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霧雨の中で

a0071722_1365273.jpg Sさんから借りている北方謙三の「水滸伝(全19巻/文庫本)」の8冊目を読みながら、ベランダを眺めると蔓性の植物が鉄枠に絡み付きながら伸びているのに気付きます。つい先日までは、そこまでは伸びてなかったのに。あっという間に生長します。早いものです。

 水滸伝の物語も展開が早く、梁山泊に身を投じた有志達も官軍との戦いの中で次々と命を落としていきます。が、信じるもののために死をものともせず戦う潔さに圧倒され、眠っていた自分の中の何かが確実に揺り起こされてしまいます。志を大切にする姿勢だけはどんなことがあっても無くしたくないなと…。

 夕方に生の松原まで散歩をしましたが、目の前の博多湾に浮かぶ能古島も上の方が雲に隠れてしまっています。どんよりした雲が広がる6月最後の日曜日。今年も半分過ぎてしまいました。あれもしたい、これもしなければと思っていたものの、出来たものはほんの僅か。遅々として進まず。カタツムリにも追い抜かれるのではないかといった状態です。植物の生長のスピードに目を丸くするはずですね。

 傘をさすほどの雨ではないけれど、遠くの水平線や山の稜線は霧雨に煙っています。遠くが見えずに不安が顔をのぞかす日曜日は、少し立ち止まって、「よし、明日からまた頑張らなくっちゃ」とねじを巻く日なのかもしれません。明日からの晴れた日を精一杯走れるように、そして志をしっかりと貫けるように。
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by hosokawatry | 2008-06-30 01:39 | やさしく歌って・自由日記

あの蒼い夏に 〜チラシづくりの青春・21〜



                    21


 僕は居眠りに気をつけたつもりだったが、敵は手強かった。悪魔に意識を奪われないように、頻繁に視線を上げては蛍光スタンドを必死の形相で睨みつけた。首を大きく回したり太ももを強くつねったり、顔を洗いに何度もトイレに行ったが、それでも眠気は立ち去らない。痛いはずの刺激が気持ちよくなり始めていたし、陥落は時間の問題だったのかもしれない。何度目かのこっくりの後、突然まぶたの裏に乳白色の暖かさが流れ、ふっと覚醒の意識が途切れた。職場のざわめきが遠のき、静寂が駆け寄ってくる。
 しかし、すぐに眠りは破られた。甘美な眠りの時間をかき分けて、地の底から醜悪な声が響いてきた。音声の輪郭を次第に明らかにしながら僕の方にゆっくりと近づいてくる。聞きたくない声だ。

「河村、お前、本当にいい身分だな」と悪魔の声が永野さんの声へと次第に変っていった。

 僕の意識は揺り起こされ、慌てながら声の主の方向を探し出した。理由がなんであれ、居眠りを指摘されることほどばつが悪いものはない。「すみません」と、僕は永野さんにちょこんと頭を下げた。
 机の上に視線を落とすと、ペン先のスケッチ用紙には文字になり損なった線が、ミミズのようにくねくねと踊っているのが見えた。ミミズ文字の胴体は最後にぷつんと切れているが、右手はしっかりとペンを握りしめていた。僕は意識を失いかけても、ペンというコピーライターの魂までは手放してはいない。ほっとする間もなく永野さんの声が迫ってきた。

「お前の先輩の竹田だって、昨日の残業であまり寝ていないと思うけど、頑張っているじゃないか」
「……」
「自分の都合で早く帰って、翌日がこれじゃあな」
「……」
「グループのみんなに示しがつかんよなあ、そうだろ?」
「はい」と、僕はまた頭を下げた。
「夏のバーゲンチラシに、来週は盆のチラシも2発入ってくるというのに。それから年末・年始の競合プレテ作成もあるし。お前も暇じゃないはずだけど」
 
