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あの蒼い夏に 〜チラシづくりの青春・12〜



                    12



 僕は白のボタンダウンシャツとクリーム色の綿パンを、身につけたまま寝込んでしまったことを後悔した。汗を吸い込んだシャツと綿パンが、静電気を帯びた化繊のようにしつこく身体にまとわりつく。身体がべたべたして気持ちが悪かった。喉が渇く。ウイスキーとタバコが混ざって変化した味に、口の中の嫌悪感も一緒に目覚めた。かすみからの手紙を読むためベッドに横たわっただけなのに、気がつくともう外は明るかった。目覚まし時計の短針はすでに文字盤の6を越えてしまっている。大切な時間を誰かに盗まれたような気がした。

 僕は声帯を無くした朝の鶏のように、心に泡立つ悔しさを表現できなかった。うんざりした気分でベッドを降りた。こんな気分には、神様は上機嫌でさいころを振ってくれるわけがない。リフレッシュしなくてはと思い直した。
 床に落ちていた便箋を拾い封筒に仕舞った。かすみのくるくる良く動く目と小さくて上を向いた鼻が浮かんでは消えた。
 僕は急いで服を脱ぎ捨てシャワーを浴び、今朝は食事の前に歯を磨いた。少しだけ気分が戻った。
 ドリップでコーヒーをたて、飲みながらトーストを焼いた。コーヒーの香りにパンの焼けた香ばしい匂いが混じり、広がり、部屋の王様になった。酸味のあるキリマンジャロをほんの少しすする。トーストしたパンにバターと辛子を塗り、ロースハムとスライストマトを乗せた。丸くなっているレタスの葉を両手で「パン」と叩いてその上に置いた。平たくなったレタスに黒粒こしょうと塩をふり、マヨネーズをかけ、もう一枚のトーストで挟み完成する。しかし、いつだってコーヒーはサンドイッチが出来上がる頃にはもうカップの底をついてしまう。僕の朝食にはいつもカップ二杯半のコーヒーが必要だった。
 最後のコーヒーを飲み干す頃には、自己嫌悪に満ちた最悪な気分からは解放されていた。

 FMのスイッチを入れた。ABBAのダンシング・クイーンがすぐに終わると、4オクターブの歌姫が「ラビング・ユー」を歌いはじめた。晴れたバレンタインデーの朝の方がお似合いだと思うが、七月十四日の朝にもラ・ラ・ラ・ラ・ラと爽やかにフィットした。新聞は今日の梅雨明けを予想している。そう言えばなんだか空が明るいし、湿度も下がっているようで良い兆しを感じる。そうこなくっちゃ。気分はもう100%を超えかけている。
 ベランダの外を眺めると、茶色のトラ猫がテニスコートの端をゆっくりと歩いていた。実家で飼っている雑種の猫「しぶ」によく似ていた。僕は猫を見ると幸せになれる。いい予感がした。気分は上々、120%を指している。気分をすぐに変えることが出来るのはシンプルな精神構造のせいに違いない。今朝は仕事をしなかった目覚まし時計から出勤の時間を告げられ、パタパタと西日本新聞を畳んだ。

 目覚めは最悪だったけど、結局僕はいつもより幸せな気分でアパートの鍵を回すことができた。
 バス停までの途中、いつものようにレンガ塀の家の前で足を止め2階の窓を見上げた。今日も女の子は待ち構えていた。僕は素早く今週3度目のチンパンジーになった。
 昨日の彼女は「い〜っ」という顔だったが、今日は「べ〜っ」という顔をした。ガラスの向こうで精一杯、舌を出している。僕は女の子に向かい、初めておはようと声をかけた。チンパンジーに声をかけられた女の子は瞬間、驚き、戸惑ったような表情を見せると同時に、窓ガラスからさっと姿を消した。そのまま立ち止まって窓を眺めていると、女の子はすぐに戻って来て、スケッチブックを開いた。人間の顔に似ているチンパンジーの顔がクレパスで描いてあった。
 そのチンパンジーの顔の絵はジョージ・ハリスンには似ていないので、当然僕には似ていない。僕は女の子のためにもう一度チンパンジーの顔を作った。クスクスと笑いながら二人連れの女子高生が横を通り過ぎていった。門扉から覗く赤いバラの花も笑って揺れた。

 今日も君の勝ちだ。

 途中、天神岩田屋前のバス停で、よろよろとおばあさんがバスに乗り込んで来た。朝の通勤ラッシュの時間帯におばあさんの姿は珍しい。車内は当然混んでいた。そのおばあさんに気づいた男子高校生が席を譲るために立ち上がろうとした。その高校生は部活で骨を折ったのか、腕をギブスで固めている。
 その瞬間 「俺が代ろう」とよく通る低い声がした。

 高校生より早く立ち上がろうと、急いで立ち上がったのは小柄だがパンチパーマ姿の怖い顔のお兄さんだった。シャツの下に入れ墨が見える。ちょうどその時、急ブレーキがかかりガクンとバスが大きく揺れた。立ち上がったばかりのお兄さんは大きくバランスを乱してしまった。
 お兄さんは一番近い人に、木に抱きつくような格好で咄嗟にしがみついてしまった。一番近くでつり革を握っていたのは大柄なOLだった。その女性は咄嗟の出来事にも声を上げることなく、パンチパーマの蝉にもひるむことなく、大きな楠のように堂々と立っていた。開いている窓からは明治通の街路樹にとまっている蝉の声がとびこんでくる。
 顔を赤くしたお兄さんは女性からさっと離れると、「こら〜、ちゃんと運転せんかい。年寄りとか怪我人が乗っとるとゾ。え〜っ、分かっとるとか」と運転手に怒鳴った。
 
 「あんた、見かけと違ってずいぶんいい男やね」とおばあさんがぼそりと言った。恐い顔のお兄さんはまた顔を赤くして、ボリボリと頭を掻いた。

 そのお兄さんは肩をいからせ、運転手を睨みながら中洲でバスを降りた。バスを降りても衣紋掛けが左右に揺れるように歩く後ろ姿が目に入った。少し恐い顔だったけど、僕はすぐに顔を赤くするお兄さんを好ましいと思った。正直者だ。人間がなくしてはいけないものを持っている。
 僕はその後ひとつ先の川端で降りた。かすみが手紙に書いていたピザがおいしい「エル・クレハ」の前を抜け、ポン酢で食べるもつ鍋屋「もつ幸」の先を冷泉公園に向かって道路を横断した。土居町通りの舗道沿いには提灯が並んでいる。提灯は追い山を迎える興奮を抑えながら、風にゆっくりと揺れていた。伝統は慌てない。



 朝礼で野瀬課長がアマゾン川流域の集落に靴を売りにいった二人のセールスマンの話をした。一人のセールスマンは、地域住民は靴を履く習慣がないからセールスは上手くいかないと思った。しかしもう一人は住民全員が靴を履いていないので、大きなチャンスだと思ったそうだ。 この話は有名な話だし解説はしないが、物事は前向きにとらえるようにと課長は大きな声で喋った。
 朝礼の後、永野さんに「今日夕方から恵屋年末年始の合同チラシの打ち合わせをしないか」と声をかけられた。僕はまだコンセプトもまとめていなかったので、来週の方がいいと希望を言った。



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by hosokawatry | 2007-02-12 19:54 | ブログ小説・あの蒼い夏に

あの蒼い夏に 〜チラシづくりの青春・11〜




                    11

  
 洋封筒の裏に小さく「かすみ」と名前が書いてあった。封止めに涙を流しているピエロのシールが貼られている。僕は手紙と鍵を机の上に置き、首にかけていたネクタイを衣装ロッカーに仕舞った。夏の間は帰宅すると最初にシャワーを浴びるのだが、涙を流しているピエロのシールが優先順位を狂わせた。

 僕はアルバムジャケットからLPレコードを抜き出し、針を落とした。すぐにヘレン・メリルのハスキーな歌声が流れ始め、部屋はニューヨークのため息で満たされた。

 製氷皿から氷を取り出し、1オンスのホワイト・ウイスキーをロックグラスに注いだ。そしてグラスの中を人差し指で時計回りに3回転したところで止めた。
 アルコール度が40度を少し下回ったホワイトを一口すすり、机の端にグラスを置いた。コトッと音を立てたグラスはすぐに曇り始めた。4時間前まで降り続いていた雨は、今日も部屋の中に湿気を置き忘れていってしまっている。アンプのボリュームを絞り、そのありがたくない忘れものを外に放り出すためにベランダのガラス戸を開けた。
 しようがない天気ね、とヘレン・メリルが歌ったような気がした。僕は生まれたばかりの7月13日にむかってふぅ〜っと抗議のため息をついた。しかし抗議はすぐに却下され、夜空に飲込まれては虚しく消えた。
 暑い、蒸し暑い。

 僕は封筒の中の手紙を切らないように慎重にハサミを入れた。



こんばんは、河村クン。

なかなか会えなくて、ついに手紙なんか書くはめになってしまったようです。
というのは、一昨日の夜も昨日の夜も何度も何度もTELしたんだけど、
河村クンはいなかったし。クスン(涙)。
それにもめげずに、今日こそは絶対に連絡しなくてはと思い、
滅多に握ることのない「重い?(想いがこもったもんだぞ)ペン」を握りました。
ふ〜。

あまり文章が上手くないので、手紙書くことは好きではないけど
連絡の方法が他にないので…しかたないのだ。
バカボンのパパみたいだけど。

ところで、この前、河村クンが言った「追い山」を徹夜で見る話、憶えていますか?
ワタシはその7月14日をず〜っと心に抱えていたんです。

実はやっとの思いで、夜の外出を認めてもらえたのです、ジャ〜ン。
なんとワタシは生まれて初めて父を説得することが出来たんです。
東京の大学に通ってる親友が夏休みで帰って来てて、学生生活も最後だし
ぜひ一緒に追い山を見たいと言って来たと…、ウソついて。
河村クンには分からないかもしれないけど、けっこうスリルあるのよ、
警察官の親をだますのって。
…本当に大変なんだから。
石頭の警察官を父親にさえ持たなかったら、21才の私の人生も
もっと、もっと変わっていたと思うのだけど。

