カテゴリ:ブログ小説・あの蒼い夏に( 42 )

あの蒼い夏に 〜チラシづくりの青春・22〜



                    22
 

 僕はガサゴソという音で目を覚ました。机にうつ伏せになった状態で音の方向に視線を向けると、壁際の使用済み版下棚の前に人がいた。パチンコに行ったはずの三ツ谷さんの後ろ姿がある。その版下墓場で写植文字をピンセットで剥がしていた。
 僕はどのくらい寝込んだのだろう。壁時計に目をやると午後11時30分を過ぎていた。記憶は紙面1/3迄のチェックにとどまっている。僕は20分の仕事をした後、一時間以上も寝てしまったことになる。

 隣の机に僕がやりかけた最終チェックのコピー用紙は広げられていた。残りのチェックは三ツ谷さんが済ませてくれたのだろうか。気付かれないように顔を僅かに浮かせて用紙を覗いた。白い部分が見当たらず、紙面全体が黄色のマーキングで覆われてしまっている。紙面にはかなりの赤文字が入っている。誤植が多かったのだろう。それで、三ツ谷さんは必要な写植文字を探していたに違いない。

 やり残したチェックの続きを済ませ、その上、写植文字を拾って修正までも。
 なんと言うことだろう。言葉では表現できないものが僕の胸を触れて通り過ぎた。

 僕は生温い室温の中で鳥肌を立てていた。
 
 思わぬ光景に動揺して顔を上げることが出来なかった。昨夜の徹夜デートのつけがもたらしたものを、三ツ谷さんが何も言わずにフォローしてくれている。自分が蒔いた種なのに…。チラシの間違いなど許されない状況の中にある僕を、救おうとしてくれているのだ、きっと。自覚の足りない自分が恥ずかしかった。

 三ツ谷さんは小さい写植文字をテープで止め終わると、もう一度チェックして最終版下のコピーを取り始めた。僕はコピーの音で目覚めたことにして、勇気を奮い起こして顔を起した。

「二カ所だけ文字が直せんやったけん、後は色校の時たい」と三ツ谷さんは言って、版下とコピーをセットにして僕の机に置いた。
 僕は目を潤ませながら「すみません」としか言えなかった。

「飲んだ翌日はきつかけんなぁ」と僕の肩を右手でポンと叩いて独身寮に帰っていった。

 永野さんの言葉は僕の心を氷漬けにし、三ツ谷さんの行動は僕の心を氷解させた。何が一番大切なことか、考える必要もなかった。僕はただひとつの理由で今日の最後を確かなものにできたのだ。
 僕たちの周りには言葉を越えるものが確実に存在する。
「飲んだ翌日はきつかけんなぁ」の一言が蘇ると、再び涙がにじみ視界がぼやけた。

 FMではジェットストリームが流れ始めている。もうすぐおかまバーが大好きな大博多印刷の営業マンが現れるだろう。僕は急いでトイレで顔を洗った。



 僕はぼろ雑巾のようにクタクタになった身体をベッドに投げ出したとたん、朝が電話のベルとともにいきなり訪れた。
 仕事から逃れられない素敵な土曜日が始まろうとしている。皮肉なもので、休日出勤の日の空は青い。

「河村クン、おはよう。どう、昨日は元気だった?」
 キュートな天使の声が朝の受話器から溢れ出す。
「おかげさまで、忘れられない金曜日になったよ」と僕は言った後、理由をかいつまんで説明した。
「なるほど、昨日の夜も午前様だったわけね。電話に出ないわけだ。ほんとうによく働く若者だこと。感心しちゃうわね、まったく」と、かすみはあきれながらも、来週はじめにゼミの二泊三日の合宿旅行で湯布院に行くことを話し始め、スケジュールを細かく読み上げた。ただ、梅雨が明けるかどうか微妙な時期だったので、天気が気になると言った。天使は話し好きだ。僕が今日も仕事だと言うと残念そうに、ゼミ合宿から帰ったらまた会う約束をして受話器を置いた。
 

 特別の場合を除いて、休日出勤の場合は一時間以上遅く出かける。土曜日の朝10時半。バラの洋館に女の子の姿は見えなかった。遅い時間だったので、僕は久しぶりにバスの座席に座って出勤した。
 今日の夜は佐里君がアパートにやって来る予定なので、仕事は夕方までにかたをつけなければならなかった。細々とした仕事を済ませると、来週末に提出予定の花咲店の開店1周年祭のチラシスケッチと年末年始の恵屋合同チラシのプレゼン案が残った。
 
 残った二つの大きな仕事に優先順位をつけた後、笠木君とキヨシ君と近くのブラジレイロに昼食を取りに出かけた。僕たちはとても美味しいハッシュド・ビーフを食べながら、今年発売予定のプリントゴッコについて話を交わした。情報通の笠木君が丁寧に解説してくれるので助かる。
 今日は飲みにいけないけど、と僕がいうと、キヨシ君は来週グラスホッパーに行きましょうと言った。笠木君はムーランの方が良いけど、と口を尖らせる。

 午後から恵屋の年末・年始合同チラシのコンセプトメイクとアイデア出しを始めた。

 支店内につくられた5つの制作グループによる「社内競合プレテ」は既に始まっている。僕のグループはデザイナーの三ツ谷さんと永野さん、コピーライターである僕の3人がメンバーだった。同期入社の三ツ谷さんと永野さんは誰もが認める不仲であるが、ワタリ係長が考えたこのグルーピングには何か訳があるのかもしれない。年長であることから永野さんがグループリーダーになっている。
 今週ミーティングをしようと永野さんに言われたのだが、来週にという僕の希望を通してもらっている。来週頭のアイデアの擦り合わせに間に合わすには、どうしても今日中にはアイデア出しまで進めておかなければならない。
 
 博多祇園山笠の追い山が駆け抜けてから36時間ほど過ぎた。もうすぐ梅雨明け宣言がなされるだろう。僕は額に汗をかきながら、12月30日と1月1日に新聞折り込みされるチラシ内容を考えている。
 訓練すれば、かき氷を食べながら暖房器具のイメージコピーを書くことも難しくはない。ただし頭の中に冬を作り出す作業には必要以上に時間を取られてしまう。「その気」になるのが遅いことが僕の欠点でもあった。しかし、今日は時間を多くはかけられない。佐里君が夕方以降に僕のアパートにやってくるからだ。今日は特に効率よく仕事をしなければならない。急げ、急げ。
 チラシはラブレターだと言い放つ恵屋の社長になった気分で、年末と年始の「気持ちの伝え方」を考えることにした。僕は今、5000人の社員のトップに立つ社長だ。まず大晦日の気分で「感謝」というキーワードを、次に元旦の気持ちになって「挑戦」というキーワードを抽出した。年末・年始のセールコンセプトは「感謝&挑戦」に決めた。

 コンセプトをお客様に、消費者に届きやすいように表現することが僕らの仕事だ。ミーティングのために、まずはコピーフレーズとビジュアルのアイデアを複数案、出さなくてはならない。
 アイデア捻出モードに入ろうとしたところで、電話が鳴り始めた。
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by hosokawatry | 2008-07-21 12:25 | ブログ小説・あの蒼い夏に

あの蒼い夏に 〜チラシづくりの青春・21〜



                    21


 僕は居眠りに気をつけたつもりだったが、敵は手強かった。悪魔に意識を奪われないように、頻繁に視線を上げては蛍光スタンドを必死の形相で睨みつけた。首を大きく回したり太ももを強くつねったり、顔を洗いに何度もトイレに行ったが、それでも眠気は立ち去らない。痛いはずの刺激が気持ちよくなり始めていたし、陥落は時間の問題だったのかもしれない。何度目かのこっくりの後、突然まぶたの裏に乳白色の暖かさが流れ、ふっと覚醒の意識が途切れた。職場のざわめきが遠のき、静寂が駆け寄ってくる。
 しかし、すぐに眠りは破られた。甘美な眠りの時間をかき分けて、地の底から醜悪な声が響いてきた。音声の輪郭を次第に明らかにしながら僕の方にゆっくりと近づいてくる。聞きたくない声だ。

「河村、お前、本当にいい身分だな」と悪魔の声が永野さんの声へと次第に変っていった。

 僕の意識は揺り起こされ、慌てながら声の主の方向を探し出した。理由がなんであれ、居眠りを指摘されることほどばつが悪いものはない。「すみません」と、僕は永野さんにちょこんと頭を下げた。
 机の上に視線を落とすと、ペン先のスケッチ用紙には文字になり損なった線が、ミミズのようにくねくねと踊っているのが見えた。ミミズ文字の胴体は最後にぷつんと切れているが、右手はしっかりとペンを握りしめていた。僕は意識を失いかけても、ペンというコピーライターの魂までは手放してはいない。ほっとする間もなく永野さんの声が迫ってきた。

「お前の先輩の竹田だって、昨日の残業であまり寝ていないと思うけど、頑張っているじゃないか」
「……」
「自分の都合で早く帰って、翌日がこれじゃあな」
「……」
「グループのみんなに示しがつかんよなあ、そうだろ?」
「はい」と、僕はまた頭を下げた。
「夏のバーゲンチラシに、来週は盆のチラシも2発入ってくるというのに。それから年末・年始の競合プレテ作成もあるし。お前も暇じゃないはずだけど」
 
 間接的に昨日の早い退社時間が責められているのだろうか。僕は心に数本の矢を受けてよろけながら、グチグチと続く全ての嫌みな説教に頷かざるをえなかった。永野さんの言うことに間違いはなかった。社員はみんな暇じゃないはずだ。そう、全くあなたの言うとおりです、と僕の心は両手を上げてギブアップした。そして郵便局強盗に失敗した初老の犯罪者のように、肩を落として力なく聞き入った。
 さらにタイミング悪く、僕には花咲店の周年記念のチラシスケッチの仕事も控えていた。暇じゃないはずだ、ではなくて「真剣に忙しい」のほうが正解に限りなく近い。

 博多祇園山笠の追い山は、デート時間と出社時間に「遅刻」という有難くない不名誉を与えてくれた。僕は自分の遅刻が周囲に与えた負の影響を受け止めると同時に、立場を守るための弁明をしなかった自分の中に「男らしさの部分」を確認できたことが収穫だと思えた。
 かすみは帰りのタクシーの中で「今日はありがとう」と言った。僕にはその言葉が一番嬉しかった。野瀬課長と永野さんには遅刻を責められたが、思ったより素直に反省できた。そのことが二番目に嬉しかった。

 アルコールを分解する肝機能は時間の経過に沿って、立ち直ってきているのがわかる。しかし睡眠不足は時間だけには頼れない。当たり前だけど、眠らなくては解消できないのだ。昼休み後の猛烈な眠気からは立ち直っていたが、徹夜明けという手負いの精神力の上では元気も長くは続かなかった。
 時間が過ぎるごとに疲労が澱のように溜まり続け、体内組織の全てにじっとりとまとわりついた。思考の回転スピードが鈍り、答えに微妙なずれが生じ始める。感受性に繊細さが失われ、考えること自体が負担になっていく。

