬を呼ぶようにからかわれていた時にも、かばいながら一緒に通学してくれた女の子です。しかし小学3年のある時、唯一理解のあったその子に「やっぱり白い子は好きじゃない」と言われたのです。
 その言葉はこの世のなによりショックでした。日焼けした方が活発そうで良いな、というくらいの意味だったのかもしれませんが、僕にはそうは聞こえなかったのです。その瞬間から周りがネガティブな世界に一変したのを憶えています。それ以来、僕はその子に目を向けられなくなりました。その一言が心に残り続け、心の足かせになってしまいました。僕にとっての「白い」は「拒絶」の入り口です。色白は僕の心の中で白い恐竜に育って行き、だんだん他人との接触を拒否させるようになって行きました。河村さんにも解ってもらえないと思いますが、顔の色のことが話題に上ることが怖くて怖くて。それから、もうずっと独りぼっちです。
両親や先生にも友達ができないことを心配して、よく声をかけてもらいましたが「白いこと」が恥ずかしくて、それが原因だなんて言えるはずがありません。


 僕は読みかけの手紙をベッドに置いた。立ち上がって製氷室から氷をグラスに取り出し、ウイスキーを注いだ。机上のスタンドミラーから覗いている自分の顔の色は白くない。
 佐里君の悩みを本当に理解できるだろうか。自殺を図った佐里君の心に触れることは可能だろうか。助けを求めていたあの夢の中の白い手は、最後に僕あてのペンを握ったのだ。窓から見える一番大きな星が頷くように瞬いた。僕は珍しくタバコには手を伸ばさないで、再び手紙を手に取った。
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by hosokawatry | 2009-12-29 15:59 | ブログ小説・あの蒼い夏に

あの蒼い夏に〜チラシづくりの青春・36〜




                  36




 アナザーウェイで飲んだ翌朝も青空だったが、僕の心と肝臓は笑顔を見せなかった。微睡みたい怠惰が早朝ランニングの足を引っ張ろうとしている。そんな折れようとする僕の弱さに、白い手が伸びてくる。助けを求めようとしていた白い手が。窓の外の青い空も僕に決断を促し、戸外へと手招きをする。
 僕は思い切って身体を縛る憂鬱を引き剥がし、ベッドから両脚を降ろした。佐里君、今日も僕は続けるよ。
 そういえば、パンチパーマのお兄さんとはあの雨の日以来、会うこともなかった。僕は大濠公園の外周を走りながら、老婆を捨て身でかばったという白いスーツ姿の男を思った。車にはねられて怪我をしている。まさか? 確か、走るのは夜だと話していたじゃないか。
 汗を出したぶんだけ、気分が軽くなっていく。ありがとう、佐里君。


「おはようございます」
 瀟洒な洋館の緑色した鉄門扉越しに声が聞こえた。振り向くと、品の良い三十歳前後の女性が立っている。毎朝、二階の窓辺で僕と視線を交わしていた女の子の母親だろう。二日酔い気味の直感でも分かった。ただ、その女性の表情には庭のピンク色の花のような明るさはなかった。
「あの、お忙しいご出勤時間に申し訳ありませんが、もしよろしければ、少しだけお時間をいただくわけにはいかないでしょうか」
 僕はいつものように二階の窓を見た後、すぐに腕時計に視線を落とした。五分くらいなら大丈夫だろう。頷いた僕に女性は一歩近づき、手に持っていた画用紙を差し出した。

「実はこの絵を、どうしても渡して欲しいと娘に頼まれまして。この絵のネクタイとあなたのネクタイが同じストライプなので。色も良く似ていますし。それに娘が言う朝の時間にぴったりですし、あなたではと。描かれている絵がチンパンジーみたいで、とても失礼だとは思ったのですが」
 僕は茶色のチンパンジーと白いチンパンジーが仲良く描かれているクレヨン画を眺めた。確かに茶色のチンパンジーが締めているネクタイは、僕のレジメンタイと同じだ。白いチンパンジーは佐里君かもしれない。
「間違いないでしょう」
 僕は頷いた後、ためらわずに毎朝女の子の前で変身していたチンパンジーになった。これ以上の証拠はないだろう。昨日のアルコールは確実に残っている。
「あら、良く似てますこと、フフッ」と母親は笑顔の口元を手の甲で隠した。

「娘さんは?」と訊ねる僕に、母親は身体が弱く外で遊べない娘の話をしてくれた。その娘は今、検査のため入院をしていること。毎朝遊んでくれたチンパンジーのお兄ちゃんが大好きと、病院のベッドでその絵を描き上げたことを話してくれた。おにいちゃんへ、と画用紙の下に精一杯の文字が並んでいる。