まあ、親へのグチはそこまでにして、本題、本題。

バイトの花屋さんも次の日は出なくていい日だし、
あさって未明の「追い山」、一緒に見ませんか?
屋台でお酒飲んで、手をつないで博多祇園山笠のクライマックス見て。
河村クンは翌日仕事だけど、大丈夫よね。
「僕はこう見えてもけっこう強いんだ」って、よく言ってるし。

ワタシ、 エル・クレハのピザもいいけど、屋台で焼き鳥とかラーメンとかも食べたいし、
とにかくスゴく楽しみなんだけど…。
明日の夜、河村クンが時間とれることに賭けています。

明日の午前中は花屋さんにいますから、絶対にTELください。
待ってます。
河村クンは平日の夜、偶然にデートができたときに
「神様がさいころの振り方を間違えただけだよ」って言ったことがあったけど、
また、神様に同じさいころの振り方をリクエストしなくっちゃ!
同じ目が出ますようにって。

いい返事くれるといいな。

いつも、遅くまで頑張り過ぎて、大切なもの(?)をなくさないように気をつけましょうね。
余計なことかな、へへっ、ごめんなさい。                 かすみ

GOOD NIGHT 



 封を止めていたシールの涙を流しているピエロには心配させられたが、それは杞憂に終わった。しかしかすみは明らかに「あるサイン」を送っていた。彼女が僕からの連絡不足に怒っていることを感じることが出来た。全てを仕事の忙しさのせいにしている僕への抗議がピエロの涙だったのだ。彼女からのサインを見逃さなかったことに安堵した。
 ボーンヘッドはいつだって後ろに破滅という大物を連れて歩いている。チラシの「ゼロ」をひとつ抜かしただけで、身の回りのすべてが腰を抜かして仰天することを体験したばかりだった。間違いは許されないし、「あるサイン」が発するメッセージも絶対に見逃せない。今、その学習効果は僕の中で間違いなく発揮されたのだ。
 ホッとしながらもう一度文末に目をやると、「大切なもの(?)をなくさないように気をつけましょうね」という口を尖らせたフレーズが今度は可愛く迫って来た。

 ホワイトの入ったグラスをゆっくりと傾けた。ウイスキーをこれまでになく美味しく感じた。僕はタバコに火を付け、思いっきり吸い込んだ煙を細く長く吐き出した。もう一度思いっきり吸うと、タバコの巻き紙がチリチリと快活な音を立てて燃えながら笑った。


 もちろん明日の夜の神様には、またさいころの振り方を間違えてもらうつもりだ。


 僕はベッドに寝転がり、封筒に一度しまった便せんを取り出しては幾度も目を通した。そして暗記できるほどに読み重ねた便せんを顔の上に乗せて、デートのイメージトレーニングを続けた。イメトレ3回目を終える頃には、アルコールが送りつけた睡魔が僕の五感にベールを掛け始めていた。想像に疲れた僕の意識は、次第に色を失いはじめた。風のない夜の重さをまぶたに感じながら、ゆっくりと幸せな眠りに落ちていった。

 LPレコードのB面を走り終わったオートリターンの針は、僕の眠りを追うようにそっと盤面を離れ、ヘレン・メリルは静かにドレスの裾をひるがえした。
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by hosokawatry | 2007-01-19 01:36 | ブログ小説・あの蒼い夏に

あの蒼い夏に 〜チラシづくりの青春・10〜




                    10


 これまで僕たちは冷泉公園横の屋台を良く利用した。いつも、3軒並んでいる中の「晴照」のノレンをくぐった。深夜に仕事が終わった後は、空かした腹を抱えて直行した。屋台の長椅子に座り込むと、胃袋を満たしながら心に鬱積したものを追い払い、ヒートアップした脳味噌の熱を冷ました。僕たちは必ずおでんを食べ、ホルモン焼きを噛み締め、ビールと焼酎をぐいぐい流し込んだ。そして最後には必ず豚骨ラーメンすすった。ラーメンを食べる頃になると、お客さんを連れた中洲のお姐さんたちが顔をよく覗かせた。「へぇ〜、さっきまで仕事してたの? 感心だわね」と純粋にエールをおくってくれたりした。
 休日前ははしご酒の締めくくりに、屋台をたたむまで飲み続けた。夜明けが早い夏場は白じむ空の下、千鳥足で彷徨いながら帰宅のタクシーを探した。
 勘定を済ます時にはよく「今日の気持ちは晴れたね?」と「晴照」の大将は僕に訊ねた。勤労精神が旺盛な僕や仲間たちを気遣ってくれる言葉だった。


 今夜の「晴照」は雨の中だった。普通、強く雨が降る日には屋台は出ないが、今日は3軒のうち2軒が営業していた。僕は「晴照」と白抜きにされたオレンジ色のノレンを分け、傘をたたみながら中に入った。

「開いてて良かった。雨だったので、少し心配しました」と僕は言った
「やあ、衆ちゃんかい、いらっしゃい。今日はあんたンために開けとったようなもんタイ。客はさっき来とった『前ちゃん』ぐらいのもんやね」
 僕を名前で呼んでくれるのが三ツ谷さんと晴照の大将の二人だ。三ツ谷さんに最初に連れて来られた時に、衆也と言う名前を大将に教えたら、それ以来「衆ちゃん」と呼んでくれている。先ほど顔を出したという、今年入社してきた営業の前田も「晴照」のファンだ。独身寮に帰る前にときどき立ち寄るという話を聞いたことがある。性格が素直なところが受け、得意先だけではなく屋台の大将や女将さんにも三ツ谷さん同様、人気がある。

「夕方近くまで、雨降っとらんやったし、今夜はさっと降って、さっと上がると思うたから、店を開けたとに」と、大将は首をひねるしぐさをした。そして「雨ん中でも『晴照』が店を開けとるとも格好良かろう? 嵐の中の灯台タイ。暗い中でも希望が湧くやろうが」と負け惜しみを言った。「ところで、仕事は終わったとね?」
「いいえ、これから第2ラウンドです」
「大変やね、いつも」と言って、大将はつめたい水が入ったコップを差し出した。

 僕は勢いよくラーメンをすすって、ネクタイを緩めながら白濁したスープを飲んだ。大将の気合いに負けたのか、食べている途中に雨は勢いをなくし、いつの間にか屋台を叩く音が小さくなった。
「この調子やったら、すぐに雨は上がるバイ」腕を組んで外の冷泉公園を眺めていた大将が言った。「朝の来ない夜はない。降り止まん雨はなかとバイ。ハハハ、俺の勝ちタイ」

 僕はポケットの中の小銭を探った後、おでんの持ち帰りを大将に頼んだ。夏のおでんも結構旨いし、捨てたものじゃない。人の心は、夏だって温かさを求めることが多い。僕はアルバイトの若い女性たちが夕食をとらないで仕事を続けているのを知っている。
 大将は持ち帰り容器におでんを詰めてくれた。そのおでんの量は有り合わせの小銭の能力を軽く超えていた。
「こぼさんようにね」
「大将、ありがとうございます。いつもすみません」と僕は言った。
「いい男やね、あんたは」と大将は小さく呟いた。

 アルバイトの米田さんの笑顔が頭に浮かんだ。喜んでくれることが嬉しい。一緒に仕事をするという意味を僕はつかみかけていたのかもしれない。
 温かいおでんを手に持ったまま赤信号で僕は立ち止まった。
「衆ちゃん、傘忘れとるバ〜イ」と屋台から大将の声が聞こえた。
 大将が言ったように雨は上がってしまった。屋台「晴照」の灯りの前で大柄なシルエットが傘を振っている。電線から雫がぽたりと垂れて、僕の頬を触った。雫はもう冷たくはなかった。


「わ〜、おでんだ。ありがとう」と3人の女性アルバイトの顔がぱっと明るくなった。
「うれし〜、餅巾着が入ってる。7月のおでんもいいわね」と米田さんが言った。「けど、あまり無理しないでくださいね。河村さん、先週も牛丼ジャンケン負けてたし」


 若い僕たちはジェットストリームがラジオから流れる頃になると、夜食・夜食と騒ぎ出す。牛丼ジャンケンが始まったのは去年の冬が最初だった。寒いし出かけるのが面倒だからと、上川端商店街そばの牛丼買い出しを決めるためにジャンケンをした。10人分にもなる牛丼とみそ汁を抱えて、みそ汁が溢れないように持って帰るのは、けっこう骨が折れることだった。みんな負けたくなかったが、誰か必ず一人が犠牲者になった。雨の日、風の日、雪の日にはジャンケンの声がいっそう大きくなり、真剣味が増した。深夜の職場の空きスペースで、大勢が丸くなってジャンケンをしている会社を見つけ出すのは難しいはずだ。僕の会社以外では。

 それに若さは次々に賭けをエスカレートさせた。気がつけば、10人分以上の牛丼セット代をジャンケンで負けた人が一人で払うようになっていた。もちろん、買い出しもその人間が行く。ジャンケンをするその瞬間は先輩も後輩もなくなる。繁忙期を迎えると、まるで、ジェームス・ディーンの理由なき反抗に出てくるチキンゲームのような、ハラハラ、ドキドキの日が続く。
 勝てば牛丼一杯をただで食べることが出来るが、負けたら10数杯の牛丼代を負担しなければならない。負ける確立の方が低いとはいえ、買った喜びより負けた悔しさの方が格段に大きい。割の合わない勝負に思えることもある。しかし、怖いけれど男の勇気に関するプライドが棄権を許してくれなかった。