 疲労が顔色を暗く塗り変えていった。
 かすみに僕はこう見えても結構強いんだ、と見栄を切っていた自分が恥ずかしかった。

 気力を考えても今日の仕事量は完璧にはこなせないだろう。広がった不安を冷静に見つめ直した。明日は隔週休制度の休みに当たる土曜日だったが、休日出勤すれば良いじゃないか。期限に余裕がある仕事は明日回しにすれば良いのだ。そう思うとほんの少し救われた。
 今日の自分の制作予定表をひとつひとつチェックした。納期に間に合わせるためのチラシの版下入稿が2本あった。これは、絶対に今日やらなくてはならない。
 1本は夕方以降に印刷所に手渡すB4版下の完成。これは全く問題なかった。もうすぐフィニッシュだ。もう1本はB3サイズで、両面とも4色カラー物件の版下入稿。滅多に回ってこない貴重なカラーのチラシの仕事だ。しかし、このB3のチラシはサイズ以上に手強かった。多くのテナントさんを含むショッピングセンター全体のチラシで、最後までそのレイアウト構成で大もめの物件だった。

 テナント面にはアイキャッチとして、中央に大きく女性モデルのファッション写真を配置していた。校正時に、テナント各店から「各店の案内スペースが小さいので、もっと大きくして欲しい」との要望が多くだされた。アイキャッチのモデル写真にも不要論が渦巻き、校正に出向いていた湯浦さんは多くの声に抗いきれず、レイアウトの全面変更を受け入れて帰社したのだった。

 校正用紙には赤い文字やレイアウト変更の指示線が乱暴に記入されていた。あ〜か、あ〜か、真っ赤っかと心の中で歌いながら湯浦さんから校正用紙を受け取ったのは二日前だった。すぐにトレーシングペーパーを校正用紙の上にあて、上からペンでレイアウトを済ませ、急いで写植屋にまわした。
 写植文字が全て打ち直され、おニューの版下台紙に貼り込まれた。僕の手元に新たな版下が届いたのは今日の夕方、先ほどのことだった。全ての文字打ち替えをやったので、最終チェックで誤植を見つける可能性は高い。深夜に誤植が見つかっても、もう文字を打ち直してくれる人はいない。思えば、それが憂鬱の種でもあった。

 「河村。お前、夕方にB3版下が上がってきたみたいやけど、それ今夜入稿するやつだろ?」と永野さんが僕に訊ねた。
「もっと早く上がらなかったのか?」
「ええ…」
「遅いんだよ。今からチェックして、文字間違いが出たらどうするんだよ」と口調が強くなった。「夜遅く誤植が分かってもどうしようもないじゃないか。どうして、昼一に納品させなかったんだ。特にこんな全面変更のヤツはチェックに時間かかるから、写植屋に無理して早めに上げてもらうんだよ」
 野瀬課長もワタリ係長も午後から出張に出かけ、管理職のいない夕方の職場にさざ波が立った。

 僕はいつの間にか針の山に立たされていた。永野さんの言葉がひとつひとつ、僕の心に重くのしかかっていく。睡眠不足で鈍ったはずの神経がチクチクと痛みを感じだした。普段は顔を見せない反抗心が芽生え始めている。

 分かってるよ、そんなこと。写植屋さんも忙しそうだったから、無理を頼めなかっただけじゃないか。
 僕は喉まで出かかった言葉をぐっと飲み込んだ。

「そんな段取りだから、最後にしっかりチェックできる時間が作れないんだよ。えっ、分かるか?」と、永野さんは手にしていたロットリングを机において席を立とうとした。
「お前な、そんなことやってたら、何回でも間違うぞ。このあいだのテレビの値段で懲りたんじゃないのか」

 僕はその聞きたくない値段間違いの件を持ち出されて、頭に血が上り始めた。エアコンの風がイライラするほど生温い。う〜っ。僕はほうれん草の缶詰を握力でパカンと開けて食べ、盛り上がった腕の力こぶをイメージした。トイレに向かっている永野さんを振り向かせ、思いっきりアッパーカットでも見舞いたかった。

 永野さんがトイレに消えると、二人の会話を聞いていないふりをしていたみんなの表情が緩んだ。笠木君が顔を上げてピースサインを送ってきた。ピースじゃないよ。僕の心は今、平和じゃない。でも、同期だから許してあげる。ただ一人だけ、三ツ谷さんだけがなぜか険しい表情をしてラフスケッチを描いている。

 通常、写植文字が貼り込まれた台紙には、上から透明フィルムをかけ、カラー写真のアタリを貼り込む。そうやって完成した版下に半透明のトレーシングペーパーを乗せて、色指示を書き込む。黄色はY100%、ピンクはM100%。レッドはY100%+M100%の2色掛け合わせとなり、YMと書けば済む。YMCKの4色掛け合わせでほぼ全ての色が出来上がった。デザイナーはよく使う色のその掛け合わせのパーセンテージをほとんど覚えていた。
 入稿後、製版工程で、そのデザイナーが指示した色は4色の製版フィルムとなってキチンと再現される。
 僕はコピーライターなので、カラーチラシの色指示が出来なかった。1色・2色の色指示は出来たが、カラーはやはり本職のデザイナーにやってもらわなければいけない。
 
 問題のB3チラシの色指示は三ツ谷さんに頼んでいた。しかし版下フィニッシュは深夜近く迄かかるだろう。その時間迄先輩に待機してもらうわけにはいかない。それで今夜は仕事の順序を変えた。午後8時くらいに完成途中の版下を見ながら色指示をしてもらうことにした。
 三ツ谷さんは両面の色指示を1時間かけて終わらせた。
「色指示終わったバイ。あとは衆矢の頑張る番たい。俺は一勝負して帰るけん」と言い残して、閉店間近のパチンコ店「明星」に走った。

 僕は大博多印刷の担当営業に、悪いけどと前置きをして、版下手渡しは深夜の0時目標になることを電話で伝えた。その営業マンは「分かりました、シンデレラコースですね。じゃあ入稿が終わったら一緒にアナザーウェイに行きましょう」と僕を真剣に誘ったが断った。
 僕は「今夜は遊び心も死ンデレラだから」だと付け加えた。あまりにも今日は眠すぎる。

 版下のコピーをとって、文字のチェックをはじめた。これからの3時間が版下入稿の最後の戦いになる。
 黄色のラッションペンで塗りつぶしながら、文字チェックを始めた。
 周りの制作の社員は、残った仕事は明日出社して片付けようと、少しずつ帰り支度をはじめている。
 

 僕は誤植が出ないように祈りながら慎重に進めた。ところが、紙面の一割もチェックが進まないうちにまたもや眠気が襲ってきた。眠気と戦いながらの文字チェックは過酷だった。一進一退の状況に僕は何度も叫びたい心境にかられ、何本もタバコに火をつけては揉み消した。
 出張から帰ってきたワタリ係長と永野さんはもう帰路についている。笠木君もキヨシ君も「明日またね」と言いながら次々と席を立った。お疲れさんの連鎖反応は続き、竹田さんも「悪いけど、もう帰るわ。疲れた」と言いながら、最後に僕だけを残して帰っていった。
 僕は朦朧としながらも紙面に黄色い線を引き続けたが、ほどなくラッションペンは行き場を失い、立ち止まってしまった。旧式エアコンの吹き出し音だけが響く、一人っきりの夜の職場。生ぬるい風が僕の疲弊した責任感におおい被さっていく。

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by hosokawatry | 2008-06-21 23:45 | ブログ小説・あの蒼い夏に

あの蒼い夏に 〜チラシづくりの青春・20〜



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 僕は佐里君に部屋に入るよう勧めた。その瞬間、僕はジャケットを握りしめていないもうひとつの手に物足りなさを感じた。後頭部に軽いショックが走る。そうだ、恵屋の咲田店長にもらったパリジャンがない。フランスパンフェアの売り上げが良かったからとご褒美にもらったものだ。チラシに載せたフランスパンフェアのタイトルは、僕の書体指示を佐里君が自分の判断で変えてくれたものだった。だから、本当の手柄の半分は佐里君に権利があるはずだ。
 晴照に忘れてきたのは明らかだった。僕は悔やんだ。パリジャンの権利を共有する佐里君がこうして目の前にいるというのに、その恩恵を分かち合えない間抜けな自分に腹が立った。

 佐里君は汗まみれで、ジーパンの尻は泥まみれだった。僕は冷蔵庫から冷えた水を取り出し、氷を入れて佐里君に渡した。佐里君がそれを飲み終わるのを見届けて、バスルームに無理やり押し込んだ。シャワーの音を聞きながら、僕はいつもの材料でいつものようにトースト・サンドをつくり、コーヒーをたてた。
 軽やかなアコースティックなサウンドをまとって、オリビア・ニュートン=ジョンの歌声がFMから流れだす。その声はほとんど小鳥のさえずりに聞こえた。
「これに着がえなよ」
 汗まみれのシャツを着てバスルームから出てきた佐里君に、洗いざらしのTシャツとトランクス、ブルージーンズをトスした。

「僕もさっとシャワー浴びるから、サンドイッチ先に食べてて」と僕は言った。
サイズが大きいラングラージーンズの裾をまくり上げながら、佐里君は小さく頷いた。
 
 僕は脱いだ綿パンの太ももあたりに、小さなシミ跡があるのを見つけた。かすみの記憶が唇のカタチで薄く残っていた。僕は少し迷った後、二槽式洗濯機の洗濯槽に綿パンを投げ入れた。そのプレゼントは投げ入れた瞬間から、間違いなく幸せな記憶に変わっていく。

 タオルで髪を拭きながらバスルームから出てくると、視線の先に窓からの弱い光を受けた佐里君のシルエットがあった。少し大きめのTシャツを着た姿がかすみだったら…。可愛い願望は、すぐに苦笑いの感情にかき消されてしまう。僕は頭を振った。
 佐里君はマグカップ最後のコーヒーを飲み干すと、静かにテーブルに置いた。Tシャツから伸びた二の腕はせつないほど細くて白い。
 僕はトースト・サンドのできばえを訊ねた後、自分で食べてみた。今日の朝食の味はオブラートに包まれている。徹夜が五官の能力を奪い取っている。う〜ん、60点だ、判断がつきにくい。

「いったい、どうしたの?」と僕はグラスの水を飲みながら訊ねた。「昨日の夜、屋台に顔を出さなかった?」

 佐里君は一瞬はっと息を飲むような表情を浮かべた後、視線を下げ気味にぼそぼそとしゃべり始めた。
 テレビ値段の桁飛ばしの後、いろいろ悩んでいるうちに、毎晩眠れなくなったこと。写植学校で一緒だった友達に連絡を付け、悩みを相談したら今度一度飲むことになったこと。そして、昨日は夕方頃、眠くて眠くて、こっくりこっくりやっていたら、社長から残業せずに帰れと言われたこと。一度アパートに帰ったが、僕にきちんと会って謝っていないので、会えないだろうかと電話を入れたが出張中だったこと。再度電話をいれたら、少し前に帰ったが、ひょっとすれば屋台の『晴照』に行ってるかもしれないと、三ツ谷さんが教えてくれたこと。
 