 間接的に昨日の早い退社時間が責められているのだろうか。僕は心に数本の矢を受けてよろけながら、グチグチと続く全ての嫌みな説教に頷かざるをえなかった。永野さんの言うことに間違いはなかった。社員はみんな暇じゃないはずだ。そう、全くあなたの言うとおりです、と僕の心は両手を上げてギブアップした。そして郵便局強盗に失敗した初老の犯罪者のように、肩を落として力なく聞き入った。
 さらにタイミング悪く、僕には花咲店の周年記念のチラシスケッチの仕事も控えていた。暇じゃないはずだ、ではなくて「真剣に忙しい」のほうが正解に限りなく近い。

 博多祇園山笠の追い山は、デート時間と出社時間に「遅刻」という有難くない不名誉を与えてくれた。僕は自分の遅刻が周囲に与えた負の影響を受け止めると同時に、立場を守るための弁明をしなかった自分の中に「男らしさの部分」を確認できたことが収穫だと思えた。
 かすみは帰りのタクシーの中で「今日はありがとう」と言った。僕にはその言葉が一番嬉しかった。野瀬課長と永野さんには遅刻を責められたが、思ったより素直に反省できた。そのことが二番目に嬉しかった。

 アルコールを分解する肝機能は時間の経過に沿って、立ち直ってきているのがわかる。しかし睡眠不足は時間だけには頼れない。当たり前だけど、眠らなくては解消できないのだ。昼休み後の猛烈な眠気からは立ち直っていたが、徹夜明けという手負いの精神力の上では元気も長くは続かなかった。
 時間が過ぎるごとに疲労が澱のように溜まり続け、体内組織の全てにじっとりとまとわりついた。思考の回転スピードが鈍り、答えに微妙なずれが生じ始める。感受性に繊細さが失われ、考えること自体が負担になっていく。

 疲労が顔色を暗く塗り変えていった。
 かすみに僕はこう見えても結構強いんだ、と見栄を切っていた自分が恥ずかしかった。

 気力を考えても今日の仕事量は完璧にはこなせないだろう。広がった不安を冷静に見つめ直した。明日は隔週休制度の休みに当たる土曜日だったが、休日出勤すれば良いじゃないか。期限に余裕がある仕事は明日回しにすれば良いのだ。そう思うとほんの少し救われた。
 今日の自分の制作予定表をひとつひとつチェックした。納期に間に合わせるためのチラシの版下入稿が2本あった。これは、絶対に今日やらなくてはならない。
 1本は夕方以降に印刷所に手渡すB4版下の完成。これは全く問題なかった。もうすぐフィニッシュだ。もう1本はB3サイズで、両面とも4色カラー物件の版下入稿。滅多に回ってこない貴重なカラーのチラシの仕事だ。しかし、このB3のチラシはサイズ以上に手強かった。多くのテナントさんを含むショッピングセンター全体のチラシで、最後までそのレイアウト構成で大もめの物件だった。

 テナント面にはアイキャッチとして、中央に大きく女性モデルのファッション写真を配置していた。校正時に、テナント各店から「各店の案内スペースが小さいので、もっと大きくして欲しい」との要望が多くだされた。アイキャッチのモデル写真にも不要論が渦巻き、校正に出向いていた湯浦さんは多くの声に抗いきれず、レイアウトの全面変更を受け入れて帰社したのだった。

 校正用紙には赤い文字やレイアウト変更の指示線が乱暴に記入されていた。あ〜か、あ〜か、真っ赤っかと心の中で歌いながら湯浦さんから校正用紙を受け取ったのは二日前だった。すぐにトレーシングペーパーを校正用紙の上にあて、上からペンでレイアウトを済ませ、急いで写植屋にまわした。
 写植文字が全て打ち直され、おニューの版下台紙に貼り込まれた。僕の手元に新たな版下が届いたのは今日の夕方、先ほどのことだった。全ての文字打ち替えをやったので、最終チェックで誤植を見つける可能性は高い。深夜に誤植が見つかっても、もう文字を打ち直してくれる人はいない。思えば、それが憂鬱の種でもあった。

 「河村。お前、夕方にB3版下が上がってきたみたいやけど、それ今夜入稿するやつだろ?」と永野さんが僕に訊ねた。
「もっと早く上がらなかったのか?」
「ええ…」
「遅いんだよ。今からチェックして、文字間違いが出たらどうするんだよ」と口調が強くなった。「夜遅く誤植が分かってもどうしようもないじゃないか。どうして、昼一に納品させなかったんだ。特にこんな全面変更のヤツはチェックに時間かかるから、写植屋に無理して早めに上げてもらうんだよ」
 野瀬課長もワタリ係長も午後から出張に出かけ、管理職のいない夕方の職場にさざ波が立った。