 負けた時は涙が出そうなくらいに悔しい。10万円にも満たない給料の中から、時には4〜5千円が一瞬にして消えていくからだ。先週、僕は最後の3人の勝負で「チョキ」を出した。残りの二人は固く拳を握りしめていた。力が入りすぎた人は「グー」を出すことが多いということを、瞬間忘れていた。僕は「チョキ」をののしり、自分のふがいなさを呪った。



「大丈夫だよ。今日もおまけしてくれたんだ。『晴照』の大将が素敵な女性たちによろしくだって」
「今度、お給料出たら河村さんたちと一緒に行っていい?」
「大将が喜ぶだろうな、若い娘が行けば」と僕は大将の鼻の下の長さを思い浮かべた。

 席に帰ると青焼き校正用紙が机の上に置いてあった。僕が担当する花村店の来週売り出しチラシの印刷前最終チェック用紙だった。僕たちが苦労して作った版下は、印刷にまわる前に製版という工程を踏む。製版は簡単に言えば、版下を撮影してフィルムにする工程だ。この出来上がった製版フィルムに間違いがないかどうかチェックする用紙が「青焼き」とか「アイ焼き」とか呼ばれる用紙だった。
 訂正がきくのは、この青焼きチェックが最後だった。ここでミスを見逃すと、間違えたまま印刷物になってしまうのでとても気を使うチェックになる。野瀬課長の「間違わんでくれ、たのむわ」と言い続ける声が頭に貼り付いている。僕はチラシに掲載されているTシャツや牛サーロインステーキの文字や値段、そして商品の写真を黄色のマーカーで塗りつぶしてチェックしていった。
 最後に売り出し日の確認や花村店の店名ロゴチェックを終わり、紙面の端にサインをした。

 それから、例の8月いっぱいで作り上げるように言われている「年末年始合同チラシ」の表現案作成に取りかかった。アイデアをいくつか書き留めたものの、納得のいくものが思いつかなかった。コピー年鑑を眺めたり家庭画報や太陽、アンアン、そして昨年発刊されたポパイにまでヒントを求めた。最終バスの時間まで粘ったが、頭の中のフィラメントに点灯することはなかった。本当は、ヒントが隠されているのに、見つけ出すことが出来なかっただけなのかもしれない。僕は力なくノートを閉じ、午前様になる先輩にあいさつをして会社を出た。最終バスにまで急かされる。外したネクタイを手に持ち、ところどころに水たまりのある舗道をよけながらバス停まで走った。



僕は深夜のアパートのドアを静かに閉めた。灯りのスイッチをいれると、新聞受けに切手の貼られていない一通の手紙が入っているのが見えた。
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by hosokawatry | 2006-12-18 01:39 | ブログ小説・あの蒼い夏に

あの蒼い夏に 〜チラシづくりの青春・9〜


                    9


                    *

 新聞折り込み広告は、まだカラー印刷が少ない。チラシの制作コストと製版・印刷のコストが高く、どの企業も簡単にカラーのチラシに手が出せなかったからだ。1色印刷・2色印刷が主流で、写真はもちろんモノクロだ。スーパーのチラシも有名なナショナルチェーン以外はカラーではなかった。唯一、オープン記念セールや年に一度の周年感謝セールだけがカラーのチラシだという企業が多い。もちろん恵屋もそのパターンだった。

 僕の会社の組織は大きく分けると、営業と企画という2つの部署で構成されていた。チラシ作りが仕事の大半を占めたので、僕たちは自分たちのことを「企画担当」というより「制作担当」と呼んだ。メインの得意先であるスーパーやショッピングセンターは毎週チラシを作るので、まず、その原稿入手と打ち合わせのために営業が得意先の店に出向く。ビッグセールや特殊なセールの場合には、僕たち企画の人間も一緒に出かけた。

 売り出し商品名・特長・値段・限定数量などが書かれた原稿を、その店の店長やフロア長とチェックしながら、チラシのレイアウトや商品訴求のポイントを打ち合わせる。今週は夏物ワンピールをメインで打ち出すとか、日替わり目玉品はTシャツだから目立つように、食品は卵を一番上に配置するとか、そういった打ち合わせだ。

 営業が持ち帰った原稿用紙と打ち合わせ内容をもとに、僕たちはレイアウト用紙に全容をペンでスケッチする。紙面のどの場所にどの商品を配置するかを書き込み、その大きさも指定する。書き上がったものはチラシの設計図となり、それをもとに写植屋が写植文字を打ち上げ、カメラマンは売り出し商品の撮影に走る。

 僕たちは打ち上がってきた写植の印画紙の裏にラバーセメントという糊をつけ、文字の固まりごとにデザインカッターで切り離した。ピンセットでそれらの写植文字を、あらかじめ「カラス口」や製図ペンの「ロットリング」で罫線が書き込まれている台紙に貼り込んでいく。貼り込まれたものが文字版となった。

 その台紙の上に透明のフィルムをかけ、写真を貼り込んで写真版を作った。モノクロ写真は、その印画紙に写り込んだ商品のカタチ通りにハサミやデザインカッターで切り抜き、両面テープで貼り込んだ。僕はバナナや葉っぱの付いたパイナップル、そして卵の10個入りパックなど、複雑なカタチの切り抜きが苦手だった。いつもアルバイトの米田さんに手伝ってもらった。「黒くてでかい裁縫バサミ」を操るコピーライターというのも、何か変だし怪しい感じがするが、みんなやっていたから文句は言えない。

 紙面作りは空間バランスやデザイン感覚も試された。グラフィックデザイナーの華やかな仕事の領域だ。しかし、出来上がりの印刷物に比べ、印刷前の版下制作はとても地味だった。それは十分の一の美しい表面を支える水面下の氷山であり、その姿からは想像できない水面下で激しく動く水鳥の足でもあった。

 版下に罫線や図形を書き込む作業には精度が求められ、1ミリ間隔の中に10本もの線を引けなければ一人前のデザイナーではないとまで言われた。誰でもがそのテクニックを身につけられるほど、簡単ではなかった。年季が必要だった。美しい罫線を引く職人技には拍手が贈られ、賞賛の声が降り注いだ。

 僕は芸術学部やデザインスクール出身ではないので、線引きのテクニックなど持ち合わせてはいなかった。コピーライターだからやることは他にもある。というより、むしろ、版下作業以外に力を注がなければいけない職種だ。デザイナーやアルバイトの人にお願いして、綺麗な線を引いてもらっていた。そうやって、ひとつの版下が完成するまでには、数多くの人手が必要だった。
 そんな版下だから、レイアウトのスペース変更になると、徒労に終わった無力感と絶望感に支配されてしまう。自分の手間もたいへんだけど、版下に関わる全ての人が再度、時間と労力を工面しなくてはならないのだ。とても短い時間内で。
 版下の全面変更には、夜がストップウォッチを握りしめて待っている。だから僕たちは、完成間近のジグソーパズルを猫が壊した時のように、寛大な気持ちになどなれるはずはなかった。ワタリ係長のように「ア〜カ、ア〜カ、真っ赤っか」と大きな声で歌いたくもなる。

                    *


 カメラマンが撮影した写真を現像し、プリントしてくれるのが小林写真場だった。そして、繁忙期には深夜の注文にも快く応えてくれたのが富士さんだった。
「今回の分は少しアンダー目に焼き上げました」と言って、富士さんは僕に写真の紙焼きを手渡してくれた。緊急に社員が撮影した露出不足や露出オーバーのネガからも、最適な濃淡の調子を見つけ出し、手を加えて印画してくれた。「正月以外でも富士さんからは後光がさすバイ」と三ツ谷さんが言ったことがあった。日本国家同様、僕にとっても富士さんの存在は頼もしかった。
 
 
 モノクロ写真を受けとり、会社に帰り着くと同時に大粒の雨が降り出した。受付担当の事務の女性、山口さんが僕に一件電話があったことを教えてくれた。ステップ写植の佐里君からだった。
 僕は山口さんにありがとうと言って3階に駆け上がった。自分の席に帰るとすぐに内線電話が鳴った。僕は内線音に素早く反応した。
「三ツ谷さんに恵屋の宮崎店から電話が入っています。3番です。」と山口さんから電話取継ぎの声が聞こえた。

「ウルトラマンさん、宮崎店から電話です。3番です」と僕は言った。
三ツ谷さんはすっと立ち上がり、自分の席の電話機に手を伸ばしてガッシと掴み、天井に向かい腕を突き上げて言い放った。

「ジュワッキ」

 藤木女史が顔を上げて、また冗談言ってるわ、と今週2回目のギャグに応えてくれた。竹田さんもその絶妙さに笑っている。野瀬課長は「また、三ツ谷のやつしょうもないこと言うてるわ」という顔をした。永野さんは反応を見せずにスケッチに専念している。上の句を詠めば下の句に反応してくれる三ツ谷さんは、会社の貴重なムードメーカーでもあった。しかし会社はムードメーカー料を三ツ谷さんには支払っていない。



 僕はステップ写植に電話して、佐里君を出してもらった。
「電話くれたんだって?」
「はい、さっき」と佐里君は小さな声で言った。「すみません、テレビの値段の件」

「ああ、分かりました。大変でしょうけど頑張ってください。また、夜にでもこちらから電話します」と僕は大きな声で遮って、すぐに受話器を置いた。佐里君との話の内容を周りに聞かれたくなかったのだ。