「屋台の中を覗いたら、屋台のおじさんが目を見開いて僕の方を見るものだから、河村さんが来たかどうかも聞かずに慌てて離れたんです」と佐里君は言った。「それで、友達の会社に連絡して、その友達と12時過ぎまで飲みました。その後、酔っぱらっていたんですが、どうしても河村さんに会わなくてはと…」

「へぇ、それからず〜っとアパートの前にいたの?」と驚きながら、僕はベッドの上の目覚まし時計を眺めた。
 まずい。いつの間にか会社の始業時間がそこまで迫っている。
 朝の短すぎる面会時間。遅刻をいやがる生真面目な姿勢が、佐里君との間に冷酷な面会時間の鉄格子を降ろし始めようとしている。僕は空のマグカップを眺めながら判断を下した。今朝はここまでにしよう。今だったら、まだ始業時間に間に合うかもしれない。 

 残念ながら佐里君の気持ちに寄り添ってやれる時間が短すぎた。                

「仕事には行けるかい?」
「はい」と弱々しい返事が返ってきた。
「社長に心配かけちゃいけないから、その方がいいかもね。しんどいだろうけど」
 僕は汗にまみれた佐里君のシャツとパンツをペーパーバッグに入れて持たせた。

 最寄りの西鉄の唐人町バス停まで小走りになった。今朝はバラが咲く2階建ての家の前で、チンパンジーになる余裕はない。走りながら2階の窓を眺めたが、少女の姿は見えなかった。僕はバス停の前でふ〜っと大きく息を整えて、バスを待った。佐里君は昨夜の疲れを少し宿しながらも白い表情を壊さずに、バスが現れる方向を眺めている。

 バスは地下鉄工事中の鉄板が敷き詰められた道路を苦しみながら走った。渋滞が僕に冷や汗をかかせ、始業時間への焦りが佐里君に対する口数を奪った。僕はナイル川の獰猛なワニになった気分で、目の前にいるバスの運転手を注視した。黄色の信号で止まったりすればパクリと噛んじゃうから。ハア、ハア。
 バスの中でただひとつだけ、佐里君に希望を伝えた。明日の土曜日は飲みに出かけないので、もう一度僕のアパートに遊びにくるように、と。
 佐里君は天神の交差点でバスを降りる前に「そうします」と言った。時間を確認すると、腕時計が絶望感だけを僕に伝えた。すでに9時を越えてしまっている。


 遅刻は憂鬱な気分をもたらした。身体から遊離したような掴みどころのない徹夜明けのフワフワ感に規則を守れなかった罪悪感がのしかかる。遅刻三回は一日分の欠勤に相当し、ボーナスに直接影響するという会社規約が冷たく光る白い歯を見せながらにやりと笑った。誰も僕に話しかけようとしない。僕の席だけが疎外感に包まれて、社員の話し声も遠くに聞こえる。

「河村、遅刻なんかしたらあかへんで。何しとったんや昨日、え〜っ」と野瀬課長の声が飛んできた。「お前な、昨日早う帰ったんやろ。残業で夜の2時に帰ったやつだってキチンと出社しとるのに、え〜、何考えとんや」
 僕はその場で立ち上がって、すみませんと野瀬課長の方に頭を下げた。
「昨日の出張日報を早う出しとけ」と課長は言いながら、中指で事務机をトントントンと3回叩いた。
「遅刻もチラシ間違いと同じや。10割やないといかん。失敗は許されんのや。村山が長嶋に投げた天覧試合のあの一球と同じやで。たった一度の手元の狂いが敗北を呼ぶんや。そやから、頼むわな。イライラさせんでくれ」

 注意されている僕に同期入社のキヨシ君がウインクを送ってきた。笠木君もニヤニヤしている。明らかに笠木君は僕の昨夜の出来事を拡大解釈している。げんこつの間から親指を覗かせてみせた。品のない仕草に向かって僕は大きく首を振った。僕は藤木女史が持ってきてくれたお茶を飲みながら気分の回復を図ったが、すぐには調子は戻らない。
 午前10時半頃にヤクルトおばさんがバッグを担いで、いつものようにやって着た。おばさんは僕の席にヤクルトを置くと三ツ谷さんの席に回って、「いつものやつでいいの?」と声をかけた。三ツ谷さんは首を縦に振った。
「ウルトラマンさん、今日の飲み物は?」とキヨシ君が訊ねた。
三ツ谷さんは大きく頷いて立ち上がり、周囲を見渡しゆっくりと右手を上げた。

「ジョアッチ」

高く差し出されたその乳酸飲料の容器の水滴がキラリと光った。ヤクルトおばさんは満足げに目を細めると、三ツ谷さんの机にヤクルトも差し出した。

「ふふふ、私のおごりよ、とっといて」
 
 弱みは見せられないと力めば力むほど、空回りをする気力。僕は足かせをつけられた囚人のように、動けば動くほど余計に疲れを蓄積させた。午前中は何とか乗り切ったものの、疲れのピークは昼食後の午後2時過ぎに「居眠り」となって僕を苦しめ始めた。

「河村、お前、本当にいい身分だな」と永野さんの声が聞こえた。
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by hosokawatry | 2008-06-09 01:17 | ブログ小説・あの蒼い夏に

あの蒼い夏に 〜チラシづくりの青春・19〜



                    19


 僕は去年の夏にドライマティーニをたくさん飲み過ぎて、ひどい目にあったことがある。胃が異生物のように意思を無視して動き出し、しゃくり上げ、熱い胃液の逆流による苦さに涙した。胃液以外に出すものがない苦しさは、大人への成長を促す薬だろうが、それ以降も僕は懲りずに何度も「ウグッ」と口を押さえてはトイレに走った。試練の回数に関係なく、ただ、大人になれない自分がいた。

 しかし今日は違った。すでに屋台でビールや焼酎を飲んでいたので、最初のジンバックの後はドライマティーニ一杯だけにしようと思った。今夜はかすみも一緒だし、潰れる訳にはいかない。午前4時59分の追い山スタート時間迄、まだ三時間以上も残っている。
 ニコニコと元気だったかすみも、グラスのマルガリータが空になる頃にはずいぶん口数が減っていた。微睡みが出番を窺っている。
「少し眠くなってきた」とかすみは言った。
「もう一時半だし」と僕は当然だよとばかりに頷いた。
「ワタシ、受験勉強でも夜は強かったんだけど…」
「受験勉強とは違うよ。アルコールが入ってるんだし。まあ、いい子の寝る時間は過ぎようとしているのは確かだろうけど」
「ワタシ、悪い子?」
 かすみの頬には薄いピンクが広がっている。
「お父さんにとってはね」と僕は最後の一口を飲み干した。「僕にとっては、とてもいい子なんだけどね」

 僕はマスターに勘定を支払うと、かすみを連れて外に出た。眠気を追い払うために中洲の川沿いを歩こうと提案すると、かすみは僕の左手に触れ、手を繋ぐことでOKのサインを出した。僕達は川沿いの植え込みの横を西大橋までゆっくり歩き、橋の上からネオンの反射に煌めく川面を眺めた。観光ガイドブックにも登場する歓楽街中洲の夜の輝きがそこにある。ネオンサインが流れ、瞬き、そして消えては繰り返す。
 厚化粧を施し、ウインクを続ける夜の街には酒の臭い、お金のニオイ、そして疑似恋愛という甘い匂いが渦巻いている。もちろん日曜日の遅い朝の光の中、役目を終えた中洲の路地が見せる素顔も僕は知っている。心をかき乱す香水の匂いは既にない。踏みつけられたタバコの吸い殻。流しきれていない吐瀉物が残る側溝蓋。色褪せた情景の上を漂うすえた臭い。それは銭湯の男湯でアザミさんの姿を確認したときのような気分に等しく、なぜか物悲しい。中洲の夜はいつもきらびやかなドレスをまとい、ネオンに踊り、そしてドラキュラのように朝を恐れた。

 祭りが動き出す瞬間はまだ先のことだ。僕たちは川沿いを春吉橋に向かってゆっくり歩いた。左手で握りしめているかすみの小さい手が少し動き、握り返してくる。汗ばんだ手のひらが存在感を強め、頭の中を支配しようとする。
 春吉橋のたもとにたどり着いた。突然「彼女が眠いといっているじゃないか」と頭の中の黒い生き物が呟いた。「彼女からサインが出てるんだぞ。お前はこれから男として行くべきところに行くべきだ」とその悪魔は強い口調でさらにたたみかけてきた。
 僕は前回のデートのとき、はじめて別れ際の額にキスをしたばかりだった。愛を押さえつけ、無理やり乗り越えようとする若い欲求。昨夜の頭の中のリハーサルにはなかった展開に焦った。人間らしく、男らしくなければならない。しかも優しくなければその資格はない。僕の横には今、かすみがいる。かすみは望んでいるのだろうか。僕はやっぱり男らしく振る舞うべきなのだろう。
 少年時代に夢中になって読んだ男性週刊誌の女性の性欲についての記事も憶えている。「女性には待っている部分もある。愛しているのなら、きちんと相手のことも察してあげるべきだ」と。
 
 アザミさんの声が聞こえる。「そんなおとこに限って、好きなものをキチンと好きだと言えないんだから」

「少し疲れたみたい」とかすみは言った。
「ほら、そうだろ」と悪魔がにやりと笑って相槌を打つ。
 心臓の鼓動が決断を迫っている。僕はアルコールが駆け巡る中で判断を下した。かすみとつないでいた手に力を込めて、橋のたもとを90度東の方角に向かった。国体道路の一筋向こうに南新地トルコ街が覗いている。


「河村クン、大丈夫。足痛くない?」という言葉を最後に、かすみはかすかな寝息を立て始めた。かすみは今、追い山出発地点近くの冷泉公園のベンチで、僕の太ももを枕にして眠っている。
 僕は今夜、悪魔の言葉と戦った。アルコール支配下の性欲と戦ったと言った方が正直かもしれない。それは、ある意味でとても辛い戦いだったが、僕は信じられるかすみの言葉を最後まで信じて戦った。
 かすみは「僕と一緒に追い山を観る」ために父親に嘘をついてまで出てきたこと。今日の出会いがスムーズではなく、ずいぶん疲れさせたこと。そして、かなりお酒も飲んだこと。そんな状況下に置かれたかすみが僕に向かって言った「少し眠くなってきた」「少し疲れてきたみたい」という言葉に、嘘が入り込む余地はななかったはずだ。それに、かすみは駆け引きを楽しむような人間じゃないことを僕は知っている。
 相手の気持ちを完璧につかむことなどできはしないけど、少なくとも僕は彼女の言葉と自分の心に忠実であろうとした。姫を守る中世の騎士のように格調高くはできなかったが、疲れたかすみを公園のベンチに座らせることくらいはできた。途中、狼に変わろうとした軽い自分が情けなかったが、とにかくこうして膝枕の提供もできている。僕なりの男らしさで。