 僕はいつの間にか針の山に立たされていた。永野さんの言葉がひとつひとつ、僕の心に重くのしかかっていく。睡眠不足で鈍ったはずの神経がチクチクと痛みを感じだした。普段は顔を見せない反抗心が芽生え始めている。

 分かってるよ、そんなこと。写植屋さんも忙しそうだったから、無理を頼めなかっただけじゃないか。
 僕は喉まで出かかった言葉をぐっと飲み込んだ。

「そんな段取りだから、最後にしっかりチェックできる時間が作れないんだよ。えっ、分かるか?」と、永野さんは手にしていたロットリングを机において席を立とうとした。
「お前な、そんなことやってたら、何回でも間違うぞ。このあいだのテレビの値段で懲りたんじゃないのか」

 僕はその聞きたくない値段間違いの件を持ち出されて、頭に血が上り始めた。エアコンの風がイライラするほど生温い。う〜っ。僕はほうれん草の缶詰を握力でパカンと開けて食べ、盛り上がった腕の力こぶをイメージした。トイレに向かっている永野さんを振り向かせ、思いっきりアッパーカットでも見舞いたかった。

 永野さんがトイレに消えると、二人の会話を聞いていないふりをしていたみんなの表情が緩んだ。笠木君が顔を上げてピースサインを送ってきた。ピースじゃないよ。僕の心は今、平和じゃない。でも、同期だから許してあげる。ただ一人だけ、三ツ谷さんだけがなぜか険しい表情をしてラフスケッチを描いている。

 通常、写植文字が貼り込まれた台紙には、上から透明フィルムをかけ、カラー写真のアタリを貼り込む。そうやって完成した版下に半透明のトレーシングペーパーを乗せて、色指示を書き込む。黄色はY100%、ピンクはM100%。レッドはY100%+M100%の2色掛け合わせとなり、YMと書けば済む。YMCKの4色掛け合わせでほぼ全ての色が出来上がった。デザイナーはよく使う色のその掛け合わせのパーセンテージをほとんど覚えていた。
 入稿後、製版工程で、そのデザイナーが指示した色は4色の製版フィルムとなってキチンと再現される。
 僕はコピーライターなので、カラーチラシの色指示が出来なかった。1色・2色の色指示は出来たが、カラーはやはり本職のデザイナーにやってもらわなければいけない。
 
 問題のB3チラシの色指示は三ツ谷さんに頼んでいた。しかし版下フィニッシュは深夜近く迄かかるだろう。その時間迄先輩に待機してもらうわけにはいかない。それで今夜は仕事の順序を変えた。午後8時くらいに完成途中の版下を見ながら色指示をしてもらうことにした。
 三ツ谷さんは両面の色指示を1時間かけて終わらせた。
「色指示終わったバイ。あとは衆矢の頑張る番たい。俺は一勝負して帰るけん」と言い残して、閉店間近のパチンコ店「明星」に走った。

 僕は大博多印刷の担当営業に、悪いけどと前置きをして、版下手渡しは深夜の0時目標になることを電話で伝えた。その営業マンは「分かりました、シンデレラコースですね。じゃあ入稿が終わったら一緒にアナザーウェイに行きましょう」と僕を真剣に誘ったが断った。
 僕は「今夜は遊び心も死ンデレラだから」だと付け加えた。あまりにも今日は眠すぎる。

 版下のコピーをとって、文字のチェックをはじめた。これからの3時間が版下入稿の最後の戦いになる。
 黄色のラッションペンで塗りつぶしながら、文字チェックを始めた。
 周りの制作の社員は、残った仕事は明日出社して片付けようと、少しずつ帰り支度をはじめている。
 