 午後8時頃にやっと仕事が一段落した。僕は「晩飯食ってきます」と周りに告げて外に出た。粒の大きい雨は、まだ降り続いていた。冷泉公園の角の電話ボックスに入り、ステップ写植に電話を入れた。
「先ほどは悪かったね、すぐに切ってしまって。他の人に聞かれたくなかったんだ」
「はっ?」と、か細い声が聞こえた。
「全ては、問題なく片付いたから大丈夫だよ、もう」と僕はいつもよりゆっくりと明るい声で言った。
「早く謝らなくてはと思っていたんです。本当です」
「いいんだよ、佐里君の気持ちはよく分かっているから。ところで、また今度暇な時にでも一杯飲みに行こう」
「ありがとうございます」と、白くて細い身体を持ち、少年の面影を宿す20才の佐里君は言った。「何回もやってしまって…」
 僕には佐里君の受話器を握りしめている力が想像できた。

 僕は電話ボックスを出ると、そのまま冷泉公園を横切って急ぎ足で屋台に向かった。春を明るく楽しませてくれた桜の枝が雨に打たれて騒がしい。照度不足の街路灯が雨筋を忙しく数えている。飛び跳ねる雨に綿パンの裾は濡れて色を変え、靴下まで染みはじめていた。夏の雨なのになぜか冷たく感じた。
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by hosokawatry | 2006-12-10 13:26 | ブログ小説・あの蒼い夏に

あの蒼い夏に 〜チラシづくりの青春・8〜




                   8


 ふたつ目の議題だった「年末と年始の恵屋合同チラシ」の競合プレゼンには、社内コンペで勝った作品を持って行くことに決まった。社内の制作グループを5つのチームに分け、それぞれのチームが2案ずつ提出することになる。勝ったチームのために賞金も出ることになった。どうやら支店長のポケットマネーから出る賞金のようだ。

 社内に競争原理を持ち込むやり方に異存はなかった。負けたくない気持ちに火がつく。やる気を出させてくれる。ただ、手持ちの仕事量の多さを考えると少しばかり気が重いのも事実だ。当然、腰が引け気味のデザイナーやコピーライターもいる。
 しかし23才の僕や笠木君を含め、平均年齢26.7才の多くの制作マンたちは、けっして怠け者でも意気地のない人間でもなかった。一部を除いては、午後10時前に退社のタイムカードを押すことはなかった。それでも純粋に「いいもの」を作ろうと、みな目を輝かしていた。
 睡眠不足の脳を振り絞りデザインし、コピーを書き、大幅変更や誤植と戦っていた。そしてこの負けられない競合プレゼン。その精神的、肉体的負担は、夏休み最終日に3週間分の日記の空欄を埋めた、あの遠い日の記憶にも似ている。すでに頭の中では、ポールマッカートニーがロング・アンド・ワインディングロードを歌い始めていた。

 効かないエアコンと深夜のFM。「夜のしじまに…」で始まる城達也のナレーションが恋人になる。仕事後の屋台通いと翌朝の遅刻との戦い。これからしばらくの間、僕たちはさらに深く夜と付き合うことになる。そして夜の闇は「付合ってあげたわ」と、融通の利かないコールガールのようにキチンと見返りを要求してくるだろう。竹田さんの前髪に狙いをつけた時のように。

 そんな夜の闇に向かって、僕たちは若さ以外に差し出すものなど、何も持ってはいなかった。

 競合の広告代理店や印刷会社にプレゼンテーションで勝つのは、制作者としては大変な名誉だ。しかし営業面で考えると、売り上げとして貢献できる側面のほうが断然大きかった。年末や年始の合同チラシはそれひとつで、単独店の30回分のチラシ売り上げに匹敵した。一枚のチラシを作るだけで大きな売り上げを達成できるのだ。
 一攫千金のような効率の良さに、普段はチラシに手を出さない電広堂のような大手の広告代理店も、この時ばかりはと身を乗り出してくる。命運を抱えた様々な会社のゴールドラッシュが始まる。だが、チラシ作りを大きな柱にしている会社がチラシ媒体で負けるわけにはいかなかった。いいところ取りだけはさせたくなかった。特に、僕たちは昨年、年末合同も年始の合同チラシも電広堂に持っていかれた苦い経験をしたばかりだった。ボーナスも前年を少し割り込んだし、面白くなかった。

 ワタリ係長はミーティングの最後に、独断で3人構成のチーム編成を5組発表した。僕は三ツ谷さんと永野さんの二人のデザイナーと組むことになった。三ツ谷さんと永野さんはあまりしっくりいっていない。仲が良くないといった方が正しかった。ドライな性格で自分本位の仕事観を持つ永野さんと、仲間とのリレーションシップを大切にする三ツ谷さんは正反対の位置にあった。180度の性格の違い。カラーサークルのグリーンとレッド。横に並ぶとコントラストが強すぎてギラつく、補色の関係。
 笠木君が心配そうに僕を見た。僕は片方の眉を上げ、首を左右に振りながら目でサインを返した。少しばかり厄介な状況を招くかもしれない。ワタリ係長は僕の心配に気を留めること無く、それじゃ頑張ってくれと皆に声をかけた。

 ミーティングルームの窓にかかる緩んだブラインドが、不規則で弱い光のまだら模様を作っている。皆が出て行った部屋で、僕はそっとブラインドを押し上げた。いつの間にか晴れ渡っていた蒼い夏空に、黒い雲が広がり始めている。強い雨脚と落雷の予感。梅雨は依然として明けていない。
 「帰りはまた雨だわ」と事務の藤木女史は黒板の文字を消しながらポツリと言った。


 その日の午後、僕はチラシに使うモノクロ写真の紙焼きを、小林写真場に受け取りにいくため外に出た。明治通りには人が溢れていた。集団山見せが始まろうとしている。今日の舁き山は呉服町から期間中唯一、博多の町を離れて福岡部まで舁き入る。雲に遮られるようになった日射しは弱くなったが、蒸し暑さは変わらない。玉屋百貨店が正面に見える。僕はネクタイを緩め、見物客をよけながら中洲大橋の手前を下流方向に曲がった。そして川沿いを海に向かって歩いた。
 バレンタインデーのお返しにと、石村萬盛堂がマシュマロ・デーを発案したのは確か今年の春だった。僕は安売りをしないセールスプロモーションの理想像をそこに感じた。
 僕が恵屋に昨冬提案した、おでんコーナーの「でんグルメ・デー」作戦よりも100倍くらい洒落ていた。
 日曜日の夜はいつも頑張ってくれている母親に料理を休んでもらおうと、父親や子供でも簡単に作れるおでん材料の徳用セット販売を考えた。増量おでんネタと出汁のセットにおでん鍋が当たる応募シールを付けた。出汁を作るメーカーとのタイアップ企画としたが、恵屋本部の販促会議で没になった。
「でんグルメか、名前だけは面白いな」と久留米出身の販促部長が言ったと聞かされた。僕にはまだまだ修行が必要だった。小林写真場はホワイトデーの歴史を塗り替えることになるそのお菓子屋を越えて、さらに昭和通りを渡り、2、3分海に向かって歩いたところにあった。

 僕は小林写真場のガラスドアを開けて中に入った。現像液や定着液の刺激臭が充満している。ドアの開閉音と人の気配に、僕が声をかける前に暗幕がさっと開かれた。
「ああ、いらっしゃい。紙焼き出来上がっていますよ」と暗幕から顔を出して冨士さんが言った。   
 富士さんはピアニストのチック・コリアに似ている。暗室の中でのモノクロ写真の紙焼き担当だ。陽に当たるチャンスが少ないのに何故だか肌黒い。しかし親しみ度は抜群だ。口はいつも笑っているというわけではないけど、目はいつだって優しい。フュージョンを演奏しているが心はジャズを欲しているミュージシャンのようだ。「社長にはまだ言ったことはないけど、本当は撮影がしたいんだ」と僕に心の奥を話してくれたことがあった。心を許せる人だ。笑顔は作るけど目が笑っていない湯浦さんとは決定的に人種が違った。湯浦さんは心がコンフュージョンしている。
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by hosokawatry | 2006-12-02 10:23 | ブログ小説・あの蒼い夏に

あの蒼い夏に 〜チラシづくりの青春・7〜



                   7


 笠木君はうわの空の国から帰還すると、僕のほうを向いて声のトーンを少し落とした。
「ノックするとトイレに鍵がかかっていたので、たぶんワタリさんはいつものように社員が使っていると思ったんだろ〜ね。『オラオラ、何やっとるの。早く出んかい』と言って、ドアノブをがちゃがちゃ引っ張ったんだって。それに、ばばばばーんと扉を叩いたらしいんよ」
「え〜っ、そりゃ、まずいよ」と僕は言った。
 2階のトイレが会社内では鍵の状態が一番安全だった。昼休みに「大」を放つことの多い若手男子社員は、その時間帯にこのトイレをよく利用していた。ワタリ係長はそれを知っていた。

「僕らがトイレに入っていたのなら、いいけど。いや、ほんとは良くはないけどね。何といってもトイレにの中でしゃがんでいたのは得意先の偉いさんだもんね。」と笠木君は言いながら、コーヒーに2杯グラニュー糖を入れて掻き混ぜた。
「得意先の人じゃなく、女性社員が入っていても大変だよ、そんなの」と僕は言った。
「相当激しくドアを叩いたけど、反応がないので、ワタリさんは諦めて鍵がぐらぐらしている3階のトイレに行ったって」
 笠木君はホイップクリームを2杯コーヒーに浮かべた後、舌の先でクリームをすくって舐めた。
「3階に上がる前に、『コラッ、お前が誰か分かっとるんや。えらい長いやんけ〜。ええ根性しとるの〜、笠木ちゃん』と僕の名前を呼んで、さらに2〜3回ドアノブをがちゃがちゃさせたという話なんよ」