「あの赤い花、きれいですね」
 僕はもらった絵のお礼を言った後、庭の花を褒めた。
「ペチュニアというんです」
 束の間の話題に、母親は再び白い歯を覘かせ、表情を緩めた。

 可能な時間の五分を過ぎてしまったので、慌てて出勤途中のサラリーマンに戻った。
 僕はバス停で丸めた画用紙を開いて、もう一度眺めた。人間チンパンジーが良く描けている。にやっと口元が緩む。気配を感じて振り返ると、後ろに並んでいた女子高生が声を出さずに笑っていた。


 僕はその日、バイト先の花屋にいたかすみに電話をかけた。病気の小さな彼女の見舞いに使う花束を作ってもらおうとしたが、かすみは賛成しなかった。その子の家の庭にはたくさんの花が咲いているのを話していたからだ。庭の花が病室に飾られることは間違いない。
 それより、これからもたくさん絵を描いてほしいな、との願いを込めて、スケッチブックを持っていくことにした。
 僕たちは日曜日に天神の文房具屋でスケッチブックを買い求めた。そして、最初のページにチンパンジーの写真の切り抜きを貼り込んだ。その上に「また、あおうね」と書いた吹き出しを重ねた。
 かすみと一緒に日曜の午後、瀟洒な洋館を訪ね、そのお見舞いを母親に手渡した。母親はこれから病院に向かうところだと言った。娘の手術日が近づく母親は、思わぬ見舞いに目頭を押さえた。
「大喜びしますわ、きっと」
 小さな心臓にメスが入ることを話してくれてた後、おかまいも出来ませんでと、僕たちに頭を下げて慌てて出かけていった。三年後には歩いてもすぐのところに、最先端の医療機器を備えた市立こども病院が建つという。断念ながら、チンパンジーを好きな女の子には間に合わなかった。

「必要なときには無いのよね。なんでもそう」
 かすみは遠ざかる母親の背中を眺めながら、僕の手を握りしめた。
「僕はそばにいる」
「今日は、ね」
 僕の肩にそっとかすみは頭をもたれかけた。
 


「今年の立秋は八月八日やと思うが、得意先への暑中見舞いはその前に出しておくようにせなあかん。もし遅れて八日以後になったら、必ず『残暑見舞い』に変えなあかんで」と野瀬課長が朝礼でしゃべっている。
 僕たちはいつの間にか八月の声を聞いてしまった。相変わらず、アフター5は仕事のためにあり、僕たちは実験室の白い鼠のように、昼夜を問わずに回転車の中を懸命に走り、回し続けている。チラシ作りは主婦が食事作りを放棄しない限りは続く。チラシはオイルショックの狂乱物価も、三年前にしっかり乗り越えたのだ。
 僕は違った意味で、この夏のチラシ作りを乗り越えなくてはならなかった。次のチラシ間違いは絶対に許されない身の上なのだ。エアコンの吹き出し音と滲む汗に侵されながらも、僕は毎日の業務に必要以上の緊張感を強いられた。集中を欠けば3度目の失敗を迎えることになってしまう。
「間違いのない仕事の進め方」が一番大切なことだという、課長や永野さんの言葉がやけに身に沁みる。大きく漕ぎだそうとする心と揺れないように気を配る心。僕は荒波の中に、苦手なバランスを求められた。


 雨が少ない日が続いた。渇水を心配する記事が新聞に掲載された。そんな日の残業の夜、「心の水遣りにいこう」と竹田さんが誘ってくれたので、ドライ・マティーニを飲みに出かけた。
 長男の竹田さんは、故郷の滋賀県に帰ることになったと、いつものように黒い首筋をぼりぼり掻きながら、あっさりと言った。熟考の末の諦観なのだろう。やけにさっぱりとして、乾いている。
 一ヶ月前に俺はチラシ作りに疲れたミミズだ、湿ったミミズだと言った竹田さんが懐かしい。
「親父の店を継ぐよ」
「店ですか?」
「ああ、農機具販売の店だ」
「農機具?」
「知ってるだろ、ヤン坊マー坊なんてTVに流れている天気予報」
 竹田さんは両切りピースの紫煙をゆっくりと吹き出した。
「そのメーカーの耕耘機なんか売るんだよ」
 