 桜の葉がカサコソと揺れる夜明け前の公園。僕はコクッと折れる自分の頚に、ハッと意識を取り戻した。慌てて目の前に焦点を探し、記憶を拾い集めた。かすみに掛けていた僕の綿のジャケットが地面に落ちている。かすみの小さな胸のふくらみが微かに動く。梅雨の雲間に役目を終えた白い月がのぞき始めている。土居通りの薄闇の中を人の気配が動きだし、街は薄明に向かいはじめた。舗道を踏みしめる人の足音が大きくなってくる。話し声も一緒になると、ザワザワと聞こえはじめるから不思議だ。
 僕は未明の冷気に身震いし、地面のジャケットまで静かに手を伸ばした。かすみを起さないようにゆっくりとジャケットを肩と身体に掛け直した。かすみの寝顔は水鳥の羽毛のように柔らかく、シロクマの赤ちゃんのいたずらよりも純粋に見える。ふ〜っ。僕は抱きしめたくなる感情に手錠をかけ、湧き上がる温かさだけを楽しんだ。

 櫛田神社に入り、境内の清道旗を回るために各流れの山笠が土居通りに並んでいる。追い山行事では30数秒の櫛田入りの時間を競い、さらにその後、博多の街の五キロメートルを全力でを駆け抜ける。これもまた時間を競う。
 カメラを持った観客が舗道に溢れた。午前4時49分の太鼓の音に呼応して、山笠を舁く水法被の男達のヤーッというかけ声が薄明を切り裂く。拍手が起こり、一番山が動き出した。一定の間を置き、次々と山笠が飛び出し、追い山はクライマックスを迎える。

 山笠の男達のかけ声に眠りを破られたのか、かすみは少し身体を動かした。僕の膝の上で顔を伏せてしまった。
「起きた?」僕は表情を隠したかすみに向かって訊ねた。
 かすみは顔を伏せたままで声を出さずに頷いた。
「始まったよ、見に行くかい?」
少し間を置いてかすみは伏せたままの首を横に振った。

 夜明けが追い山のようにスピードを上げて僕たちを通り過ぎていく。かすみは動かない。


 僕はかすみを自宅の近くまでタクシーで送り、自分のアパートまでそのまま走ってもらった。かすみはタクシーの中で「ごめんね河村クン、酔っちゃって。今日はありがとう」と元気の無い声を僕に向けた。
そして楽しかったよと言った僕の肩に、力を抜いて頭をもたれかけた。

 新聞受けに朝刊がのぞき、配達の牛乳に手が付けられていない朝。バラの花が咲いている瀟洒な洋館を過ぎたあたりでタクシーを降りた。シャワーを浴び、着替えて、パンでも齧るくらいの時間はあるだろう。僕はフワフワと反応の鈍い頭と身体でアパートに向かった。

 僕の部屋のドアの前に人がいる。首をうなだれ両膝を抱えてうずくまっていた。細くて白い腕が目に入った。
 やれやれ、何という日だ。日付は新しくなったのに、昨日からの流れは止まっていない。引きずるものが多すぎる。僕は泥のような眠りにはまっていた佐里君を何度も揺すった。
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by hosokawatry | 2008-05-11 00:11 | ブログ小説・あの蒼い夏に

あの蒼い夏に 〜チラシづくりの青春・18〜



18


晴照の大将が言った「あげん顔の白かったらいかんばいね」という言葉を聞いたとき、佐里君の白い顔が僕の脳裏を横切った。コンパクトながらすっと通った細い鼻すじ。眼鏡からのぞく二重まぶたが女性的な印象を与える切れ長の目。少し茶色がかった髪の毛と細めの眉毛、そして薄い唇。55kgにも満たない華奢な身体を持つ少年のような20歳。うつむき気味の無垢。肌の白さが拍車をかける。アザミさんがクラブで身体の理想像を語ったとき、僕はすぐに佐里君を想った。アザミさんとすべてが対照的な佐里君。

 僕がよく利用する屋台「晴照」を覗いた白い顔は佐里君だろうか? 以前、確かに「晴照」の旨いおでんのことを彼に話した記憶はある。今日は良くない体調を社長に指摘され、いつもより早く退勤させられた佐里君。体調の優れない佐里君が屋台ののれんをはたしてかき分けるだろうか? たとえ元気でも屋台の暖簾など、縁遠いタイプの人間なのに。
 社長の言うように、確かに最近誤植が増えていると笠木君からも聞いたことがあった。何か悩みでもあるのだろうか。どうしたのだろう。
 僕はコップに残る芋焼酎を少し眺めた後、白い顔の記憶を振り払うようにぐっと一気に飲み干した。コンロの上に乗ったメザシから立ち上る青白い煙を横目で把握しながら、大将が豚骨ラーメンの麺を沸騰している釜の湯から取り出している。鮮やかな手さばきが目の前で繰り広げられる。シャッと床の歩道に飛び散る湯切りの音が聞こえた。

 かすみは冷蔵ガラスケースの中のトマトをじっと眺めている。

「ねえ、河村クン。ワタシって、存在感ある?」
「あると思けど、どうして?」
「本当?」
「うん、そう思う」
「ワタシ、かすみなんだけど。名前が」
 トマトを眺めたままの格好でかすみは言った。
「そうかもしれないけど、仙人が食べる霞よりはずいぶん色気がある」
「その霞って山にかかるやつでしょ。近眼の空気みたいな、風景をぼかす役目の」と、かすみは赤みがさした頬を僕に向けた。「ホント冴えないわよね、名字が『春野』じゃなくてよかったわ。『春のかすみ』さんじゃ、冗談にもならなかったと思うよ、まったく」
「い、いや、ぼけてもいないし、僕にとっては大きな存在感だよ。まあ、マリアンヌ・フェイスフルよりはかなり控えめだけどね」
「マリアンヌってアラン・ドロンに革ジャンでバイク飛ばして逢いにいく人れしょ? 裸の上に皮のスーツを着て」
かすみの「で」の発音が「れ」になりかけている。それに気づくとばつが悪そうに舌を出した。
「へへッ、ワタシ、酔っちゃったのかしら」

「そう、『あの胸にもういちろ』という映画の中れね」
僕も赤い顔した「れ」人間になって、かすみをからかった。
「へぇ〜、河村クンってけっこう意地悪なんだ」と言って、僕の肩をグイと押した。

「衆ちゃん、今日はいい酔い方しとるね。羨ましかよ、横には美人バはべらしとるし」
 大将の声が気持ちよく聞こえる。かすみはニコニコしながら輝いている。屋台のテレビではドリンク剤を手にした二人の男性が「ファイト一発」と叫んでいる。数年前までジャイアンツの王選手が出ていたCMだ。

「ワタシの名前は清い心で生きていくことができて、人に親切に振る舞える人間になれるようにと、警察官の父が希望してつけた名前なの。かすみ草の花言葉を参考にしたんだって。聞けば出しゃばる女の人が好きじゃないんだって言うし、ん〜、かなり考えが古いわよね。最近の若いやつは自分の主張ばかりするから気に食わん。目立つために外面ばかり気にする人間が増えて頭にくる、新人類がどーの、こーのとうるさいんだから。」
 発音を気にしながらゆっくりと喋るかすみの話に僕はうなずきながら聞き入った。
「それに、小学生の時は近所に『百合ちゃん』っていう、背が高い奇麗な同級生の子がいたし…、登校の時なんかいつもワタシが寄り添っている感じで、そう、お祝い用に包んでもらう花束ってところかな。大きな薔薇や百合の花の回りで引き立て役になっているかすみ草。いつも、百合ちゃんの名前が先に呼ばれて、ワタシはいつも後。ふたりのことを『百合ちゃん達』って言われるけど、『かすみちゃん達』って呼ばれたことないしね。この存在感の違い、ねっ、わかる? 高校までず〜っとそうだったし、可哀想でしょ? ワタシ」

 けっして前向きな内容じゃないのに、話は全く暗くないから可愛い。
「でも、僕はとても好きな名前だ」と応えて幕引きを図った。「ダ行」の発音が怪しくなり、そして間延びはじめながらも「ラーメン食べる」といって、僕の心配をよそにかすみはあっさりと丼を空にした。僕は勘定を済ませ、晴照の大将と奥さんにお礼を言って屋台を出た。まだまだ追い山が始まるまでには時間がたっぷりある。
「カクテルが飲みたい、ブラディメアリー。マルガリータとか甘いのれもいいな〜」と、かすみはまだ飲むつもりだ。足取りはまだしっかりとしている。「平均台だって大丈夫だわ」とかすみは言った。
「ねぇ、コマネチみたいでしょ」
かすみは一段高くなった縁石に乗って、慎重にバランスを取りながら歩いた。3メートル先でバランスを壊して、両手を広げる前に車道側に足をついた。その瞬間、脇に溜まっていた雨水が飛び散った。車道を歩いていた黒いシルエットが飛んでくる水をよけながら振り返った。黒いシルエットに目を凝らすと、白いスーツ姿が浮かび上がってくる。シャツはダークな色で、ネクタイの鮮やかさが暗闇を突いて目に飛び込む。小柄だけどヤバい、僕らと違う人種だ。僕は全身から血の気が引いていくのがわかった。
「おいおい、ねーちゃん、も少し気をつけて歩かんといかんバイ」とパンチパーマのお兄さんは声を押し殺して言った。
「す、すみませんでした」と僕たちは羊になり、声を合わせて謝った。洗濯代をよこせと凄まれるかもしれない。僕は覚悟した。
 パンチパーマのオオカミは一歩僕たちに近づいて噛み付かんばかりに顔を寄せて言った。男の整髪料の強烈な匂いが二人を氷付けにした。
「飲んで陽気になっても構わんバッテン、もうちっと周りの人のことも考えちゃらんといかんバイ。ほら、お前達の後ろバ、杖をついた年寄りが歩きよろーが」
「はい、気をつけます」と僕たちはカクンと頭を下げた。
「これから、注意せないかんゾ、えっ。わかったか?」
「はい」ともう一度頭を下げるのを見てパンチパーマのお兄さんは「行ってヨカ」とアゴ先で許してくれた。

 歩道で立ち止まっている杖の老人の目が「あんた、いい男やね」とパンチパーマにささやいている。平常心を取り戻しかけていた僕は、老人と目を合わせたお兄さんの顔がうっすらと上気したのが分った。先の尖った白いトカゲ革の靴がくるっと回って歩きはじめた瞬間、タクシーが水溜まりの水を跳ね飛ばした。「こら〜、待たんカー」と慈悲深い白いスーツは小走りになって車を追いかけていった。

 いろいろと忙しい一日だ。
「いい人でよかったね」とかすみは遠ざかるお兄さんを見ながら言った。
「かすみちゃんはコマネチ以上の存在感だね、参ったよ」と僕はやっと笑いを取り戻すことが出来た。