言葉をなくしている僕に笠木君はさらに声をひそめて言った。
「しばらくしたら、じわ〜っとドアが開いて恵屋の販促部長がきょろきょろしながら出てきたらしいんよ。顔中汗ばんでいたんじゃないかって、藤木女史が言ってた。ハンカチをギュッと握りしめていたんだって」
 僕はタバコの火を消してコーヒーを一口飲んだ。
「冷や汗もんだね」と僕は言った。
「うん、取引に影響しなけりゃいいけどね」と笠木君はうなずいた。
「しかし、藤木さんも凄いね。それを全部見てたの?」
「商談室の灰皿と湯のみを新しいのに変えようと2階に上がったときに、全てを見たんだって。販促部長が出てきたときには、心臓が止まりそうだったって言ってた。それも商談室のドアの隙間から見えたらしいんよ。息を止めながらね」
「へ〜ぇ、なかなかやるね。007のロシアより愛をこめての女スパイ顔負けだね。しかし、良く教えてくれたね、笠木君に」
「なぜか僕には良くしゃべってくれるんよ」と言って、笠木君はコーヒーをグイと飲み干し、情報に疎い僕に向かって胸を張った。
「どういう関係?」
「はは、何にもないさ」と笠木君はすまし顔で答えた。
「しかし、ワタリさんも相当にストレス溜まってたんだろうね。新店オープンチラシで睡眠不足だったろうしイライラも極致だったのかな。普通は絶対にそこまではしないと思うけど」
「大丈夫かな?ワタリさんは。まさか狂ってしまったんじゃないだろうね。時々、人が変わったように見える時があるもんね。知らない人がみたら、怖いかも。河村も気をつけたほうがいいよ。結構頑張るタイプだから」
「ああ、狂わないようには気をつけるよ」と僕は答えた。「しかし、トイレの中に入ってるの、どうして笠木君だと思ったんだろうね?」

「その時間、僕がよく使っているんよ。でも、使ってるのは僕だけじゃないのに、何故僕だと思ったんだろう?」と笠木君も首をかしげた。
 
 人間的な優しい部分をたくさん持ったワタリ係長の輪郭が頭の中で大きく揺れた。きわめて真面目な性格と突然顔をのぞかせるやんちゃな性格。しかし得意先の販促部長のトイレタイムに、緊張感をプレゼントしたのだけはまずかった。
 心配になるほど面白い話が多い会社だ。竹田さんの独り言も多くなってきたとまわりの人は言うし、ワタリ係長もきっと苦労が多いんだろうなと思った瞬間、見覚えのある顔が現れ、笠木君の肩を後ろからポンと叩いた。
「それにしても笠木の声はいつも大きいなあ」と、ワタリ係長は僕たちに声をかけて、出口に向かった。笠木君は顔色をなくし固まってしまった。すこし蒼ざめている。
「そういうのを蒼い青春って言うんだ」と僕も笠木君の肩をそっと叩いた。
 クリスチナ・リンドバークがこちらにチラッと視線をよこした。そういえば、顔立ちもどこか日本人離れしている。喫茶店内のスペースインベーダーゲームの攻撃音はいつまでも鳴り止むことがなかった。


                    *


「じゃあ、永野案を採用して、社内校正を強化するためにバイトかパートを採用することにする。明日、支店長と課長に強く要望してみる。野瀬課長も文字チェックについては、人手が要るだろうなと言ってたし」とワタリ係長は静かに、しかしきっぱりとした態度で言った。

 僕はテレビの値段間違いの原因追及が、写植屋迄及ばなかったことにほっとした。

「高額品の値段だけは間違えちゃだめだって、課長がいつも言ってるじゃないか。原因は何なんだよ?」とデザイナーの永野さんからの僕への追及だけはしつこかった。しかしワタリ係長は「これから気をつけるように」と僕にしっかりと注意を与え、永野さんの声を制して、早めにピリオドを打ってくれた。そんな気遣いが嬉しかった。写植屋をかばう僕をガードしてくれたのだ。

 僕は今回、ワタリ係長に間違いの原因を全てきちんと報告していた。その直後に来社した写植屋の社長が汗を拭きながら、ワタリ係長に頭を下げていたのを僕は見ていた。結局、ミスの大きな原因がその写植屋の「内部の誰か」にあることを知ったのは、会社の中では僕以外ではワタリ係長だけとなる。野瀬制作課長への報告は細かいこと抜きの「写植屋のミス」で通した。しかし、チェックで見逃した僕の責任が一番大きいし、それは当然のことだった。
 秘密の共有を許してくれる上司が、僕の心の中で不思議で温かい存在感を示すようになった。しかし僕が知っていることで、どうしても話せなかったことがひとつあった。信頼できる上司であっても、どうしても…それだけは喋ることができなかった。

 恵屋は売り出しのその日、チラシの値段間違いに、何事もなかったように淡々と対応した。せっかく並んだお客様に悪いからと、結局その人気テレビを9,800円で売ってしまった。安売りされるとブランドイメージ維持に困るメーカーから待ったがかかるので、静かに、すばやく、制限台数表示の5台をきちっとさばいた。テレビ目当てで列を作って並んでいた残りの客には、頭を下げて帰ってもらった。僕と営業の湯浦さんは売り場で待機していたが、6人目以降に暴れる客もなく、ほっと胸を撫で下ろした。
「河村には、えらい目に遭わされるわ。しっかりしてくれな。お前ももう2年目なんやから。今度やったら減給もんやな」と湯浦さんは僕の頭をポンと叩いた。叩く手には妙に力がこもっていた。営業担当者最終チェックで自分が見逃したことには、一度も触れようとしなかった。自分のミスには寛容な人間だ。これからは「スイカとメロンはどっちが大きいとや?」と言う代わりに「テレビとラジカセはどっちが高いとや?」と、面白くもないことを僕に言うかもしれない。

 まったく、梅雨のミミズだ。湿っている。

 恵屋のしっかりした危機管理能力のおかげで、問題は大きくならないだろうと思った。しかし情報を仕入れた地元新聞社が、翌朝の社会面で地域ニュースとしてそのことを取り上げた。「5人が笑顔。チラシ間違いへ対応、恵屋」と大きな見出しで。「誰か新聞社に情報を回したんやろ。競合店のスマイル堂やな、ほんまに余計なことやで」と野瀬課長は眉をひそめた。
 記事の内容は意外に好意的な表現で、恵屋もうちの会社もそれ以上に肝を冷やすことはなかった。今回は大きな問題への発展はなさそうだが、決まり事だからと、恵屋の本部から花村店の店長を通じて、始末書提出の依頼が届いた。今度の間違いの件はうちの会社の責任であることを、書類の上で明確にさせられた。それもワタリ係長が何事もなかったように済ませてくれた。僕は心の中でその頼もしさと心の温かさに頭を下げた。

 最近は二人目の子供も出来たせいか、ワタリ係長は以前とは違った表情を見せるようになっていた。昔からワタリ係長を知る支店長や野瀬課長からは、やっと大人になってくれたという声も聞こえる。以前のワタリ係長には動揺や興奮がよく訪れ、そしてすぐに落ちこんだりと、精神の乱降下が激しかった。本来、真面目な人格はそのじっとしていない感情を押さえ込もうと、いつも汗をかきっぱなしのように思えた。きっと賑やか過ぎる自分の感情を持て余していたのだ。
 表面に現れる二面性を非難する先輩もいた。しかしそんな非難は青すぎる。人間の感情は一面に収まる程、簡単なものじゃない。人間は浮かれすぎた後は、誰だって静かに反省しなけりゃいけないように出来ている。多面性を操らなくては生きてはいけない。しかし信念だけはひとつにしたほうがいい。入社2年目の僕でもそれくらいは分かっているつもりだ。

 僕は、年下の営業担当に「ア〜カ、ア〜カ、真っ赤っか」と歌い続け、トイレのノブが壊れるくらいがちゃがちゃと回し続けるワタリ係長に、奇妙な親近感さえおぼえていた。
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by hosokawatry | 2006-11-25 10:45 | ブログ小説・あの蒼い夏に

あの蒼い夏に 〜チラシづくりの青春・6〜

                   
                      6


 笠木君は紙ナフキンで口を拭きながら、コーヒー飲む?と僕に目で訊ねた。そのまま視線を近くのウェイトレスに移し、Vサインでコーヒーを2杯注文した。そして、カウンターに戻って行くウェイトレスの方を振り返りながら「あの娘、胸大っきいなぁ」と言って「クリスチナ・リンドバークみたいやん」と呟いた。週刊プレイボーイ読者の笠木君は、この店で初めて見るウェィトレスの女の子に目を奪われた。
「日本の女の子も結構やるもんだね」と週刊誌愛読者は言った。
 僕も嫌いではなかったが、スウェーデンの若い肉体派女優に笠木君ほどの関心を寄せることはなかった。

                    *

 笠木君を語る時には、絶対にこのクリスチナが欠かせない。笠木君や僕が入社した年の冬、ということは数ヶ月前の話だった。博多の町も久しぶりの大寒波に見舞われ、その日の日中最高気温は0度をかろうじて越えた。台風並の強風に電線は鳴りやまず、飛び交う雪は視界を奪う。朝の凍り付いた路面は鈍く光り、街には緊張感が漂った。人は滑り、車は歩いて使命を忘れ、多くの経済活動が熱帯雨林のナマケモノのようにスピード感をなくした。日本を南下したシベリア寒気団は九州まですっぽりと包み込み、寒気は明朝まで居座るとニュースは告げていた。