 マスターが二杯目のグラスを目の前に置いた。

「もう、クリエイティブとは関係ない世界さ。終わりだよ」
「でも、竹田さんは売るためのコピーを書いてきた」
「ああ」
「販売にもそのクリエイティブは役に立つんじゃ?」
「どうだろう」
「けっこう、恵屋さんには人気があったじゃないですか。もう終わりなんて、もったいない気がします。」
「そうかな?」と言ったっきり、竹田さんは黙りこくった。
 しばらくして「河村、これまで俺の中にプライドを感じたことがあったか?」と質問をしたきり、それ以来、自分から口を開こうとはしなくなった。

「幸運機キャンペーンが出来ますね」と誘いかけても空返事がかえってくるようになった。三杯目のドライ・マティーニに竹田さんの背中が揺れだした。呆れるほどアルコールに強かった竹田さんが酔っている。マスターが心配そうに視線を向けた。
 竹田さんはやっぱり疲れていた。僕が残業をしているときには、いつだってその姿を見つけることが出来た。ハイレベルな質を追いながら、量の要求に応えようとした竹田さん。そのプライドは前髪を薄くして、三杯のマティーニに沈んでしまうほどの竹田さんに姿を変貌させた。


 銀色の三日月が照らす路地裏の道は、希望が見えるほど明るくなかった。割れた舗装に揺れる後部座席。竹田さんは目の前の座席の背を、何かにすがるように両手で抱え込んでいる。揺れない人生はない。不安定な二人を乗せた深夜タクシーは、ヘッドライトに浮かび上がる聖福寺前の路地を独身寮へ急いだ。
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by hosokawatry | 2009-02-23 00:30 | ブログ小説・あの蒼い夏に

あの蒼い夏に 〜チラシ作りの青春・35〜




                    35



「河村、大博多印刷の営業担当と仲が良いんだろ? 今日、アナザーウェイとかいう、面白い店に連れて行ってくれるらしいのだけど。一緒に行かんか? それに少しばかり聞きたいこともあるし」
「ワタリさん、それ業務命令ですか?」
「その方が行きやすいのなら」
「はぁ、アナザーウェイですね」
 僕はアザミさんの顔を思い浮かべながら、しぶしぶ了承した。「河村クンって、やっぱり怪しい人だったのね」と頭の中でかすみがつぶやいている。よく考えればアナザーウェイはこれで五回目かもしれない。誤解を招くには十分な回数だ。
「アナザーウェイって、もうひとつの道という意味か?」とワタリ係長は僕に訊ねた。
「ワタリさんならママに喜ばれると思いますし、楽しめるかもしれません」
「どういう意味や、それ?」
 僕は八時過ぎまでは版下入稿があるので、それまでは無理ですと言った。じゃあ九時出発ということにしよう、とワタリ係長は受話器の向こうから業務命令を下した。


「あ〜ら、衆矢君じゃないの。元気だった〜? 大博多印刷君も久しぶりね」
 アザミさんはいつもの強烈な香水の匂いをまとって現れた。僕たちはエアコンのよく効いたL字ボックス席に腰を下ろすと、アザミさんはそこがいいわ、と言いながら、大博多印刷の営業とワタリ係長の間に身体を割り込ませた。
 水割りを作りながら、アザミさんは初対面のワタリ係長を見て嬉しそうに微笑んだ。よろしくね、うふっ、と言葉をかけ、ワタリ係長の手の甲に自分の大きな手のひらを重ねた。一瞬、ワタリ係長の手が固くなったように見えた。男の体温を感じ取ったワタリ係長の表情がぎこちなく映る。
「ところで、衆矢君。かすみちゃんは元気?」
 アザミさんは触れられたくない彼女の話題に、堂々と切り込んできた。
 逃げていると思われたくないので、僕は真面目ぶった口調でアザミさんに応えた。
「エキは飛ばしたけれど、止まるべきエキはひとつだけです」
 冗談を言ったつもりだったが、僕はテレを隠せない程、顔が赤くなっていくのが分かった。
「あら〜、まあ。赤くなって。それにしてもきちんと言ったわね。たいしたものだわ。ん〜、ワタシが見込んだだけのことはあるわ。やっぱり新幹線男じゃなかったものね。このまき散らすだけの大博多印刷男と違って」
 アザミさんは隣の大博多印刷の営業を横目でちらっと見た。
 その後、僕を優しい眼差しで見つめながら、「そう、ついにエキを飛ばしてしまったのね」と少しばかり口惜しそうな表情を見せた。
 ワタリ係長は初めて聞く、分かりにくい新幹線の会話にも、ニコニコと付き合ってくれている。その後、アザミさんが大博多印刷の新幹線男と話し込んでるのを見計らって、永野さんと三ツ谷さんの状況と佐里君の性格などを訊いてきた。