 かすみはグラスの縁についた塩を舐めながら「マルガリータがとても美味しい」とマスターに気分よく話しかけた。僕はジンバックを流し込みながら、いつものようにサラ・ボーンのLPをリクエストした。コマネチの10点満点の演技について僕は頼りない分析を加え、他の演技者の「完璧でない美しさ」 もいいなとかすみに言った。僕たちは自らの未熟さがつくり出す「面白い状況」にあたふたしながらも、ラッキーな局面を結果として楽しんでいるのかもしれない。『かすみちゃん』ではなくて『百合ちゃん』が相手だったら、バスの中で見かけた怖い顔のパンチパーマのお兄さんとの「二度目のご対面」などあり得なかったと思うのだが。神様は楽しみながらサイコロをふり続け、頭の中の悪魔はまだまだ機会を窺っていた。
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by hosokawatry | 2008-02-18 02:05 | ブログ小説・あの蒼い夏に

あの蒼い夏に 〜チラシづくりの青春・17〜


 
                    17


 僕は屋台から洩れている弱いオレンジ色の光の中にいた。屋台の中からはプロ野球中継のよく聞き取れないアナウンスが聞こえる。コップの水を飲み干し、腕時計の文字盤に目を落とした。午後8時30分になろうとしている。不意のアザミ爆弾は落ち込んでいた心を瞬間的に救ってくれた。しかし問題が解決した訳ではなく、浮かない表情に変わりはない。立ち上がって首をまわし、周りの風景にかすみの存在を探ったが見いだせなかった。
 テーブルの端に乗った中央が少し凹んだフランスパンの紙袋が目に入った。このところ写植間違いが続いている佐里君の顔が無意識に蘇る。佐里君が打ってくれた「フランスパンフェア」のタイトル文字がネオンサインのように、脳内スクリーンを点滅しながら消えていく。

 そして、やっぱりかすみはこの場所にいない。

 不可抗力だとはいえ、30分の遅刻がこんな事態を招いたのだ。ブラジレイロの店内の様子が浮かび上がってくる。僕は満身の憎悪を振り向けて自分を責めた。屋台の簡易テーブルの前で、形の無い何かに押しつぶされようとしている。苦しかった。今はため息をごまかす煙が必要だ。胸ポケットのセブンスターに手を伸ばそうとしたその時、小さな圧力が僕の両目にかかった。

 僕は再び背後から視界を遮られた。しかし今度はずっと小さな両手で。

「アザミよ、ア・ザ・ミ」と小さな手の持ち主は精一杯の低音でゆっくりと発音した。僕は瞬間的に理解に達し、笑いを噛み殺した。僕は心臓から送り出される血流が速くなるのを感じながら、こめかみから全身に広がっていく温かさを楽しんだ。安堵感が全身から緊張の神経を抜き取っていく。そっと両手を振り解いた。アザミさんよりずいぶん温かくて小さな手だ。僕は腰掛けたまま後ろを振り向いた。

 赤いTシャツとブリーチアウトジーンズのかすみがちょこんと立っていた。ベージュの雑材バッグをたすきがけのように、肩から斜めに掛けている。僕と視線を交わしたかすみの表情はこわばっていた。かすみは笑顔を無理に作ろうとしたのがいけなかったのか、失敗して表情が一気に壊れた。感情のダムが決壊してしまったのだ。僕を見つめる瞳を濡らし、大粒の涙がどっと流れだした。
 僕は少し狼狽しながらも反射的に立ち上がり、「ごめん」と言って肩を抱き、背もたれの無い丸椅子に座らせた。いつもは陽気なかすみだけに、これまでに見せたことのないないぎこちなさと溢れる涙の量に驚いた。今日、僕と会えるまで健気に頑張っていたのだ、かすみは。そういえば僕だって、ずいぶん縮んでいたし、妙に心細かった。僕はもう一度「ごめん」と声をかけ、吸おうと思って出していたセブンスターを一本引き抜いて火をつけた。

 途方に暮れていた時間の切なさを、煙と一緒に冷泉公園方向の空に吐き出した。僕はタバコに感謝した。

「ビールでいいかい?」と訊ねると「ぐすん」と首を縦に振った。
「焼き鳥は? 豚バラとか鶏さんでいい?」と僕は訊ねた。
かすみは「うん、うん」と2回頷き、少し笑顔が戻った。
「最後はとんこつラーメンだよね?」と確認すると、かすみの表情に満月が宿った。
 保護色を求めるカメレオンのように、食べ物につられて簡単に表情が変わって行くかすみの様子が可愛かった。そして、僕も救われた。
 僕は屋台の勝手口から晴照の奥さんにそれらを注文した。

 かすみは7時20分にブラジレイロに到着した。とても混んでいて2階奥の席しか空いていなかった。ブレンドコーヒーを注文し、僕が来るまでと、宮沢賢治の文庫本を読み始めた。約束の7時半を過ぎても、仕方ないわねと本を読み続けた。途中8時前に注文の多い料理店のところでトイレに行った。少し心配になったがきっと大丈夫よと、また本の続きを読みはじめた。さすがに8時15分になると落ち着かなくなり、小さい自分の姿を見落とされたんじゃないかと席を立って店内を回り始めたところ、店の人に呼び止められた。かすみは名前を確認されると名刺を一枚渡された、と、ビールを飲みながら僕に話した。「まあ結局、こうして最後は私が望むように、神様はサイコロを振り間違えてくれたけど」と口を尖らせた。最後に「とても、長かったけど」と付け足した。

「ところで、アザミさんって誰?」と、焼き上がった豚バラ串を手に持ちながらかすみが訊ねた。
「えっ」
 僕はその瞬間、嫌な予感に支配された。「アザミよ、ア・ザ・ミ」で始まった今夜のかすみとの時間。アザミさんとのことは黙ってやり過ごす予定だったが、無理矢理引き戻されてしまった。かすみはしっかり気に留めていたのだ。
「やっぱり河村クンでしょ、とか言ってた身体の大きい人」
「え〜、聞いてたの?」と、僕はばつが悪そうに人指し指の背で鼻をこすった。
「慌てて、屋台に来てみたら、河村クンが女の姿をした男の人と話しているし、おまけにその男の人に触られて、遊びにきなさいとか、元気だしなさいとか言われていたし」とかすみは早口で喋った。「私が今日楽しみにしていたデートの相手が、そんな趣味の人だったとはね〜」
「……」
「新幹線とか駅をどうするとか、よく聞こえなかったけど」と、かすみは言った。
「うっ、うん」と、僕は焦った。「ほんとうに僕だって、よく解らない話なんだけど…」どうしてこんなに短い時間の間に、男性と女性の両方から攻められなくてはならないのだろうか。
「河村クンのこと本当に信じていたし。これまで、そんなこと一度だって話してくれなかったし」
「………」
「私、ショックだったわ。こんなに悲しくなったの久しぶり、こんなに涙が出たのも」
「えっ、さっき泣いたのは?」
 裏切られたようで悲しかったと、涙の理由を聞いて僕は唖然とした。逢えない苦しみと憔悴感から解放された歓びに泣いたのではなかったのだ。女性はやっぱり難しい。
「そりゃ、男の人が男の人を好きになっちゃいけないなんて、そんなこと言うつもりはないし、誰にだってそんな権利はないと思うけど、でも付き合っている相手に黙っているなんて最低よね。だめだよ、そんなの」

 僕は懸命にかすみの誤解を解こうと頑張った。付き合いのある印刷屋さんの営業担当が「アナザー・ウェイ」というオカマバーに2度ほど連れて行ってくれたこと。けっして、そちらの趣味は絶対にないということ。もちろん、アザミさんとは何もあるはずがないということ。こういったことは、会社の付き合いの中でよくあることで、普通はあまり喋る必要のないことなのだ、と僕は自己弁護した。かすみは結局、僕の必死の説明を鶏の砂ずりと一緒に飲み込んでくれて、納得してくれた。僕は違う種類の汗をかき、深呼吸ではない大きなため息をついた。その大変さはTVの値段間違いの理由を野瀬課長に報告することと変わらなかった。

 二人連れが綺麗な標準語でお礼を言いながら屋台から出てきた。
「衆ちゃん、入ってこんね」と晴照の大将が顔を出して手招きした。

「こげなべっぴんさんば連れて来るとやったら、言うてくれとったら空けとっちゃるとに」
 大将はかすみを見ながらニヤニヤした。かすみは素直にニコニコと笑顔を返して座った。
  
 僕はおでんを注文した。こんにゃくを噛みしめ、巾着餅に口の中をやけどしそうになった。かすみは辛子明太子を卵で巻いた「めんたま」を頼んで、楽しそうに箸で壊しては口に運んだ。「ふ〜ん、河村クン達はいつもこんなもの食べてんだ」と興味深そうに、「あぶってかも」をつつく僕の皿を眺めた。
「彼女はこげなスズメダイやら、見たことなかったろう? こん魚は博多じゃ『あぶってかも』と言うとやけど、ばってん、スーパーとかじゃ売りよらんしね」と、大将は言った後、焼酎がこの「あぶってかも」には最適だと教えてくれた。僕は芋焼酎をロックで頼んだ。かすみは臭いお酒ねと芋焼酎をやめて、日本酒を注文した。

 「あんた達は強かバイ」と大将が驚く間にも、二人にはアルコールが確実に沁み続けている。
 話が男らしさに移った。僕は男の夏はしっかりと日焼けして逞しさを感じさせる方が素敵だと言ったら、かすみはそうでもないと言った。浅黒くてマッチョなだけの男はごめんだわ、と言った。大将がその言葉に反応した。
「そうゆうたら、今日8時過ぎだったろぅ、色の白い男ん子が黙って屋台の中ば覗いて行きよったけど、あげん顔の白かったらいかんバイね、男なら」
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by hosokawatry | 2007-10-08 18:21 | ブログ小説・あの蒼い夏に

あの蒼い夏に 〜チラシづくりの青春・16〜




                    16



 僕は冷静さを保とうと努力したが、無理だった。机の上には腹を空かした池の鯉のように、口をぱくぱく開けた仕事が群れをなして待っている。会社に戻るストーリーが脳裏をかすめた。無意識の中で天秤のバランスが「諦め」に傾きかけ、僕の迷える足はふらふらと会社の方角に30歩ほど向かった。

「上出来だ。早く会社に戻って、いつものように仕事をするのだ」と悪魔の声が大きくなった。

 その瞬間、あなたのもとへ帰れたら素敵、と歌うヘレン・メリルの昨夜の声が聞こえて来た。僕は顔にかかった水を嫌う猫のように、顔を振って悪魔の声と夏の湿った夜気を振り払った。急にエジソンの電球が頭の中で点灯し、ネガティブな霧が少し晴れた。 今日は仕事よりかすみを選んだのじゃなかったのか、僕は。昨夜から、思い続けたのはかすみとの時間じゃなかったのか。僕は慌てて踵を返し、ブラジレイロに向かった。

