21
僕は居眠りに気をつけたつもりだったが、敵は手強かった。悪魔に意識を奪われないように、頻繁に視線を上げては蛍光スタンドを必死の形相で睨みつけた。首を大きく回したり太ももを強くつねったり、顔を洗いに何度もトイレに行ったが、それでも眠気は立ち去らない。痛いはずの刺激が気持ちよくなり始めていたし、陥落は時間の問題だったのかもしれない。何度目かのこっくりの後、突然まぶたの裏に乳白色の暖かさが流れ、ふっと覚醒の意識が途切れた。職場のざわめきが遠のき、静寂が駆け寄ってくる。
しかし、すぐに眠りは破られた。甘美な眠りの時間をかき分けて、地の底から醜悪な声が響いてきた。音声の輪郭を次第に明らかにしながら僕の方にゆっくりと近づいてくる。聞きたくない声だ。
「河村、お前、本当にいい身分だな」と悪魔の声が永野さんの声へと次第に変っていった。
僕の意識は揺り起こされ、慌てながら声の主の方向を探し出した。理由がなんであれ、居眠りを指摘されることほどばつが悪いものはない。「すみません」と、僕は永野さんにちょこんと頭を下げた。
机の上に視線を落とすと、ペン先のスケッチ用紙には文字になり損なった線が、ミミズのようにくねくねと踊っているのが見えた。ミミズ文字の胴体は最後にぷつんと切れているが、右手はしっかりとペンを握りしめていた。僕は意識を失いかけても、ペンというコピーライターの魂までは手放してはいない。ほっとする間もなく永野さんの声が迫ってきた。
「お前の先輩の竹田だって、昨日の残業であまり寝ていないと思うけど、頑張っているじゃないか」
「……」
「自分の都合で早く帰って、翌日がこれじゃあな」
「……」
「グループのみんなに示しがつかんよなあ、そうだろ?」
「はい」と、僕はまた頭を下げた。
「夏のバーゲンチラシに、来週は盆のチラシも2発入ってくるというのに。それから年末・年始の競合プレテ作成もあるし。お前も暇じゃないはずだけど」
間接的に昨日の早い退社時間が責められているのだろうか。僕は心に数本の矢を受けてよろけながら、グチグチと続く全ての嫌みな説教に頷かざるをえなかった。永野さんの言うことに間違いはなかった。社員はみんな暇じゃないはずだ。そう、全くあなたの言うとおりです、と僕の心は両手を上げてギブアップした。そして郵便局強盗に失敗した初老の犯罪者のように、肩を落として力なく聞き入った。
さらにタイミング悪く、僕には花咲店の周年記念のチラシスケッチの仕事も控えていた。暇じゃないはずだ、ではなくて「真剣に忙しい」のほうが正解に限りなく近い。
博多祇園山笠の追い山は、デート時間と出社時間に「遅刻」という有難くない不名誉を与えてくれた。僕は自分の遅刻が周囲に与えた負の影響を受け止めると同時に、立場を守るための弁明をしなかった自分の中に「男らしさの部分」を確認できたことが収穫だと思えた。
かすみは帰りのタクシーの中で「今日はありがとう」と言った。僕にはその言葉が一番嬉しかった。野瀬課長と永野さんには遅刻を責められたが、思ったより素直に反省できた。そのことが二番目に嬉しかった。
アルコールを分解する肝機能は時間の経過に沿って、立ち直ってきているのがわかる。しかし睡眠不足は時間だけには頼れない。当たり前だけど、眠らなくては解消できないのだ。昼休み後の猛烈な眠気からは立ち直っていたが、徹夜明けという手負いの精神力の上では元気も長くは続かなかった。
時間が過ぎるごとに疲労が澱のように溜まり続け、体内組織の全てにじっとりとまとわりついた。思考の回転スピードが鈍り、答えに微妙なずれが生じ始める。感受性に繊細さが失われ、考えること自体が負担になっていく。
疲労が顔色を暗く塗り変えていった。
かすみに僕はこう見えても結構強いんだ、と見栄を切っていた自分が恥ずかしかった。
気力を考えても今日の仕事量は完璧にはこなせないだろう。広がった不安を冷静に見つめ直した。明日は隔週休制度の休みに当たる土曜日だったが、休日出勤すれば良いじゃないか。期限に余裕がある仕事は明日回しにすれば良いのだ。そう思うとほんの少し救われた。
今日の自分の制作予定表をひとつひとつチェックした。納期に間に合わせるためのチラシの版下入稿が2本あった。これは、絶対に今日やらなくてはならない。
1本は夕方以降に印刷所に手渡すB4版下の完成。これは全く問題なかった。もうすぐフィニッシュだ。もう1本はB3サイズで、両面とも4色カラー物件の版下入稿。滅多に回ってこない貴重なカラーのチラシの仕事だ。しかし、このB3のチラシはサイズ以上に手強かった。多くのテナントさんを含むショッピングセンター全体のチラシで、最後までそのレイアウト構成で大もめの物件だった。
テナント面にはアイキャッチとして、中央に大きく女性モデルのファッション写真を配置していた。校正時に、テナント各店から「各店の案内スペースが小さいので、もっと大きくして欲しい」との要望が多くだされた。アイキャッチのモデル写真にも不要論が渦巻き、校正に出向いていた湯浦さんは多くの声に抗いきれず、レイアウトの全面変更を受け入れて帰社したのだった。
校正用紙には赤い文字やレイアウト変更の指示線が乱暴に記入されていた。あ〜か、あ〜か、真っ赤っかと心の中で歌いながら湯浦さんから校正用紙を受け取ったのは二日前だった。すぐにトレーシングペーパーを校正用紙の上にあて、上からペンでレイアウトを済ませ、急いで写植屋にまわした。