「仕事の話? 二人で真剣な顔をして。もっと、楽しくやらないとつまんないわよ人生は。そうでしょ係長?」と、僕の話を真剣に聞いているワタリ係長に向かって言った。そして、両方の手でワタリ係長と大博多印刷の新幹線男の股間をグッと握りしめた。
「あら〜、係長。さすが立派だわ」
アザミさんは慌てて腰を引いたワタリ係長に向かって、熱い視線を送った。
「新幹線男のより、ぜんぜん迫力ね」
「悪かったですね」と、大博多印刷の営業は不貞腐れた。
「ん〜、別にあなたのが小さいとは言ったわけじゃないわ」
「はい、はい」

「ところでね、みんな悪の十字架の話、知ってる? そう、じゃあ、恐怖のみそ汁は? な〜んだ、みんな知ってるの? つまんないわね。でもまあ、結構有名な話だから、知らない方がおかしいかもね」

 アザミさんはタバコを一本抜き出すと、僕たちに煙がかからないように向きを変えて美味しそうに吸い始めた。ニコチン・タールのキツいタバコは重い煙になって、エアコンの風に運ばれていく。アザミさんはほんの少し宙を睨んだ後、再度、話を切り出した。
 アザミさんは真面目な顔をしながら、道ならぬ恋に走って心中した恋人たちの話だと前置きをした。最近仕入れた文学的下ネタらしい。
「発見された死体は必ず男はうつぶせになっていて、女は仰向けになっているんだって」
「本当ですか? そんな話信じられないなぁ」と、大博多印刷の営業マンは言った。
「不思議だけど、本当らしいわよ」
 アザミさんは自信満々に言い切った。
「言われてみれば、そう、それが男女の無意識の形かもしれないな?」
 大博多印刷の営業マンは怪しみながらアザミさんに視線を返した。僕は科学的根拠が見いだせるはずのない現象など信じなかったが、にこっと笑って首を縦に振った。
「ところで、死んだ方の男の体を『死体』というけど、女の死体はなんて言うか分かる?」
 三人とも首を揃えて横に振った。
「『遺体』って言うんだってよ。女のは」
「男がシタイで、女がイタイですか。うん、良くできてる話ですね。ははは」とワタリ係長が笑った。
「ところがね、最近はそうでもないらしいのよ。最近は俯せの女の死体が多いって言うし、男の仰向けも良く見かけるってよ」
「それって、ウーマンリブ運動の結果でしょうね」と大博多印刷の営業は言った。
「男がだらしなくなったからよ、そんなの。女のせいにしちゃ駄目よ」と、アザミさんはぴしゃりと言い返した。
「で、そんな仰向けになった男の死体をなんと言うか分かる?男はイタイとか言わないしね」
「男は仰向きになっても『シタイ』って言うんじゃないですかね」
 大博多印刷の営業の答えに、アザミさんはゆっくり横に首を振った。
「『いいタイ』って言うんですって、博多の男は。絶対に断らないそうよ」
「反則ですよ、そんなの。最初っから博多の男って言ってくれなくっちゃ。ねぇ、ワタリ係長」
 大博多印刷の営業はワタリ係長に相槌を求めた。ワタリ係長は笑いながら「いや、良くできている話だ」としきりに感心し続けた。

 いつも笑わせようとしてくれるアザミさんのプロ魂には感謝しなければならないが、今日はここに完全燃焼できない自分がいる。佐里君の記憶が僕の心に暗い影を落としている。
 アザミさんに新幹線男と嫌みを言われ続けた大博多印刷の営業は、歌詞だけが画面に出る最新型のカラオケで「わかってください」を歌っている。その歌は僕にはとてももの悲しい歌に聞こえた。

 アザミさんは友人が最近遭遇したという事故の話を始めた。中洲の近所の交差点での話らしい。赤信号を渡ろうとしていた老婆を、身を乗り出して車から救った男の話だった。その男は老婆を守ろうと、身体でかばったところをその車にはねられてしまったという。  
 「こら、気をつけんか。こっちの信号は青バイ」とあわてて運転席から降りてきた男を、その白いスーツ男は、「何っ、なんば言いよるとか」と言って殴り倒した。その後、白いスーツ男もぶつかった腰の部分を押さえながら、気絶するように倒れ込んだということだった。