 僕は珍しく諦めなかった。
「短い髪の毛の女の子がもし来たら、これを渡してもらえますか? 名前はかすみって言います」と無茶を言って、屋台『晴照』で待ってるよと書いた名刺をレジにいるウェイトレスに渡した。普段なら照れくさくてできない事も、難なくできた。可能性がゼロでない限り、できる事は何でもしようと思った。しかし、親に嘘をついて出てきたかすみの家に電話をかけるのはずいし、できる事は限られているが…。

 冷泉公園横の屋台は櫛田神社から200メートルほど離れたところにある。僕は『晴照』に行く途中、ポケットの中の10円玉を確認した。冷泉公園横の公衆電話ボックスから、事情を多少は知っている会社の笠木君に電話をかけた。自分宛に電話がかかってこなかったかを確認した。万一、電話が入れば、屋台の晴照にいると伝えてほしいと頼んだ後、佐里君のアパートに電話を入れることにした。佐里君は不在だった。ステップ写植の社長の言葉が蘇り、別の心配が膨らむ。まだ、帰り着いてはいないのだろうか。
 僕はコール音を10回聞き届けた後、フックに受話器を返した。手がかりをつかみ損ねた両手をポケットにしまって、夜空を見上げた。午後7時過ぎまでは晴れ間ものぞいていた冷泉公園の上空は、いつの間にか厚い雲に覆われている。月は見当たらない。打つ手をなくしたやるせなさに僕は喘ぎ、湿った闇に息苦しさを感じた。ネガティブな霧が再び僕を包み込み始めている。少しうつむき加減でゆっくりと『晴照』に向かった。

「やぁ、衆ちゃん。仕事の途中ね? ん、終わったと。珍しかね〜」
 晴照の大将はのれんを割って中を覗く僕を見て言った。
「いっぱいですね。後にしようかな…」
 僕は少し口ごもった。
「今日は早すぎるとじゃかないと?」と大将の奥さんがホルモン焼きを客に差し出しながら言った。熱せられた鉄皿からはジュー・ジューとホルモンの脂が飛び跳ねている。
「何事?」と白波の水割りをつくりながら大将が訊ねた。
「ええ、ちょっと。待ち合わせで…」と言ってその場を離れようとした。

「ちょっと待ちんしゃい」
「はっ?」
「特別野外席をつくったげるから。飲むとでしょ?」
奥さんは屋台の横の出入り口から出て来て、ビールケース4箱を足にして木の板を上に置いた。背もたれのないパイプ丸椅子を周りに4脚配置して「屋台の中より、気持ちがヨカよ」とにっこり微笑んだ。
「ビールば出そうね」
「ビールは後でいいです。できれば水をもらえたら嬉しいです。すみません、いつも忙しいときに来て」と、僕は頭を下げた。
「気にせんでちゃヨカよ、そげなこと。あんたはお客さんやろ。頭を下げるのはうちの方たい」と奥さんは言った。

 屋台の中からTVやラジオでよく耳にする標準語が聞こえ、博多弁が応え、わっと笑い声が広がった。笑い声が大きくなるほど、僕は縮んで行く。冷泉公園近辺は追い山見物の観光客でいつもより人が多い。僕が座っている歩道特設野外席の後ろを大阪弁が通り抜ける。その大阪弁は野瀬課長の関西弁よりもっとコテコテしていた。通天閣の近くの囲碁将棋センターの中で聞けるような、オクラ真っ青の本場の力強いねばりだ。今夜の博多は「言葉博覧会」の会場になっている。話し相手がコップの水だけの僕は、ため息だけだから「言葉博覧会」には参加できない。

簡易テーブルに飲みかけの水を置いたとたん、一人ぼっちが身にしみて来た。蒸暑いのに心細くて寒いという奇妙な感覚が襲ってくる。その瞬間、鳥肌が立った。


 背後の歩道から両手が伸びて、僕の両目を塞いでしまったのだ。
「かすみちゃん?」と僕は高い声でとっさに反応した。

「ふん、残念でした。アザミよ、ア・ザ・ミ」と、広い肩幅の持ち主は低音で答えた。「河村君でしょ、やっぱりね」

 クラブ「アナザー・ウェイ」のアザミさんは僕の顔から両手を離し、満足そうに微笑みながら正面に回った。ドレスから覗く足の筋肉は「オトコ」を隠しきれていない。アザミさんは立ったまま僕を見下ろすと、すぐに声を低くして言った。
「悪かったわねぇ、かすみちゃんでな・く・っ・て」 
 過剰な香水の匂いが鼻先をかすめた後、すぐにその場を支配した。目眩がするほどの圧倒的な香りの真ん中に大柄なアザミさんが立っている。
「いっ、いや、その、そういう意味じゃなくって…」
 今の僕は冗談でかわせるほど陽気ではなく、正直に喋れるほど強くもない。

「ところで、誰なの? かすみチャンって? まさか彼女じゃないでしょうね。この前、店で会ったときは彼女いないですって言ってたわよね?」
「ん〜、その」と僕は困った。
「彼女なんでしょ?」
「いや〜、そんなんじゃ」
「何なの、かすみって。よくわからないわね。彼女じゃないとしたら、ボゥ〜ッとした春の空気みたいなものなの? えっ?」と、アザミさんは語気を荒げた。
「と、ともだちです」
「そう言うと思ったわ? この新幹線男」
「はっ?」
「新幹線よ、新幹線」
「僕が新幹線ですか?」
「そうよ、最悪よ」
「よく分からないんですが?」
「素早くいきたくて、なりふり構わずすぐに『えき』を飛ばす卑怯ものよ」
「えっ……?」
「オトコなら分かるでしょ、液を飛ばすくらい」
「………ははは、駅を飛ばすですか、上手ですね」僕は少し緩んだ。
「はははじゃないわよ。えきを飛ばした後はすぐに忘れてしまうのよ。わかる? そして、別のえきを目指して一直線。たまんないわね、そんなオトコを相手にするオンナは。辛いわよ、まったく、もう。そんなオトコに限って好きなものを好きってきちんと言えなんだから」
 顎の辺りを白く入念に塗っているアザミさんはそう言いながら、怒ったような表情をつくり、僕の股間を大きな手でぎゅっと握りしめた。「うっ」と僕は驚いて身をよじってその手をつかもうとしたが、その前にアザミさんは素早く手を離した。

「僕はそんなんじゃありません」と僕は少しむっとした。

「ははは、冗談よ、冗談。分かってるわよ、河村君がそんな人間じゃないってことくらい。アザミよりかすみの方が爽やかな感じがして、ちょっと嫉妬したのかもね。ごめんなさ〜い。それに河村君がいい人間だから、ついつい、突っ込んでみたくなるのよね。あらっ、突っ込んでみたくなるなんて男みたいでいやだわ」とアザミさんは苦笑いをした。そして、腕時計に目をやると「あらこんな時間」と言って、「行かな〜くちゃ」と井上陽水の口調で歌い始めた。
アザミさんは「たまには遊びにきてね」と上川端商店街の方に歩きながら言った。さらに5歩ほど歩いて立ち止まり、振り向きざまに「元気だしなさいよ」と僕をまじめに励ました。
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by hosokawatry | 2007-08-25 19:14 | ブログ小説・あの蒼い夏に

あの蒼い夏に 〜チラシづくりの青春・15〜




                    15



 咲田店長は焦り始めた僕には気づかずに、話しを続けた。

 一回り上の年齢だという店長は多くの社員を毎日まとめあげなければならない。正社員、パート社員、アルバイト社員が入り交じった店内。年齢、性別も様々。多くの社員と話を交わし、もちろん教え、注意し、怒り、誉め、やる気を出させて店を健全に運営していく。人のマネジメントが一番大変なのかもしれない。そんな職種の真剣な毎日が『人間として大切なもの』を自然に学ばせ、身につけさせたのだろう。どの話も頷かされる内容ばかりで、僕の首は小刻みに前後に揺れ続けた。
 だが、今日の話だけは短くしてほしかった。僕の心は冷や汗を掻き始めていた。かすみとの約束時間まであと5分だ。もう間に合うのはスーパーマンしかいない。

「この秋の開店1周年祭のセールづくりを早めに取りかかろうと思ってね。各部門の担当者に何を売りたいか、大まかだけど書いてもらったのがこの原稿なんだ。これをもとに、チラシのラフスケッチをしてもらおうと思って君を呼んだわけだ」
 店長は100枚くらいの束になった原稿用紙を僕に差し出した。
「B3で2色・2色ね。衣料では靴とバッグを去年より大きく打ち出そうと思ってる。あとは住関連では収納用品。食品は道産子フェアだね、気合いを入れたいのは」
 僕はもらった原稿用紙をぱらぱらとめくった。しかし、落ち着きを無くした焦点の目には、原稿の文字がぼやけたシミにしか写らなかった。頭の中の耳の尖った黒い生き物が早く席を立てと声を荒げている。店長に焦っているのを悟られないようにと、精一杯慎重に口を開いた。
「頑張って絵を描いてきます。時間はどの位いただけるでしょうか?」
「そうだね、来週の金曜日でもいいかな? その次の月曜日に本部に行くので、持っていけるように」
「大丈夫です」と僕は店長の目を見て答えた。
「気合いが入ったやつを頼むよ」と店長は僕を見て微笑んだ。
 咲田店長は立ち上がり、ちょっと待ってくれる? と言いながら店長室に入っていった。
 ハラハラ気分に拍車がかかった。「なんというおっさんだ、死にそうなくらい焦っているというのに」と頭の中の黒い生き物が叫んだ。僕は慌ててすぐにその黒い生き物の口を塞いだ。

「これ、河村君にあげようと思ってね。夕方に店で焼き上げたものなんだけど」といって、咲田店長はパリジャンを一本手渡してくれた。「よく売れたし、ベーカリーコーナーからのお礼だ」
僕は細長いフランスパンを持ったまま、頭の中の黒い生き物を蹴飛ばし、きちんとお礼を言って、急ぎ足で事務室を後にした。

 帰路は子熊の悲鳴を聞きつけた母熊のように表情を険しくさせて、何回も赤信号の長さを呪った。福岡市動物園の小高い丘陵地もひとっ飛び、暗さを増した国体道路でもアクセルペダルを踏みしめた。
 結局、恵屋の店を出たのが7時30分だった。会社に帰り着くのは楽観的に見積もっても7時50分過ぎ。待ち合わせ場所の喫茶店「ブラジレイロ」は会社から徒歩3分というのがせめてもの救いだ。しかし、このままでは7時30過ぎの待ち合わせが8時前になってしまう。だが、どうしようもない。今日、神様はさいころを振り間違えなかった。ほんの少し夢見ただけの午後7時からのデートは、結局は8時に落ち着いてしまいそうだ。やはり、そんなにうまく事は運ばない。