 野瀬制作課長は事務の女性を午後3時に帰宅させた。暖房がほとんど効かなくなっていた会社で、僕は写真の紙焼きをはさみで切り抜いていたが、手が冷たくて効率が上がらなかった。指先が凍りそうだった。
 横殴りの雪は衰えることがなかった。午後4時をまわった頃、野瀬制作課長は「ほなもう、みんな帰ってや、こんな天気やし。仕事は寮に持って帰ってもかまへんから」と男たちにも言った。残りの仕事は明日にまわしてくれと言わないところがすごい。
 笠木君は「明日の朝も出勤が大変そうだし、今日は寮に泊まったら?グラスロッドのいい釣り竿が手に入ったんよ。見せてあげるよ?」と中呉服町にある独身寮に僕を誘った。

 独身寮は会社から歩いて5分、走ると2分の距離にあった。福岡都心部近くに立地する会社で、これほど通勤時間に恵まれた寮も珍しい。5分で歯磨き・洗顔・着替えを済ませる自信があれば、8時50分に目覚めてもほとんど遅刻せずに済む。退社時間が深夜になることが多い若い制作担当者には、これ以上嬉しいことはなかった。それでなくても若者の朝は限りなく眠い。朝、布団をはねのける前の1分間は人生の全ての時間を凌駕する。あのとろけるような甘美な瞬間、ウェットドリームだってかないっこない。

 独身寮は木造の古い建物なので廊下はギシギシと悲鳴を上げる。僕は初めて独身寮に上がったとき「君が噂に聞く『老化』だね」と廊下に向かって呟いたことを思い出す。乱れた銀髪の寮母が、料理の手を止めずに背中を見せたまま「バカをお言いでないよ」と静かに言った。この寮は空気にも耳がある。
 ティッシュのガサゴソという音が薄い壁の向こうに聞こえようが、嫌いなおかずが頻発する食事が続こうが、それでもみんなは「走れば2分の距離」の魅力にひれ伏した。

 今は空き部屋だが、その部屋では以前に夜な夜な坊さんのお化けが出没したという。そんな体験談を耳にするやいなや、 僕は入寮直後にもかかわらず寮を飛び出した。部屋代は格安の3,000円だったが仕方ない。後悔はしていない。「俺は金縛りにおうたばい」「僕はその部屋で坊さんに腰を押さえつけられたよ」「男の腰を押さえつけるとか、変な坊主がおるったいね?」「やな坊主だね。おかまかい?」「そういうたら、手つきが妙に優しかったばい」と、真剣に話す先輩たちの声に僕は震え、すぐに中央区地行のアパートを探し出したのだった。笠木君や独身の先輩たちの多くは、そんな鳥肌ものの独身寮に今も住んでいる。

 会社を出た僕と笠木君は積もった雪を慎重に踏み締めながら独身寮に向かった。幽霊の出ない笠木君の部屋だったらいいという条件で泊まることにしたのだ。雪の下の道路は凍結している。途中、大博通りの交差点の手前にあるタバコ屋に寄った。二人で煙草を買った後、笠木君はちらりと店内にある週刊誌に目をやった。表紙の見出しが笠木君を誘惑している。
「先、行っといてくれない?買うものがあるから」と笠木君は言った。

 僕はゆっくりと歩き出し、凍り付いた青信号の交差点を渡った。渡りきったところで青信号がカチカチと点滅を始めた。イヤな予感がした。振り返ると笠木君が何かを大切に胸に抱き、急ぎ足になっている。笠木君は黄色信号に変わったところで、横断歩道を渡り始めた。普段ならさっと渡れば問題はない交差点も、その日はスケートリンク状態で危険だった。暖かい地方で育った人間は、滑る地面になれていない。
 焦ってバランスを壊した笠木君はツルリと転倒してしまった。「わぁっ」と大きな声を上げた笠木君は足をスリップさせて、右脚を45度に上げたまま倒れ込み、腹を上に向けた状態でバンザイをしながら滑った。巨人の柴田選手のような見事なスライディングだった。雑誌らしいものが空を飛ぶ。交差点の中央部から滑り込んで道路際までたどり着いた笠木君に、僕はさっと両手を水平に広げた。

「セーフ」

 雑誌は信号待ちしていた赤色のファミリアの前にばさっと落ちて、グラビア写真が露出した。いつも笠木君が愛読している週刊誌のようだ。北欧娘の見事な肢体の全面写真が見える。クリスチナ・リンドバークだった。
ファミリアの赤いドアがさっと開き、若い女性がその週刊誌を拾った。「大丈夫?」と立ち上がったばかりの笠木君に手渡した。笠木君は頭をかきながら、開いてる週刊誌のページを慌てて閉じた。女性は「ククッ」と優しく笑って、車のクラクションが鳴る中、自分の車の赤いドアを閉めた。

「ごめん、やっぱりアウトだ」と僕は笠木君に言った。
 
                    *

「変なことって?」と、僕は訊ねた。
「この前、恵屋本部の販促部長が来ていたよね、うちに」
「ああ、先週だろ。ビシッと黒ずくめでね」
「来年度の販促の予算と方針を立てる前らしいんよね。そのための業者打ち合わせということで来たんだって」と言って笠木君はマッチを擦ってタバコに火をつけた。甘い匂いのするチェリーの煙が広がった。僕もセブンスターにオイルライターをカチンと鳴らして火をつけた。笠木君は自分の丸い顔が煙に巻かれると、左手でうるさそうに煙を左右に押しやった。
「支店長だけが対応したので、販促部長が来てるという情報はワタリさんまで伝わっていなかったんよ」
「ふ〜ん」
「販促部長は昼休みに出された出前の寿司を食べた後、2階のトイレに行ったんよ。ほら、2階のトイレはお客さん用で他より綺麗だし、落ち着くし。会社の女性はみんなこっそりそこを使っているの、知ってるよね?」
「知ってるけど、出前の寿司は誰の情報?藤木女史かい?」
「そう、一人前2、500円するんだって」と笠木君はそう言って羨ましそうな顔をした。僕たちの昼食代の攻防ラインはいつも700円台で、それが精一杯だった。もちろんコーヒー込みの価格だ。
「その2階のトイレだけど、販促部長が入っているときに、ちょうどワタリさんが昼飯から帰ってきたんよ。慌てて2階のトイレに直行したっていうから、腹の調子でも悪かったのかもね」

 お待たせいたしましたと、クリスチナ・リンドバークはブレンドコーヒーを置き、胸を揺すりながらカウンターに帰っていった。正確に5秒間、笠木君の身体から魂は離れていた。
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by hosokawatry | 2006-11-11 15:05 | ブログ小説・あの蒼い夏に

あの蒼い夏に 〜チラシづくりの青春・5〜



                    5

                    *

「なあ、河村。お前の席はワタリさんから離れているからそうでもないだろうけど、突然に雄叫び声をあげたり、結構うるさいんよね」と同期の笠木君は言った。
去年の秋、僕は舞い散る銀杏の黄色い葉を窓の外に見ながら、喫茶店で昼休みのカレーをかき込んでいた。目の前の笠木君はしゃべりながらトルコライスのトンカツを忙しく口に運んだ。スペースインベーダーゲームの音が後ろのテーブルから聞こえている。
「例の、『ア〜カ、ア〜カ、真っ赤っか』かい?」と僕は言った。

 制作担当は営業担当から得意先校正済みのコピー用紙を受け取る。得意先の訂正要望が赤ペンで記入されている。訂正や変更で真っ赤になった校正用紙を手渡される時に、ワタリ係長は『ア〜カ、ア〜カ、真っ赤っか』と投げやりに歌う。時に赤い色は僕たちに絶望感までも運んだ。特に校正用紙に走る縦横無尽の赤い太線は、やり直しを意味する。オリジナルデザインに死刑を宣告するサインペンの線だ。
 「どうしてこんなにグサグサに変更になるの?俺なりに懸命に考えて作ったレイアウトが、デザインが。こんなに跡形もなく?校正の意味は再構成とは違うのを知ってるでしょ?」とワタリ係長は心の中で口を震わせながら、見えない相手に向かって語りかける。赤サインペンの非情な太線がワタリさんを現実に引き戻す。怒りが芽生える。打ち合わせどおり、得意先の意向を反映させたレイアウトだったのに。得意先の言いなりになる営業にも腹が立った。机に隠れている握りしめた拳が震える。
 爆発しそうな心に声が届く。良くあることじゃないか。相手の立場もわかってやれよ、お前は係長だろ。話の分からない新入社員じゃないんだから。行き場をなくした怒りは歌に姿を変えるしかなかった。「すみません。防ぎようがなかったんです」という営業に向かって、自虐気味に歌は放たれる。「ア〜カ、ア〜カ、真っ赤っか」と。そういえば少し虚しいこの歌も、遠くはなれた僕の机に届く回数が増えたような気がしていた。

 「うん、それもあるし、得意先から電話で怒られたら、その後に裏声でオウムのように、必ず得意先のまねをするんよ。『君は売り場のことが、ま〜だよく分かっとら〜ん』とか 『チラシは綺麗なだけではダ〜メ、ダ〜メ』とかね」と笠木君は裏声を交えて話をした。
「ふ〜ん。何か高い声で喋っているのは分かってたけど」と僕は言って、最後の角切りビーフを口に放り込んだ。
 「ストレスだろうね。デザイナーのチーフだし、組織的にも係長で中間管理職だし。発散してるんだよ、ストレスを。きっと」
「そうかもね。最近係長になって、ちょっと多くなったかな?」と笠木君はうなずいた。
「最近、スマイル堂との競合が激しくなって、恵屋のチラシ変更も半端じゃないからね」と言って、僕はコップの水を一口飲んだ。笠木君はフォークで皿をカチャカチャ鳴らしている。