「自分のことしか考えんようになった世知辛いご時世に、自分の身を投げ出して人をかばうなんてね。そんな人がまだいるのね。ま〜、大したものだわ」
 すぐに殴る行為はどうかと思うが、とにかくアザミさんは白いスーツ男を持ち上げた。
 僕は徹夜で過ごした追い山の翌日を思い出していた。睡眠不足でふらふらしながら残業をしていたあの夜。パチンコに行っていたはずの三ツ谷さんがいつの間にか現れていて、一人で深夜に仕事を手伝っていてくれたことを。
 僕は自分のことだけに一生懸命になりすぎてはいないだろうか。他人のための優しい思いやりを口にすることもあるが、それは本当だろうか。いざという時に、僕はその人たちのように立ち上がれるのだろうか。
 失踪した佐里君のことも、心の中に自分勝手なヒロイズムを育てているだけなのかもしれない。そうであれば、この一週間の僕のこの心配は何だったんだろう。自作の虚構に酔い、その奴隷に成り下がっていたのではないだろうか。
 いいや、そうではない。こんな僕だって、他人のために本気になれることはある。僕は冴えない頭を振って確かめた。
 アルコールが入った頭で、考えすぎない方がよい。今夜の僕は悪酔いのパターンに足を突っ込もうとしている。けっして気分が良くなる方向を向いていない。
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by hosokawatry | 2009-02-02 02:03 | ブログ小説・あの蒼い夏に

あの蒼い夏に 〜チラシ作りの青春・34〜





                  34



 僕はかすみの手を握りしめながら、浅い夜の斜めに伸びる月影の中をバス停まで歩いた。
 かすみは「河村クン」と僕の名前を呼んだ後、愛すべき指で僕の手のひらに二文字を書き込んだ。少しくすぐったい。僕が首を傾げると、今度は簡単な二文字にして「すき」と書き直した。
 僕は汗ばむ手のひらでかすみの指を包み込み、強く握りしめることでゆっくりと返答した。かすみが門限ギリギリの西鉄バスに乗り込むまで、僕たちは手を離さなかった。
 遠ざかるバスの後部座席から寂しさが入り交じった複雑な笑顔がのぞき、そして消えていく。かすみは今日、誰と泳ぎにいったことになるのだろう。警察官の父親は果たして信じてくれるだろうか? ただ、今、言えることは僕と一緒に大人への道を「しっかり」と歩いているということだ。心配は、多分要らない。僕は相棒が消えてしまっても、約束どうりに大濠公園を走り回っているような男だから。

 日曜日をかすみと佐里君の記憶と一緒に過ごした。僕の部屋に体温を残していった二人。書き込まれたばかりの甘美な記憶。そして消失の危機にある存在の記憶。 
 僕は早朝ランニング以外は暑い部屋で、一日中、本を読み通した。CIAとKGBの局員が争うスパイ小説のページの章が変わるごとに、二人の記憶が割り込んでくる。扇風機にはページを何度も飛ばされるし、いっこうに読み進む速度が上がらない。
 指でしっかりと押さえながら読むことはずいぶん骨の折れることだが、今はそれも仕方がない。冷房専用クーラーはまだまだ値段が高く、社会人二年目の僕には手が届かないのだ。
 夕方、ストーリーの終盤にCIAのエージェントが追いつめられたところで、電話のベルが鳴った。かすみからだった。お土産のジャムはもう食べた?と、聞いてきたので、もう嬉しくって朝からイチゴジャムを動けなくなるほど食べ過ぎてしまい、それで一日中部屋の中で横たわったまま本を読んでいるんだ、と答えた。
「へぇ〜、そう」と、かすみは何故か疑うような口調で言った。「で、美味しかった?」
「うん、とても。昔からイチゴのジャムが大好きだったんだ」
「…… そうなの」と、かすみは声のトーンを落とした。
「そう」
「ん〜、河村クンだって嘘つくんだ」
「えっ?」
「本当はまだ食べてないでしょ、ワタシのお土産」
「うっ……」
「実はね」
「何?」
「だってあれ、マーマレードだったはずだけど」
「ん?」
「その店、マーマレードの箱を切らしていたらしくて、ワタシ、イチゴ用の箱でもいいって言ったんだ、実は」
「………………」

「友達だっていう佐里クンという男の人も、ほんとにただの友達なんだよね? なんだか怪しくなってきたわ」
「………」
「じゃあ、昨日、愛しているって言ってくれたことは?」
「ジャム以外のことは全部本当だよ」
「本当?」
「神に誓って」
 僕は神妙に声をだした。軽いノリで美味しかったよとお土産へのお礼を言ったつもりだったのに、まるで結婚式の宣誓のようなものまでさせられようとしている。軽はずみだった自分を悔やんだ。
 少しばかりの沈黙の時間を演出した後、かすみは気を取り直したように陽気に切り出した。