写植文字が全て打ち直され、おニューの版下台紙に貼り込まれた。僕の手元に新たな版下が届いたのは今日の夕方、先ほどのことだった。全ての文字打ち替えをやったので、最終チェックで誤植を見つける可能性は高い。深夜に誤植が見つかっても、もう文字を打ち直してくれる人はいない。思えば、それが憂鬱の種でもあった。
「河村。お前、夕方にB3版下が上がってきたみたいやけど、それ今夜入稿するやつだろ?」と永野さんが僕に訊ねた。
「もっと早く上がらなかったのか?」
「ええ…」
「遅いんだよ。今からチェックして、文字間違いが出たらどうするんだよ」と口調が強くなった。「夜遅く誤植が分かってもどうしようもないじゃないか。どうして、昼一に納品させなかったんだ。特にこんな全面変更のヤツはチェックに時間かかるから、写植屋に無理して早めに上げてもらうんだよ」
野瀬課長もワタリ係長も午後から出張に出かけ、管理職のいない夕方の職場にさざ波が立った。
僕はいつの間にか針の山に立たされていた。永野さんの言葉がひとつひとつ、僕の心に重くのしかかっていく。睡眠不足で鈍ったはずの神経がチクチクと痛みを感じだした。普段は顔を見せない反抗心が芽生え始めている。
分かってるよ、そんなこと。写植屋さんも忙しそうだったから、無理を頼めなかっただけじゃないか。
僕は喉まで出かかった言葉をぐっと飲み込んだ。
「そんな段取りだから、最後にしっかりチェックできる時間が作れないんだよ。えっ、分かるか?」と、永野さんは手にしていたロットリングを机において席を立とうとした。
「お前な、そんなことやってたら、何回でも間違うぞ。このあいだのテレビの値段で懲りたんじゃないのか」
僕はその聞きたくない値段間違いの件を持ち出されて、頭に血が上り始めた。エアコンの風がイライラするほど生温い。う〜っ。僕はほうれん草の缶詰を握力でパカンと開けて食べ、盛り上がった腕の力こぶをイメージした。トイレに向かっている永野さんを振り向かせ、思いっきりアッパーカットでも見舞いたかった。
永野さんがトイレに消えると、二人の会話を聞いていないふりをしていたみんなの表情が緩んだ。笠木君が顔を上げてピースサインを送ってきた。ピースじゃないよ。僕の心は今、平和じゃない。でも、同期だから許してあげる。ただ一人だけ、三ツ谷さんだけがなぜか険しい表情をしてラフスケッチを描いている。
通常、写植文字が貼り込まれた台紙には、上から透明フィルムをかけ、カラー写真のアタリを貼り込む。そうやって完成した版下に半透明のトレーシングペーパーを乗せて、色指示を書き込む。黄色はY100%、ピンクはM100%。レッドはY100%+M100%の2色掛け合わせとなり、YMと書けば済む。YMCKの4色掛け合わせでほぼ全ての色が出来上がった。デザイナーはよく使う色のその掛け合わせのパーセンテージをほとんど覚えていた。
入稿後、製版工程で、そのデザイナーが指示した色は4色の製版フィルムとなってキチンと再現される。
僕はコピーライターなので、カラーチラシの色指示が出来なかった。1色・2色の色指示は出来たが、カラーはやはり本職のデザイナーにやってもらわなければいけない。
問題のB3チラシの色指示は三ツ谷さんに頼んでいた。しかし版下フィニッシュは深夜近く迄かかるだろう。その時間迄先輩に待機してもらうわけにはいかない。それで今夜は仕事の順序を変えた。午後8時くらいに完成途中の版下を見ながら色指示をしてもらうことにした。
三ツ谷さんは両面の色指示を1時間かけて終わらせた。
「色指示終わったバイ。あとは衆矢の頑張る番たい。俺は一勝負して帰るけん」と言い残して、閉店間近のパチンコ店「明星」に走った。
僕は大博多印刷の担当営業に、悪いけどと前置きをして、版下手渡しは深夜の0時目標になることを電話で伝えた。その営業マンは「分かりました、シンデレラコースですね。じゃあ入稿が終わったら一緒にアナザーウェイに行きましょう」と僕を真剣に誘ったが断った。
僕は「今夜は遊び心も死ンデレラだから」だと付け加えた。あまりにも今日は眠すぎる。
版下のコピーをとって、文字のチェックをはじめた。これからの3時間が版下入稿の最後の戦いになる。
黄色のラッションペンで塗りつぶしながら、文字チェックを始めた。
周りの制作の社員は、残った仕事は明日出社して片付けようと、少しずつ帰り支度をはじめている。
僕は誤植が出ないように祈りながら慎重に進めた。ところが、紙面の一割もチェックが進まないうちにまたもや眠気が襲ってきた。眠気と戦いながらの文字チェックは過酷だった。一進一退の状況に僕は何度も叫びたい心境にかられ、何本もタバコに火をつけては揉み消した。
出張から帰ってきたワタリ係長と永野さんはもう帰路についている。笠木君もキヨシ君も「明日またね」と言いながら次々と席を立った。お疲れさんの連鎖反応は続き、竹田さんも「悪いけど、もう帰るわ。疲れた」と言いながら、最後に僕だけを残して帰っていった。
僕は朦朧としながらも紙面に黄色い線を引き続けたが、ほどなくラッションペンは行き場を失い、立ち止まってしまった。旧式エアコンの吹き出し音だけが響く、一人っきりの夜の職場。生ぬるい風が僕の疲弊した責任感におおい被さっていく。
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