 僕は会社の玄関内に駐車すると、脱兎のごとく3階の自分の席に駆け上った。
 机の蛍光スタンドにセロテープでぶら下がっている伝言メモが、生ぬるいエアコンの風で揺れていた。
「ステップ写植から電話が入ってたらしいぞ」と、版下のコピーを取りに行こうと立ち上がった永野さんが言った。
 事務の山口さんからの伝言に目を通し、プッシュホンの電話番号を押した。ステップ写植の社長が電話に出た。佐里君から連絡をもらっていたので、今電話したと告げると、ぼそりと社長が答えた。
「佐里は疲れているようなので、今日は私が帰しました。すみませんが…」
「どこか体の調子でも悪いのですか?」と僕は訊ねた。
「よくは分からんのですが、元気がありませんね。もともと元気のある方じゃないんですが、こないだのTVの値段の件以来、特にですね。それ以前にもけっこう間違いは多かったし、実際、私も困っとるんです、仕事は忙しいのに」
「そうですか。僕も結構佐里君に打ってもらってるチラシ多いし…」

 僕は社長に佐里君のアパートの電話番号を聞き出しメモを取った。今の僕にはそれ以上の時間は与えられていない。メモ用紙を綿パンのポケットに突っ込み、パリジャンを抱え「今日は先に帰らせてもらいます」とワタリ係長に挨拶して支店を飛び出した。

 息が上がるのをこらえながら、小走りで西流の粋な長法被を着た二人連れを抜き去った。フランスパンを抱えた僕の山笠はもう始まっている。店屋町のチョコレートショップを通り過ぎ、ブラジレイロにたどり着いたのは午後7時58分だった。うちの会社は来客時に必ず、ブラジレイロのコーヒーを出前で頼んでいる。評判通りの味わいに、我が社を訪れた多くの人が笑顔を浮かべ、話を弾ませた。

 僕は息を弾ませ、コーヒーを連想させるようなアーモンド色をした木製ドアを押した。コーヒーの香りが充満する店内は混んでいる。一階のテーブル席を見渡したが、かすみはいなかった。僕はカウンターの中の主人に目で挨拶をして二階に上がった。素早く凝視する。どの席も客に占領されているように見え、かすみの姿はなかった。自分の目を疑った。一階に戻ってもう一度目を凝らした。どうしたのだろう? 

 かすみがいないわけがない。

 しかしかすみはこの場所にはいない。

 僕は目の前の残酷な事実を見せつけられてしまった。絶望の帳が目の前に降りてくるのを感じる。首筋を流れ落ちる汗がひんやりするのは、エアコンのせいばかりじゃなかった。凶と出た結果だったが、もっと詳しい現状把握に努めなければならない。すぐにウェイトレスの女性に「一人でコーヒーを飲みに来たショートカットヘアーの女の子」は7時30分頃に来なかったかを訊ねた。

「ごめんなさい。混んでて忙しかったから、その女性の方がいらっしゃったかどうか、自信がありません」とウェイトレスは前置きをして、「やっぱり、思いだせません。申し訳ありません」と丁寧に応えてくれた。

 僕は混乱した頭で、ウェイトレスにお礼を言った。失意の右手でドアを開けて、孤独な夜の闇に一歩を踏み出した瞬間、ブラジレイロのトイレの扉が開く音が静かに響いた。その音は、一年中の中で一番活気に満たされるこの時期、その界隈においては、あまりにも小さすぎた。
 
 真っ白な頭で僕はヨロヨロと歩き始めた。パリジャンを左手に持っているのに気づいた。握りしめているパンの中央部が少し凹んだかもしれない。「おい、おい。いったいお前はどこに行くつもりなんだよ」と頭の中の悪魔が馬鹿にする。「博打好きの神様のサイコロなんか信じたんじゃないだろうな? まさか」と悪魔がにやにやする。


「お前はやっぱりこの時間は仕事をするしかないのさ。そんな人生なんだ。もう諦めることだ」
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by hosokawatry | 2007-07-08 00:35 | ブログ小説・あの蒼い夏に

あの蒼い夏に 〜チラシづくりの青春・14〜




                    14


 僕は会社のロゴマークがドアに描かれている白のライトバンで、恵屋花咲店への道を急いだ。帰宅ラッシュのピークを過ぎたばかりで依然として車は多く、スピードは制限された。約束時間が午後6時30分だ。その15分前には店に着くようにと余裕を持って出かけたつもりだった。しかし、到着したのは自分で設定した予定時間より10分遅れの午後6時25分だった。僕の中でもギリギリの時間だ。能瀬課長は「人と会うときはやなぁ、遅くともその10分前には着いておくのが普通やで」と何回も繰り返した。僕は普通の優秀な社員にはなれない、そういう意味でも。

 花咲店は昨年誕生した郊外のベッドタウンに立地している。花咲ニュータウン開発にセットでオープンしたのが恵屋の花咲店だった。取り扱い品目は衣料品、生活関連商品、家庭電化製品、食料品で、すべてをコンパクトにまとめたGMS形態の量販店で、駐車台数は120を数えた。建物は1層なので、すべてが揃った売り場は思ったより広く感じる店だった。

 そういえば今日は7月14日、木曜日、パリ祭だった。パリ祭の由来はフランスの建国記念日だと記憶している。1700年代年のその日に起きたフランス革命の象徴、バスチーユ監獄襲撃は高校の世界史で学んだ。花咲店ではパリ祭ということで、今日から「フランスパンフェア」を実施している。
 僕はチラシに一番肉太の丸文字ふちどり書体「スーボO(オー)」で見出しを付けて案内した。本当は僕が書体指定したのはゴチック系の「ゴナU」だった。佐里君は「フランスパンフェア」というタイトル文字は丸みを持った文字の方が雰囲気が良くなると思ったのだろう。電話をかけて来て「スーボO」を使わせてくれと言うので了承した。二人の気持ちがこもっている。だから今日、個人的にはフランスパンが売れると嬉しい。
 そして、木曜日である今日は一週間の中で、スーパーの新聞折り込みチラシが一番多い日でもあった。レギュラーセールは通常どのスーパーでも木曜日スタート、日曜日がセール最終日というパターンが多い。花咲店では、今朝10時からの早朝日替わり目玉品が婦人用のTシャツが500円で、明日の金曜日が婦人デザインブラウスの500円だった。それぞれ先着5名様、お一人様一枚限りという制限がついている。
 
 僕は関係者用の駐車場に車を停めて、従業員入口のある店舗裏側に向かった。雲間からのぞく夕暮れの逆光が、駐輪場のまばらな自転車をシルエットにしている。自転車を押しながら帰ろうとしている客に、挨拶をしている女性社員がいた。ポニーテールの髪の毛が元気に揺れた。挨拶をされたお客さんが笑顔を返している。夕陽のオレンジ色が混じった風景に、人影のグレーが穏やかに伸びている。その若い女性社員はツツジの植え込みに手を入れ、枝に挟まっているビニール袋を拾い上げた。誰も見ていない店裏を掃除をしている姿は美しい。
 僕は柔らかく腰を曲げているシルエットに向かって「お疲れさまです」と声をかけた。「こんにちは。あら、今日はお一人ですか?」と逆光の中の白い歯が僕の目に飛び込んできた。彼女は去年入社したと言っていたから、今年19歳のはずだ。

 守衛室の前で会社名と自分の名前、入店時間を書き入れると番号のついたプレートを必ず渡される。僕はそれを胸ポケットにつけて店の中に入り、急いで事務所に向かった。

「すみません。店長は急にお客さんが見えて、申し訳ないですけど、河村さんには30分くらい待ってもらえないでしょうかとのことです」
事務の女性からの言葉に僕はため息をついた。
 売り場の様子を見るためにバックヤードを抜けて店内に入った。雑誌売り場で平凡パンチが目についたのでちょっとページをめくった。アメリカ西海岸発ファッション情報がペンタッチのイラスト付きで掲載されていた。
入り口の喫煙スペースで時間を気にしながらタバコを吸っていると、閉店合図の曲「蛍の光」が流れ始めた。

 お客さんの退店が終わった。各売り場担当者や部門長、フロア長は急ぎ足で中央のインフォメーションスペースに集合している。僕は事務所に戻らずに終礼を見る事にした。
 店の従業員がすべて集まるとすぐに店長の話があった。その後4人のフロア長による今日の売り上げ成績についての報告があり、反省の言葉が続き、巻き返しを誓う決意表明で終わった。僕はてきぱきと熱く語られるそれらの話を、大きな丸い柱の陰で聴いた。フランスパンはよく売れたそうだ。よかった。

 
「やあ、ご苦労さん。悪かったね、待たせたりして」

 終礼が終わると咲田店長は柱の横に立っていた僕に向かって声をかけた。
僕は緊張感を隠しながら「こんにちは」と言って頭を下げた。先日、テレビの値段間違いで謝りに来てから、何日も経っていない。店内の蛍光灯に映し出される僕の影は、少し気持ちを引き摺っていた。初期のUS恐竜特撮映画のように動きに角が立っている。

「事務所に行こう」と、咲田店長は僕の前を歩き始めた。
 服飾部門の傘コーナーに、『雨季雨季セール』とタイトルが入ったPOPが天井からぶら下がっている。紺色と綺麗なブルーの水滴が交互に7個並んでいて、雨季雨季セールの7文字がひとつずつ水滴の中に白抜き文字で収まっている。竹田さんが考えたタイトルだ。少し照れるフレーズだが、口に出してみると妙に雰囲気が明るくなるので、売り場ではおおむね好評だった。
「そのPOPのタイトルは河村君が考えたの?」と店長が訊ねた。
「いいえ、僕ではありません」と答えた。
「ワタリさんかい?」
「いいえ、竹田という僕の先輩に当たるコピーライターです」
「爽やかな性格なんだろうね、ウキウキセールは気持ちがいい。おかげで傘とレインコートの売り上げは昨対で150%を超えているんだ。ちょうど、今年は可愛いデザインものを入れることができたしね。すべてが上手くまわったようで、部門担当者もよろこんでいたよ」

『俺はチラシづくりに疲れたミミズだ。湿っている』と黒い首筋をぽりぽり掻きながら、ドライマティー二を飲む竹田さんの姿が脳裏をかすめた。咲田店長は雨季雨季セールのタイトルを書いた人のことを「爽やかな性格なんだろうね」と言った。僕には「はい、そうです」とは言えなかった。瞬間、「はい、竹田はいい人間です」と、見当違いの答えを返す他に選択肢はなかった。

 「関係者以外は通行を禁ず」と書かれた扉を抜け、店長と僕は照明が落とされ始めた店内の通路から事務所にたどり着いた。「河村君にコーヒーを出してあげて」と咲田店長はピンストライプのブラウスを着た女性社員に声をかけた。さっとポニーテールの女の子が給湯室に向かった。