「うん、でも、許してあげる。ただし条件付きで」

 嘘をついた罰にと、僕はかすみから来週の日曜日のサンドイッチ作りを強引に約束させられた。

 かすみからの電話の後に、佐里君のアパートに電話を入れてみた。呼び出し音を二十回数えた後、力なく受話器を置いた。回り続ける扇風機の風に、テーブルの上の文庫本がパラパラと音を立てながらめくれ続けている。最近、僕は佐里君へのダイヤルをまわす度に、責任を果たせていない虚しさに襲われ始めるようになってしまった。この瞬間も夏の終わりに感じるような、得体の知れない物悲しさと不安が僕を包み込もうとしてる。まだ、夏休みに入ったばかりで、バカンスモードもこれからだという時期なのに。
「お前の友達は見つかったかい。見つかっていないって? そうだろう。もう、止めておくことだな、友達を何とかしようなどと馬鹿げたことは」
 頭の中で、黒い悪魔がご苦労なことだという顔をした。


 七月最後の週は暑く、火曜日に一時間ほどお湿り程度に雨が降った以外は、カラカラと晴れる日が続いた。最高気温がなんと三十四度近くまで上がった日もあった。もちろん熱帯夜は連日続く。そんな中で、僕の心の中の最後の柔らかい部分だけは、かすみを思うことでかろうじて潤いを保つことができていた。
 永野さん・三ツ谷さんとチームを組む「年末・年始の恵屋合同チラシコンペ」のためのプロジェクトは、やっと実りに向かって進み始めていた。幸いなことに、二人の間に起こった衝突のわだかまりも嘘のように感じられなくなった。それは、あくまでも表面上の話だと、周りの誰もがそう認識しているように見えた。中心部のマグマの沸騰温度は、そんなに早く冷めてしまうはずがない、と僕も思っている。
 未定だった正月の折込みチラシのメインフレーズ「もっとあなたのために」のビジュアルも決まった。恵屋はパンを店内で焼き上げるのが自慢だ。地域一番店を目指す恵屋のパン職人のお客様への想いを込めた「フランスパンの手作りシーン」を採用することになった。お客様の幸せのための真剣な職人のまなざし。それは企業理念にもきちんとフィットするし、三人ともこれはいけると思った。

 僕は恵屋の咲田店長から貰ったものの、屋台の晴照に忘れて帰ったフランスパンを思い出した。佐里君と二人で貰った褒美だった。佐里君もそのフランスパンも今はない。徐々に重苦しさを増す喪失感は仕事中も時間をわきまえることなく、悪戯を楽しむ子供のように、僕の心の中をどこまでも追いかけてくる。

 僕たちのチーム案は仕上がりに問題さえなければ、社内コンペで勝つのではないか。僕の中にも確信に近いものが芽生え始めていた。ワタリ係長が「勝ったチームには賞金が出る」と言ったのをはっきりと憶えている。僕は捕らぬ狸の皮算用に入った。
 三人で旨い高級寿司を食べにいくというのはどうだろうか。しかし、犬猿の二人に僕が混じる構成では、これまでの心理状況を考えると、せっかくの旨いものも旨く感じられないのではないか。高級クラブで祝杯をあげるのも、二人の会話の発展次第では間違った方向に走る可能性がある。やっと小さくなっていた炎に、アルコールを注ぐようなことをしてはいけない。とにかく慎重にならなければならないし、いずれにしても骨が折れそうなので、コンペの勝利を簡単には喜べないかもしれない。
 そうはいっても、今年こそは広告代理店の電広堂に負ける訳にはいかない。出来映えも上々、相当に期待できるレベルだ。ワクワク感が広がり、前輪駆動車のように前のめりになりかかっているのが、自分でも可笑しかった。