 僕は誤植が出ないように祈りながら慎重に進めた。ところが、紙面の一割もチェックが進まないうちにまたもや眠気が襲ってきた。眠気と戦いながらの文字チェックは過酷だった。一進一退の状況に僕は何度も叫びたい心境にかられ、何本もタバコに火をつけては揉み消した。
 出張から帰ってきたワタリ係長と永野さんはもう帰路についている。笠木君もキヨシ君も「明日またね」と言いながら次々と席を立った。お疲れさんの連鎖反応は続き、竹田さんも「悪いけど、もう帰るわ。疲れた」と言いながら、最後に僕だけを残して帰っていった。
 僕は朦朧としながらも紙面に黄色い線を引き続けたが、ほどなくラッションペンは行き場を失い、立ち止まってしまった。旧式エアコンの吹き出し音だけが響く、一人っきりの夜の職場。生ぬるい風が僕の疲弊した責任感におおい被さっていく。

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by hosokawatry | 2008-06-21 23:45 | ブログ小説・あの蒼い夏に

寄り添う父の日

a0071722_11523191.jpg 細かい雨が降る日曜日。やっと梅雨らしい天気になってきましたが、どうしても晴れた日とは気分も違ってきます。しかも最近は、ニュースも残念なものばかり流してくれます。ミャンマーのサイクロン被害、四川大地震、秋葉原の無差別殺傷事件、そして昨日の震度6強を記録した岩手・宮城内陸地震と報道機関をにぎわす材料には事欠かない状況が続きます。

 福岡は3年前に震度6弱(マグニチュード7.0)の地震を経験したけど、震度6強(マグニチュード7.2)というのはかなりの大きさですね。マグニチュードが0.2大きくなれば、エネルギー規模は2倍になるのだとか。テレビで伝えられる山の崩壊の映像は、自然の破壊力をまざまざと見せつけてくれました。そして、まだ行方不明になっている方が多数。一人でも多くの人が助かればと思います。

 今日は父の日。一昨日退院した義理の父親の退院祝いもかねて、唐津で晩ご飯でも一緒に食べようと思います。博多大丸の柿安ダイニングでも行って惣菜を買い込み、それを囲んで和やかな感じでお祝いしようかな。食料調達は僕の役目です。喜んでくれると嬉しいのですが。「モノ」を贈るだけより「気持ちのよい時間」を一緒に過ごせる方が何倍も価値があると信じます。

 ベランダには6月というのに、クリスマス・ホーリーが赤い実をつけたまま微笑んでいます。雨天も小康状態になってきました。さあ、あまり得意じゃないけど、天神のデパ地下に出かけようっと。
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by hosokawatry | 2008-06-15 11:54 | やさしく歌って・自由日記

あの蒼い夏に 〜チラシづくりの青春・20〜



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 僕は佐里君に部屋に入るよう勧めた。その瞬間、僕はジャケットを握りしめていないもうひとつの手に物足りなさを感じた。後頭部に軽いショックが走る。そうだ、恵屋の咲田店長にもらったパリジャンがない。フランスパンフェアの売り上げが良かったからとご褒美にもらったものだ。チラシに載せたフランスパンフェアのタイトルは、僕の書体指示を佐里君が自分の判断で変えてくれたものだった。だから、本当の手柄の半分は佐里君に権利があるはずだ。
 晴照に忘れてきたのは明らかだった。僕は悔やんだ。パリジャンの権利を共有する佐里君がこうして目の前にいるというのに、その恩恵を分かち合えない間抜けな自分に腹が立った。

 佐里君は汗まみれで、ジーパンの尻は泥まみれだった。僕は冷蔵庫から冷えた水を取り出し、氷を入れて佐里君に渡した。佐里君がそれを飲み終わるのを見届けて、バスルームに無理やり押し込んだ。シャワーの音を聞きながら、僕はいつもの材料でいつものようにトースト・サンドをつくり、コーヒーをたてた。
 軽やかなアコースティックなサウンドをまとって、オリビア・ニュートン=ジョンの歌声がFMから流れだす。その声はほとんど小鳥のさえずりに聞こえた。
「これに着がえなよ」
 汗まみれのシャツを着てバスルームから出てきた佐里君に、洗いざらしのTシャツとトランクス、ブルージーンズをトスした。