 「恵屋さんも、ぎりぎりまで相手の出方を見ながら、その対策を打とうとするんよね。印刷にかかった後でも値段変更言ってくるもんね」と笠木君は言った。
「ああ、少しでも相手より安くないとダメだと思ってる」
「しかし値段競争も大変だよね。相手が考えている値段まで分かるわけはないし」と笠木君は言って、トルコライスに付いているスパゲティをフォークでくるくる巻き上げた。
「確かに一円でも安いってことは悪いことじゃないけど、僕なら笑顔が綺麗な女の子がいる方に行くね。少しばかり値段が高くても」と僕は言った。「値段のことばかり気にしすぎるんだ。恵屋もスマイル堂も」
少し語気が荒くなった僕を、笠木君はゆっくりとかわした。
「そりゃ、河村は買い物かご下げた奥さんじゃないから、そんなことが言えるんよ」
笠木君はつるつると音を立てて麺をすすった。
「僕だって消費者だ。少しは分かるさ、安さが大切だってことは。しかしね、ただ安けりゃいいってもんじゃないでしょ。あいさつや対応がいいとか、店内がきれいとか、値段の周りのものをもっと大切にしなくちゃいけないんだよ。主婦の人だってきっとそう思ってるよ」と僕は言った。
「ん〜、でも、特売品を載せるのがチラシだし…」

 僕たちは後ろの席からスペースインベーダーの攻撃を受け続けていた。ピュン、ピュン、ピューン。有線放送で流れているダイアナロスのタッチ・ミー・イン・ザ・モーニングにも、ピュン、ピュン、ピューン。
「特売品だけで勝負しようとするから、最後までチラシ変更に追い回されるんだ。笠木君だって困るでしょ、そんなの」
「そう言われりゃ、そうだけど」と言った後、笠木君はフォークを置いて頭の後ろで両手を組んだ。
「殴り合いをしている当事者に見えるのは、相手のパンチと自分のパンチだけ。周りのものがほとんど見えなくなるって、三ツ谷さんから聞いたんだ」と僕は言った。
「パンチって値段のことかい?」
「そう」
僕は大きくうなずいた。
「値段以外にも大切なことはいっぱいあるんだ。チラシには、店の人の笑顔とその人が売りたい商品とそのオススメ理由が書いてあればいいんだ。それが大切なんだ。『いいものをお客さんのために選んだから、ぜひ買ってもらいたい』という気持ちを載せるのさ。恵屋の社長も言っていたじゃないか、チラシはラブレターだって。いつも卵がワンパック68円、砂糖1キロ98円だけじゃ、気持ちの底が浅すぎる。そんなラブレターなら、いずれ飽きられて振られてしまうね、きっと」
「それも三ツ谷さんかい?」
「そうだよ。気持ちが伝わらないものはダメなんだって」
「気持ちって言うけど、実際どうするんよ?」
「例えば、今、秋でしょ。秋サバは旬だしとても美味しい。それを一番に伝えるべきだね。だから、卵よりスペースを大きくとって打ち出すわけ。脂が乗っているとか、身体にいいとか、胡麻サバがおいしいとかいろいろ。そんな新鮮なサバが売り場に揃いましたよって、訴求するんだ」
「ふ〜ん」
「そういう情報をお客さんに届けるのが、チラシのこれからの使命なんだ」と僕は言った。「そういう内容だと、デザインもしやすいでしょ。卵ワンパック68円だけじゃ、絵にならないし。デザイナーにとっても、旬などの情報を盛り込む方がやりやすいと思うけど」
「なるほど…」
「客にとっても、店にとってもその方がいいと思うよ。もちろん笠木君にとっても。皆が幸せになりそうなことを考えなくっちゃ。そういうのを本当の愛情っていうんだ。大切なんだ」
 僕はそう言った後、空になっているカレー皿にそっとスプーンを置いた。用のないスプーンを、長い間強く握りしめていたのだ。指の関節が白くなっていた。それに気づくと少し照れた。

 話が途切れた笠木君と僕は、窓の外の美しい黄色の街路樹に目を向けた 。秋が深まると櫛田神社に続く土居町通りの舗道は銀杏の葉で黄色に染まる。神社の境内には「櫛田のぎなん」と呼ばれる樹齢不詳の大銀杏がでんと座っている。銀杏が黄色に色づくのは、年末繁忙期を迎える僕たちへの「黄色の注意信号」だなんて、まだ二人には分かるはずもなかった。入社一年めの秋は、染まりゆく並木道の美しさだけを見せていた。

「ワタリさんが変なことをしたって聞いたんよね」
昼休みの残り時間を、腕時計で確認しながら笠木君は言った。
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by hosokawatry | 2006-10-16 14:29 | ブログ小説・あの蒼い夏に

あの蒼い夏に 〜チラシづくりの青春・4〜



                   4


 どうして蝉はこんなに朝早くから鳴くのだろうか。アブラゼミの声はジリジリと、見ていた夢から僕を引き離すようにうるさく迫った。まるで傷口に貼り付いたバンドエイドを無理矢理はがすように。
 僕は女の子と海水浴に出かける夢を見ていた。5月に知り合った「かすみちゃん」と電車の座席に並んで座っていた。玄界灘のマリーンブルーの色が車窓からとびこみ、白い砂浜が現れては忙しく消えていく。通り過ぎる遠浅の海は強い日射しを浴びてエメラルドグリーンに映える。麦わら帽の女の子がとなりに両膝を合わせて座っている。初めての海のデートに、僕の心は夏休みの膨らんだビーチボールのように弾んでいた。やがて松原の中にある駅で電車は止まり扉が開いた.

生暖かい潮風とともに蝉の声が車内に飛び込んできた。

 ジー・ジー・ジー。ジー・ジー・・・・・

 ぷっつん。

 これからというところなのに。僕は蝉の声を呪った。
夢見る夏の朝に目覚まし時計は要らない。蝉が絶滅でもしない限り。

 僕はベッドから足を降ろしてタバコに火をつけた。いがらっぽい喉のままタバコを口にくわえて、LPをターンテーブルに乗せた。ニール・ヤングの鼻にかかったハイトーンが覚醒を運び、元気づけてくれる。どうしてうちの支店は、制作の人間もネクタイをしなくてはならないのだろうか?同期入社で博多支店に配属されたデザイナーの笠木君は、机の上に垂れたネクタイを紙と一緒にカッターナイフで切ってしまったこともあるのに。作業性も悪い。ノータイに一票。
 2曲目の終わりにやっとネクタイを締める勇気がわいてきた。ロッカーを開いて、3本持っているネクタイの中から一本を選んだ。えんじ色のレジメンタイだ。去年初給料で買ったポロ選手の絵柄のネクタイは、テレビの値段の間違いが発覚した時のネクタイだから、当分の間締めるつもりはない。昨夜のマティーニがほんの少しだが脳の中心に張り付いている。大丈夫、どうってことはない。久しぶりに6時間も寝ることが出来たし、今年一月以来の夢を見ることも出来たのだから。

 星を隠していた昨夜の梅雨雲は姿を隠してしまったようだ。空気にミミズの湿気を感じとれない。ベランダのガラス窓にかかるカーテンが微かに揺れている。だが、不思議なことに風は感じない。ガラス越しのテニスコートの土が白く光る。まだ午前7時だというのに、カーテンの隙間から伸びてくる夏の日射しが眩しかった。今日は暑くなりそうだ。僕は綿のボタンダウンシャツの衿ボタンをかけながら、冷蔵庫に頭を突っ込んだ。冷気が物足りないのですっきりしない。ネクタイを外し、着たばかりのシャツを脱いで、冷蔵庫から取り出した冷水を思いっきり首筋にかけた。氷をもらった動物園の8月のシロクマのように、細胞が全身を震わして喜んだ。身体に気持ちが帰ってくる。僕は「グワッ」と叫びながら、すぐにコップ一杯のミルクを飲み干し、角氷を噛み砕いた。「男はタフでなくては生きて行けない」と昨夜話してくれた竹田さんの言葉が甦った。もう、大丈夫です、竹田さん。僕はライオンみたいに強くないけどミミズみたいにぐずぐずと湿ってばかりでもないんです。いつまでも落ち込んでいてはだめだと思います。チラシの間違いはかなり堪えたが、もう乗り越えられそうです。

 僕のアパートは博多湾の埋め立てが行われている海岸沿いにあった。防波堤から眺めると、数百メートル沖で埋めたて予定の海は閉じられている。既に海水は無く、黒い湿った干拓地が顔を見せていた。数年先にはその干潟の土の上で、アジア太平洋博覧会「よかトピア」が開催される予定だ。
 新聞の見出しだけを拾った後、ドアの鍵をかけて外に出た。出勤にはいつも貫線道路のバス停まで住宅街を歩いて抜ける。寝過ごしてスプリント選手のように駆け抜けることも多かった。5〜6年後には地下鉄が開通するが、それまではバスで通うつもりだ。バス停までの途中、蔦が絡まるレンガ塀に囲まれた瀟洒な洋館がある。新しくはないが、手入れが行き届いてる。6月にはレンガ塀を乗り越えて、バラの香りが道の上にこぼれ落ちてきた。去年もそうだったし、僕は人通りが少なくて、走れば自分の足音が響いてくるこの小径が大好きだった。
 レンガ塀を見上げると、道に面した2階のガラス窓に女の子の顔が貼り付いていた。ガラスに押し当てている鼻は上向きにつぶれ、上唇はめくれ上がっている。瞬きもせず僕をじっと見つめている。僕は歩みを止めて可愛い挑戦者へ視線を固めた。そのまま両耳を両手で外側に引っぱり、舌で上唇を膨らませ白目を剥いた。チンパンジーを見るはめになった女の子は窓ガラスからすばやく顔をひき離した。思い直したように、彼女は両方のこめかみに両人差し指をあてて、顔の皮を両脇に引っ張ったので、両目が細い線になった。「イ〜」という顔の表情が憎たらしいが憎めない。足を止めている僕をじっと見つめている。今週2度目だ。わかった、わかった、君の勝ちだ。もうすぐ幼稚園に行く時間だろう?僕の負けだ、認めるよ。僕は苦笑いをしながらチンパンジーの顔を人間の顔に戻した。20歩程歩いて振り返っても、彼女はまだ同じポーズを崩してはいなかった。僕のことを友達だと思っているのだろうか。こんな僕でも、もう幼稚園を卒業してからはかなり経つ。