 咲田店長は実用的な応接ソファに腰を下ろすと、僕にも座るように勧めた。テーブルの上の灰皿は吸い殻でいっぱいだった。アルミの灰皿は凸凹に変形している。厳しい店長の現場教育の一環だろうか、かなり宙を舞ったに違いない。三ツ谷さんの話によると、うちの会社ではかつてはディバイダーも空を飛んだことがあったそうだ。怖い上司はどこにでもいるものだ。店長はその灰皿を持つとスックと立ち上がり、給湯室に向かった。自分で吸い殻を捨てて戻ってきた。
「先日はカラーテレビの値段間違いの件、申し訳ありませんでした」と僕は少し固めに切り出した。
「ああ、そんなに何回も謝らなくてもいいよ。もう、済んだことだし」と、店長は言って、ショートホープを胸ポケットから取り出した。旨そうに重い煙をゆっくりと吐き出しながら、
「河村君もタバコ吸ってたよな? これでよかったら吸うかい?」とタバコを差し出した。
「はい、ありがとうございます。でも、持っていますので結構です」といった。
「営業の湯浦君は断らないけどね、私の差し出したタバコは」

「はあ」といって僕は困惑気味に首をすくめた。まわりの空気が固まって、ほんの少し時間が止まった。

「はは、冗談だよ。大丈夫だよ、私のタバコなんて吸わなくても」と店長は空気を読んでにやっと笑った。
「湯浦君は余分な摩擦を起こさないように、得意先の言うことには素直に従う。営業だから仕方がないのかもしれないけどね。ところが、君は私の気持ちを断った。私から見れば素直じゃなかったし、ほんの少しだけど不快感も残った。しかし、断った君のハートの方を信じる」
 ポニーテールの女の子がコーヒーを持ってきてくれた。僕は「ありがとうございます」と言った。
「砂糖は入れてませんけど、それでよかったですよね」と彼女は確かめながら微笑んだ。一瞬だったけど、閉店後の事務所に笑顔の精が舞い降りた。

「それに、先日も間違いの件で一人で謝りに来たときには、最後に『うちの河村にもこれからこういうことのないようにしっかりやらせます』と、丁寧に君の名前をしっかり口に出して頭を下げていった。すみませんとだけ言えばいいのに余計なことまで喋った。間違いを起こしたのは河村です、と私には聞こえたわけだ」

「でも、それは本当です。間違いじゃありません」
 僕はきっぱりと言った。
「そりゃそうかもしれないけど、非常にまずかった。社会経験もけっこう積んでる営業マンが言う言葉じゃない。後輩が犯した間違いは自分がカバーしてやらなきゃいけないんだ。話の流れの中で河村君の話題を上手に消し去ることが先輩としての務めだ。救ってやらなくちゃ。人が困っているときほどね。彼には大切なものがよくわかっていない。すくなくとも、湯浦君は君の名前を口にするべきではなかった」


 僕は咲田店長の話を聴きながら、ソファーにおろした腰と背中がいつの間にかまっすぐに伸びているのを感じた。しかし、いい話をしてもらっているのに、かすみとの待ち合わせ時間が気になって来た。店長の話に相づちを打ちながら膝に置いた腕の時計を見た。午後7時20分を過ぎている。
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by hosokawatry | 2007-06-17 14:05 | ブログ小説・あの蒼い夏に

あの蒼い夏に 〜チラシづくりの青春・13〜

  


                13


 営業の金井さんが指のVサインを蟹の爪のように閉じたり開いたりさせながら、僕の席にやってきた。
「河村は確かセブンスターだったよな?」と、口元に笑みをたたえながら、これ以上ない明るい笑顔で僕にすり寄ってきた。僕がセブンスターを吸っていることを去年から知っているはずなのに、今朝もまた同じフレーズだ。しかし今日の彼のにこやかさは尋常じゃない。この笑顔、1本じゃ済まない。僕のセブンスターの2本、いや3本は確実に持っていかれる運命にあった。
 金井さんは自分の利益のことだけに集中できる天才だ。社内では手の内を証されているにもかかわらず、「課長はショートホープだったですよね?」と擦り寄る神経の太さ。あきれるほどの鉄面皮なのだ。やる気満々の雌ヤブ蚊だって、彼の顔だけには針を立てられないと僕は確信する。
 ビール瓶を持って回る宴会の時には、金井さんのタバコの箱はいつもいっぱいに膨らんでいる。白や茶色のフィルターがいろいろ混じっているのを知らない人はいない。僕は息を飲んで覚悟した。営業の前田がこちらを見てにやにやしている。

 金井さんは僕のセブンスターのパッケージから3本抜いて、福岡競艇場にいるお兄さんのように、両耳に1本ずつタバコを挟み、3本目は僕のジッポライターで火をつけてふ〜っと、旨そうに煙を出した。そして「いつも済まんな」と一言残してすたすたと歩いていった。金井さんが歩いた後には草は1本も生えていなかった。
 野瀬課長の席に近寄り、新聞のスポーツ欄に目を通していた課長に「王は756号間違いないですよね」と金井さんは声をかけた。阪神ファンの野瀬課長はあまり嬉しそうな顔はしなかったが、「世界新、いきそうやな」と声を返した。「巨人は嫌いやけど、王と長嶋だけは憎めんのや」と、残っていたお茶をグビッと飲み干した。そして、机の端を中指を立てて「コン・コン・コン」と3回叩いた。同じ阪神ファンのワタリ係長もすぐに「ハンク・アーロンは抜かれますね。残念だけど」と奇妙な相槌をうった。

 僕は笠木君と同じ同期入社デザイナーの中川キヨシ君からコピーライティングを頼まれた。そのファッション衣料専門店のDMに入れるヘッドラインを午前10時過ぎに書き終えた。デザインがよければコピーのペンも気持ちよく走る。キヨシ君のデザインはディテールにはこだわっていないように見えるが、よく見れば気配りが行き届いているのが解る。その感性は素晴らしいと思う。だが、未熟な僕にとってはそれ以上、その素晴らしさの説明が上手くできない。「制作ディレクターを目指すのやったら、デザインでけへんでもデザインを理解することくらいできんとあかんわ。デザインの良し悪しを判断できんやったら、デザイナーに指示を出すことや、得意先を納得させることもでけへんわけやから」と、課長からは言われたことがある。
 僕のコピーはキヨシ君のデザインの上に乗り、頼りなくもなんとかその格好を保っていた。そのコピーライティング能力は、まだ夜の漆黒が濃い時だけにその存在が確認できる3等星のようなものかもしれない。悔しいけど。

 コピーを書き終えた後、すぐに2階の誰もいない商談室に向かって、階段を駆け下りた。慎重にメモ用紙の電話番号を見ながらダイヤルを回した。「今日は間違いなく大丈夫だと思う。午後7時にブラジレイロの2階で会おうね」とかすみに連絡を入れた。商談室を出るところで藤木女史とすれ違った。なぜか彼女はニタニタしながらウィンクをして「幸せそうね」と言った。もしも会社に諜報部ができたら、彼女にはすぐに部長の椅子を用意しなければならないだろう。出世は違いない。

 午前中にもう2件の仕事をこなさなくてはならないのを、自分の予定表で確認した。来週折り込み予定の「夏休み突入、レジャー用品セール」の版下完成を急がなくてはならなかった。文字のチェック、掲載する写真の確認を始めたとたん、僕の担当店「恵屋、花村店」から電話がかかってきた。店長の咲田さんからだった。僕はその瞬間、午後7時からのかすみとのデートが脳裏をかすめた。嫌な予感がした。
「河村君、今日の夕方に店の方まで来れないね? ちょっと頼みたい仕事ができたもんだから」
予感は的中した。僕は今日の仕事のスケジュールとその後のかすみとの時間を頭の中に書き出し、整理をしようと焦った。フル回転で脳を回しながら対策を立てようと試みたが無駄だった。僕には白旗の選択肢しか用意されていなかった。
「夕方のお時間は何時頃がいいでしょうか?」と咲田店長に訊ねた。
「そうだな、閉店時間が7時だから、6時30分過ぎ。いいかな、そんな時間で?」
 最初は夕方だと言ったのに、6時30分過ぎは夕方ではないじゃないか。神様のさいころは僕の望みを危ういものにしようとしている。しかし文句を言っても始まらない。仕方がない。
 花村店は郊外店舗で、僕の会社から車でとばせば20分の距離だった。店長との話が30分だとすれば、帰り着くのが午後7時30分くらいになる。かすみちゃん、ごめん。
 僕は多くの20代サラリーマンアンケートの結果と同じように、デートより仕事を優先させようとしていた。
「分かりました。お伺いします」と僕は複雑な気持ちを悟られないように、少し元気に応えた。
「すまんね。いつも急で」
「営業の湯浦は今日は宮崎の方に出かけていますけど…」
「いいよ、河村君だけで」とあっさりと咲田店長は電話を切った。

 僕は慌てて2階の商談室に走り、かすみに電話を入れた。
「解った。じゃあ7時30分過ぎにブラジレイロで。河村君の神様もなんだか怪しいもんだ。でも、しょうがないよね、仕事だから」とかすみは言った。僕は午後7時30分が確約できなかったので、7時30分「過ぎ」という婉曲的な言い回しを使った。

昼のFMニュースで、今日にも出されそうだった九州北部の梅雨明け宣言は、すこし延びそうだと言うアナウンスがあった。暑いのは嫌いじゃないけど、僕は湿った空気だけには馴染めなかった。しかしもう少しの辛抱で梅雨が明けるのは間違いない。我慢、我慢。
 午後から周りの人の声が聞こえないくらい珍しく集中して仕事を進めた。しかし、途中一度だけ僕のその張りつめた時間は笑い声で破られた。
 午後3時過ぎにキヨシ君が買ってきた缶コーラを受け取った三ツ谷さんは、昨日と同じようにスックと立ち上がった。間髪入れずにキヨシ君が「ウルトラマンさんコーラは好きですよね?」と質問した。三ツ谷さんは大きくうなずき、缶コーラを握りしめ、その腕を天井に向けて力強く差し出した。

「シュワッチ!」

 職場と言う風船に針は立てられた。僕は思わず吹き出してしまった。ワタリ係長も笑っている。破裂した風船から勢いよく吹き出した笑いの空気。口元を緩ませた空気はそのまま職場を包み込む。緊張が緩む瞬間。頭に対する3時のおやつ、心のコーヒーブレイク。睡眠不足で半分死にかけている制作マンもみんな生き返る。

「本当はサイダーの方が好きなんでしょ? 三ツ谷(三ツ矢)さんは」と竹田さんがツッコンだ。
「ハハハ、ばれたごたるね」と三ツ谷さんは三ツ矢さんになって笑った。

 永野さんは笑顔を見せずに静かに席を立ってトイレに向かった。
 夕方に流舁が始まった。明日の未明に控えた本番に向けての最後の舁山だ。危ういビルの壁を通して、路地を熱気が駆け抜けるのが感じられる。曳山が抜けるまで、車は通れない。僕は流舁が終わったところで恵屋さんに出かけることにした。その時間がやってくるまで、黄色ラッションペンを紙面に走らせた。



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by hosokawatry | 2007-03-12 00:22 | ブログ小説・あの蒼い夏に