 
 車のリース会社からの外線電話を竹田さんが三ツ谷さんに取り次いだ。
「ウルトラマンさん、車の修理が終わったそうです。三番です」
 三ツ谷さんは受話器を取りながら立ち上がったが、いつものようにはすぐに言葉が出てこなかった。ウルトラマンへの期待感から、職場内は固唾を飲んだ。
「う〜ん……、ジ、ジャッキ」
 周りの反応が鈍い。いつものように、笑い声が聞こえてこない。思いっきり外したのかもしれない。
 期待に応えられなかった残念な思いに駆られた三ツ谷さんは、かなり焦っているように見えた。外線ボタンを慌てて押し、受話器に八つ当たりをした。
「こら修理屋、お前が悪かとタイ」と三ツ谷さんが大声を出したとたん、野瀬課長が「フフフ、役者やのう」と、舌を鳴らしながら人差し指をワイパーのように二、三度振った。野瀬課長は三ツ谷さんのトリックを見事に見抜いていた。
 皆を驚かそうとした三ツ谷さんはバレたかなと、後頭部を掻きながら改めて三番のボタンを押した。
「お待たせしました、三ツ谷です」
 三ツ谷さんは、外線電話が入っていない四番のボタンを押し、相手のいない受話器に向かって大声を出し、八つ当たりをしていたのだ。野瀬課長はタバコを一本抜いて火をつけ、満足そうに煙を吹き出した。中指でコンコンコンと机をたたかない課長も久しぶりだ。
「まだまだ、若いわな、三ツ谷も」
 流石ですね課長、と持ち上げながら、野瀬課長のタバコの箱に金井さんが近づいてきた。

 毎日、僕はステップ写植に電話をして、佐里君が出社していないかを確かめた。返ってくるいつも同じ答えに、僕は力を抜かれ続けた。ふ〜っ。誰にも負けないくらいのため息。失恋した百人のため息をまとめても、僕のため息の方がきっと大きいだろう。
 夏休みの宿題を放り出してしまって、いったい佐里君はどこに行ったのだろう。とても大切な人生の宿題なのに。


「河村、今日は早く終われるか?」
 ワタリ係長からの内線電話で、今日は木曜日だけど飲みに付き合わないかと誘われた。
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by hosokawatry | 2009-01-24 23:58 | ブログ小説・あの蒼い夏に

あの蒼い夏に 〜チラシづくりの青春・33〜





                    33



 土曜日の朝、一人でランニングを済ませた後の冷水シャワーは気持ちよかった。昨夜、いつものように飲み過ぎにならずに済んだのは前田の酩酊のおかげだった。アルコールに飲まれるタイプの後輩も、そういう意味では悪くない。
 しかし、大脳にへばりついている佐里君が一時も意識から離れようとしないので、爽快感にも限界があった。前田への顔面マジック描写も、やり過ぎだったかもしれない。良心がチクリと痛む。それに、チラシ間違いの情けなさは、未だに胡桃の殻のような頑固な硬度を保ったまま脳の奥深く潜んだままだ。
 キリマンジャロの豆が少なくなっている。僕は不快な脳の記憶も一緒に、コーヒー豆を手動式のコーヒーミルでガリガリとひき、湯を沸かした。固めのスクランブルエッグをバタートーストに挟んで食べた。バターに混ぜるマスタードの比率、スクランブルエッグに振りかける塩胡椒とマヨネーズはいつものように完璧だったが、昨夜のバーボンで舌の感度が鈍っている。味覚の何かが物足りない。生野菜がなかったので、冷蔵庫に残っていたきゅうりのピクルスで我慢した。

 僕は「ある願望」が詰まったデイパックを肩から下げて出かけた。かすみとは正午に天神のTOJIで待ち合わせていた。僕たちにはいつだって、落ち着いて話せる場所が必要だった。僕の長時間残業の影響もあり、そのコミュニケーションの時間はいつも不足していたからだ。逢うたびの鮮度は格別だったが、大切なものを失いかねない危うい緊張感も孕んでいた。
 インテリアショップの奥にある静かなコーヒーショップで、僕たちは少しだけ高級なブルーマウンテンを飲みながら、午後の予定を立てた。エクソシスト2は次の機会にすることにして、バーゲンの水着を買いにいく予定だけは以前に聞いていたので、付き合うことにする。ただし、僕はお気に入りの水着が見つかったら、グランドホテルの屋上プールに泳ぎに行くことを提案した。デイパックの中に海パンを入れてきているのだ。タオルは借りれば良い。かすみはためらいもなく、いいよと頷いた。成功だ。
 極彩色のインコのように派手なアロハシャツの女性スタッフが、すごく似合っていると、何度も何度も繰り返している。かすみは結局、マツヤレディスのショップで試着を重ねた後、奨められたオレンジ色のビキニを買った。僕は女性同士のやりとりを遠くから見守った。店を出る時に「胸が大きくない人はビキニの方がいいのよね」と、かすみは僕の方を向いて明るく笑った。