 
 「今日の制作ミーティングの内容はふたつ。最近チラシ間違いが目立つ。営業の方からももっとしっかりしてくれと苦情を言われているし、ひとつ目はチラシの間違いを無くすようにするためには、どうしたらいいかをみんなで考えて欲しいということ。そしてふたつ目が、年末と年始の恵屋全店合同チラシを今年は是非取りたいから、早めに取り組んで欲しいということや。新しいチーム編成でプレゼン案を8月中に考えてもらいたい。去年、電広堂に両方持って行かれたから、今年は絶対に取り戻したいと思うてる。支店長からも早めに取りかかるよういわれてるし、頼むわな、みんな。この後、ワタリ係長と一緒になっていろいろ決めて、実行してくれ。ほな、ワシはちょっと出かけるところがあるから、後は頼むで、なっ、ワタリ」
 野瀬制作課長は、大学ノートを閉じて席を立った。
「わ、わ、分かりました」と言って、ワタリ係長はミーティングルームを出て行く課長の後ろ姿に目礼した。
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by hosokawatry | 2006-09-18 12:16 | ブログ小説・あの蒼い夏に

あの蒼い夏に 〜チラシづくりの青春・3〜

                    

                    3


「はい、お待たせ。こちらは辛口、竹田さん」
「サンキュー、マスター」と言って竹田さんはグラスを見つめた。
 マティー二は照度を抑えたカウンターで透明に輝き、表面張力で盛り上がっていた。僕はその感動的なマティーニに見とれた。
「マスターの店だけですよね、こんな山盛りで出てくるマティーニは?」
「河村、その言い方はないと思うよ。升や猪口で飲む日本酒じゃないんだ、マティーニは。山盛りという表現は似合わないよな」
 竹田さんは、そうですよねとマスターに目配せしてショートグラスに口を運んだ。僕も同じように口をカウンターのグラスに持って行き、こぼさないように表面を少し啜った。ズズッと音がした。竹田さんは「もう少しスマートに飲んでくれよな」という視線をよこした。

「河村、ドライマティーニのドライって、どういうことだか分かるか?」

 カウンター正面のスピリッツ類が並んだ棚を見ながら僕に訊ねた。棚にはウオッカやテキーラ、そしてドライマティーニに使うジンが並んでいる。
「ジンに加えるドライベルモットの量が少ないほど辛口になるって聞きました。辛口タイプのことをドライって言うんですよね」と僕は答えた。「通の人ほどドライを飲むって言いますが、竹田さんが注文するマティーニもそうなんでしょ?」
「ああ、俺は辛口しか飲まない」
「竹田さん用のはメチャ辛だって、マスターが言ってましたけど。僕なんかにはその美味しさが分からないんじゃないかって」
 僕はオリーブの実が入っているその透明なカクテルを舌ですくってみた。口中に広がる強烈な自己主張が喉に染みて行く。これでも凄いのに・・・。

「竹田さんのマティー二は、ドライベルモットを2〜3滴垂らすくらいです。エクストラ・ドライマティーニっていうんです」と蝶ネクタイのマスターが教えてくれた。
「じゃあ、僕のは?」
「河村くんのはドライジン4に対してドライベルモットは1です。普通ですね」
「普通ですか。普通じゃつまらないですよね。他人に胸張って『ドライマティーニ』飲んでるなんて大きな声で言えないな〜」と僕は言った。
「甘口・辛口のような好みの問題に、胸を張れる、張れないはないと思うけどな」と竹田さんは言った。
「しかし、ショートケーキが好きで10個は喰えるというより、ドライマティーニ10杯飲める方が胸を張れるとは思いませんか?男なら」僕は少しムキになった。
「そりゃそうかもしれないけど、この場合は好みの問題だし、少し違うね。あくまでもドライ度の問題、ドライベルモットの量の問題なんだ。好みの対象物が男らしいか、女らしいかではないんだ。ん〜、分からないかな?どちらが凄いかではないんだ、河村」と、竹田さんは少しいらだちながらも諭すように言った。
「そうは言っても男なら誰だって、よりハードなものをこなせる方が魅力的ですよね?」と、僕は食い下がった。
「それはそうだけど」
「肉体でいえば、走り幅跳び選手の筋肉みたいにビシッと締まっていた方が、野瀬課長の緩んだビヤ樽のような身体より魅力的ですよね」
「ああ」
「じゃあ、やっぱり甘口のマティーニを飲む男より辛口のマティーニを飲む男の方が格好いいんだ。辛口って、走り幅跳びの選手の筋肉のようにピシッと締まった感じがするし、まっすぐ伸びた背骨みたいで」と、僕は言った。「それに『通』っぽくて、辛口を飲む男ってかっこいいと思います。やっぱりその方が男らしい」と僕は言った。

「走り幅跳びとマティー二では話の土俵が違うと思うけど・・・。まあ誰だって高い能力や格好いいイメージを持ちたいとは思う。ふにゃふにゃした背骨がないミミズのような男より、そりゃ背骨をすっと伸ばしたライオンのような男になりたいと思う。当然だ。ドライマティーニ10杯は飲めなくてもな」と、竹田さんは言ってドライマティーニを一口流し込んだ。
「しかし、ミミズ=甘口、ライオン=辛口と見た目で決めつけてはいけない。そう思うと判断を誤ることがある。ミミズだって辛口のドライマティーニを飲むことがあるだろうし、ライオンが甘めのドライマティーニを飲む場合だってあると思う。ここで俺が言いたいのは、むしろミミズのほうこそ誰にも負けない超辛口を飲みたいのではないかということ。ライオン以上にだ。弱いものこそ強く見せたがる。おそらくミミズはジメジメした劣等感がそうさせているのだ。表面を必要以上にドライにみせたがっている」
「はぁ」
僕には話がよく飲み込めなかった。
「ライオンはこだわらなくてもいいように出来ている。いいよな〜、ライオンは」と竹田さんはそう言って新しい両切りピースに火をつけた。「強がらなくていいし、通ぶる必要もない」
立ち上る青い副流煙の行き先をじっと眺めた後、ゆっくり煙を吐き出し肺の中を空にした。そして肩を少しまわして僕を見た。
「なあ、河村」
「はい」
「俺はミミズだ。以前はジュリーだったが今ではチラシづくりに疲れたミミズだ。湿っている。だからつい『ドライ』に憧れてしまう。弱い。だから強いアルコールに憧れる。そう思わないか?」
 竹田さんは日焼けが沈着した黒い首筋をぽりぽりと掻いた。オーラのように巻き付いたピースの重い煙が揺れて乱れた。自分のことをジュリーだと言った竹田さんが可笑しかった。ジュリーがミミズになると言うのも何か変だ。僕にはそんな言葉を吐ける面白さはない。

「俺が最初に訊いた『ドライマティーニのドライ』の意味はそういうこと。俺の中の湿っている部分が『ドライ』を強烈に欲しがっているのかもな。いわば弱さ隠しだ」
「そんなにウェットだとは思わないですけど。考え過ぎじゃないですか? しかしよく飲み過ぎてウェッと吐いていますけどね竹田さんは」と僕はナーバスになっていたミミズの先輩に駄洒落を言った。
「三ツ谷さんのダジャレだな、その笑えないシャレは。しかし俺は湿っぽく見えない?本当かい?」
「はい、竹田さんにはミミズの湿気も陰険さも感じません。むしろ、営業の湯浦さんにそれを感じます。未だに入社間もない時のことをねちねち言います。僕が作ったチラシで、1玉メロンの掲載写真が横のスイカ1玉の写真よりも大きかったので、校正のとき青果担当の人に注意を受けたそうです。それ以来、ことあるごとに『スイカとメロンはどちらが大きいとや?』と僕を小馬鹿にします。まあ、慣れたからいいけど、湯浦さんなんか完全に湿っていますね」
「塩をかけると面白いかもしれないな」
「それはナメクジでしょ」
「ははは、そうだったな。じゃあ、おしっこでもかけるか。俺のが腫れて大きくなったらもうけもんだし」と、竹田さんの表情に再び血が通い始めた。竹田さんも湯浦さんからなんらかの嫌がらせをうけていたのかもしれない。

 竹田さんは笑うと同時にミミズの気持ちから立ち直った。マティーニのドライ度を気にするよりも、人間性や能力についてもっと考えるべきだと言った。「ドライ度」よりも「プライド」だ。男らしさが大切だと思うならチャンドラーを読めとすすめた。そして『男はタフでなくては生きて行けない。優しくなくては生きていく資格がない』と言うセリフは、チラシづくりの男たちへ捧げる言葉でなくてはならないと。

 僕はまだ睡眠不足から解放されていなかった。誘ってくれた竹田さんも100%の体調ではなかったので早めにカクテルバーを引き上げた。店の外はヌメッとした湿気が舌を出して待っていた。圧倒的な湿度。ミミズが喜びそうな梅雨の7月。月は出ていない。解決できないことが多すぎる。僕は中州のネオンの下で竹田さんにお礼を言って、午前0時半の深夜タクシーに身体を沈めた。
「人間の背骨、い、いやバックボーンについてのこと、ハートの問題については三ツ谷さんに相談するといいかもしれない。あの人は冗談ばかり言っているが、分かってる人だ。九州男児だ」と別れ際に竹田さんは言った。
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by hosokawatry | 2006-08-25 19:09 | ブログ小説・あの蒼い夏に