 ホテルの屋上を青い空が包んでいた。プールサイドに腰掛けて、パチャパチャと足を前後に動かしているかすみが眼に入る。夏の日差しに浮かび上がる白い肌は、僕には眩しすぎて正視出来なかった。心臓の鼓動が泳ぐ前なのに妙に速い。日焼けをしていないままの肌には、水着のオレンジ色は強すぎるのかもしれない。小麦色の肌のかすみを見たいと思った。
 裕福そうな家族連れの声が響く。新婚カップルの白い歯。ライトブルーのリクライニングチェアにはサングラス姿の欧米人が横たわっている。透明な水が張られている勾玉型のプールを僕は何度もクロールで繰り返し泳いだ。かすみはゆっくりと平泳ぎを楽しんでいる。

 傾きかけた7月の太陽に顔を照らされながら、僕たちは平和台球場前の堀沿いを歩いた。
「お腹空いたね」
完璧に乾いていない髪を触りながらかすみは言った。僕たちは昼食を食べないまま、プールで遊んでいたことになる。

「河村クン、自慢のサンドイッチ作ってくれる? ワタシ食べたことないし」
「特別の人しか、僕のサンドイッチは口に出来ないのだけど」と、僕はおどけながら敷居の高さを強調した。朝もサンドイッチだったから、遅い昼食にまたパンを食べることには抵抗があったのだ。
「佐里君とかいう男の人は特別で、ワタシは普通なの」
 かすみは「特別」という言葉に反応した。もちろん、かすみは僕と一緒に大濠公園を走っていた佐里君のことも知っている。
「屋台で新幹線とか言っていた女の格好をした人とか、二人で住み始めた少年のような男の人とか。そりゃ、そちらが特別よね、嗜好が怪しい河村クンには」
 僕はうっと、言葉を飲み込んだ。
「それに比べたら、ワタシなんか普通だから面白くないのかしら」
ふと、寂しそうな表情を見せたかすみに僕は少し慌てた。
「い、いや、君は特別さ。僕にとって」と、諦めながらそう言った。今日二度目のサンドイッチというわけだ。
「そう、じゃあワタシにサンドイッチ作ってくれるんだ」
 かすみは上目遣いでフフッと笑い、僕の手をギュッと握りしめた。
 今日は、手紙ではなくて、かすみ本人が僕の部屋に初めて入ることになる記念すべき日になる。

 僕はトーストした厚切りパンに辛しバターを塗った。揚げたてのポークカツを特製のドビーソースにさっと浸して、レタスを敷いたパンにはさんだ。パンの耳をカットした後、半分に切ってカット面を皿に立てた。パセリを添える。
 僕たちは缶ビールを飲みながら、まだ中心部が熱いカツサンドを頬張った。かすみはサンドイッチの店が出せるかもしれないねと言った。僕が学生時代に洋食屋でアルバイトしていたことをかすみは憶えていた。
「ふ〜ん。深夜の勤労青年はチラシを作れるだけではないんだ」
 かすみはカツサンドの味に感心しながら、美味しそうにビールを飲み干した。僕はことわりを入れてタバコに火をつけ、ベッドに腰掛けて夕方の空に煙を吐き出した。乾いたテニスボールの音が隣のコートから僕の部屋に入り込んでくる。素敵な土曜日の夕方だ。
 百道の埋め立て地を通り抜けて、今日最後の海風が吹いている。星が輝き始めるのは、もう少し先のこと。立ち木の影が長く伸びている。FMでデビット・ボウイのスターマンが艶やかに部屋に広がる。ビールのアルコールがふわふわと僕の理性に羽毛を落とすように被いかぶさっていく。
 そうそう、と言って、かすみがゼミ旅行のお土産のイチゴジャムを取り出した。僕が毎朝、パンを食べるのを知っている。朝食とビタミンCの話題になり、ビタミンCと肌の関係に発展し、望んでもいないのに佐里君の肌の白さに行き着いた。
 夢の中で僕に助けを求めて手を伸ばした佐里君。その佐里君がいなくなった部屋にかすみがいる。僕はいつの間にか、押し黙ったままかすみを見つめていた。瞬きのない僕の目の扱いにかすみは戸惑っているように見える。かすみが沈黙に耐えきれずに、ぎこちない笑い顔を僕に向けた瞬間、迫っていた夕闇が僕の背中をすっと押した。
 僕はかすみを強く抱きしめていた。
 いつも元気で強いかすみが腕の中で震えているように感じた。
「河村クン、ワタシのこと好き?」
「うん」
「愛してくれている?」
「もちろん」と僕は照れずにはっきりと答えた。「警察官のお父さんと同じくらいに」
「嬉しい」と呟いたかすみは瞳を閉じ、生まれて初めて味わっていた緊張を解いた。
 ショートカットの髪がサラリと美しく揺れた。
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by hosokawatry | 2009-01-12 18:30 | ブログ小説・あの蒼い夏に