「僕もさっとシャワー浴びるから、サンドイッチ先に食べてて」と僕は言った。
サイズが大きいラングラージーンズの裾をまくり上げながら、佐里君は小さく頷いた。
 
 僕は脱いだ綿パンの太ももあたりに、小さなシミ跡があるのを見つけた。かすみの記憶が唇のカタチで薄く残っていた。僕は少し迷った後、二槽式洗濯機の洗濯槽に綿パンを投げ入れた。そのプレゼントは投げ入れた瞬間から、間違いなく幸せな記憶に変わっていく。

 タオルで髪を拭きながらバスルームから出てくると、視線の先に窓からの弱い光を受けた佐里君のシルエットがあった。少し大きめのTシャツを着た姿がかすみだったら…。可愛い願望は、すぐに苦笑いの感情にかき消されてしまう。僕は頭を振った。
 佐里君はマグカップ最後のコーヒーを飲み干すと、静かにテーブルに置いた。Tシャツから伸びた二の腕はせつないほど細くて白い。
 僕はトースト・サンドのできばえを訊ねた後、自分で食べてみた。今日の朝食の味はオブラートに包まれている。徹夜が五官の能力を奪い取っている。う〜ん、60点だ、判断がつきにくい。

「いったい、どうしたの?」と僕はグラスの水を飲みながら訊ねた。「昨日の夜、屋台に顔を出さなかった?」

 佐里君は一瞬はっと息を飲むような表情を浮かべた後、視線を下げ気味にぼそぼそとしゃべり始めた。
 テレビ値段の桁飛ばしの後、いろいろ悩んでいるうちに、毎晩眠れなくなったこと。写植学校で一緒だった友達に連絡を付け、悩みを相談したら今度一度飲むことになったこと。そして、昨日は夕方頃、眠くて眠くて、こっくりこっくりやっていたら、社長から残業せずに帰れと言われたこと。一度アパートに帰ったが、僕にきちんと会って謝っていないので、会えないだろうかと電話を入れたが出張中だったこと。再度電話をいれたら、少し前に帰ったが、ひょっとすれば屋台の『晴照』に行ってるかもしれないと、三ツ谷さんが教えてくれたこと。
 
「屋台の中を覗いたら、屋台のおじさんが目を見開いて僕の方を見るものだから、河村さんが来たかどうかも聞かずに慌てて離れたんです」と佐里君は言った。「それで、友達の会社に連絡して、その友達と12時過ぎまで飲みました。その後、酔っぱらっていたんですが、どうしても河村さんに会わなくてはと…」

「へぇ、それからず〜っとアパートの前にいたの?」と驚きながら、僕はベッドの上の目覚まし時計を眺めた。
 まずい。いつの間にか会社の始業時間がそこまで迫っている。
 朝の短すぎる面会時間。遅刻をいやがる生真面目な姿勢が、佐里君との間に冷酷な面会時間の鉄格子を降ろし始めようとしている。僕は空のマグカップを眺めながら判断を下した。今朝はここまでにしよう。今だったら、まだ始業時間に間に合うかもしれない。 

 残念ながら佐里君の気持ちに寄り添ってやれる時間が短すぎた。                

「仕事には行けるかい?」
「はい」と弱々しい返事が返ってきた。
「社長に心配かけちゃいけないから、その方がいいかもね。しんどいだろうけど」
 僕は汗にまみれた佐里君のシャツとパンツをペーパーバッグに入れて持たせた。

 最寄りの西鉄の唐人町バス停まで小走りになった。今朝はバラが咲く2階建ての家の前で、チンパンジーになる余裕はない。走りながら2階の窓を眺めたが、少女の姿は見えなかった。僕はバス停の前でふ〜っと大きく息を整えて、バスを待った。佐里君は昨夜の疲れを少し宿しながらも白い表情を壊さずに、バスが現れる方向を眺めている。

 バスは地下鉄工事中の鉄板が敷き詰められた道路を苦しみながら走った。渋滞が僕に冷や汗をかかせ、始業時間への焦りが佐里君に対する口数を奪った。僕はナイル川の獰猛なワニになった気分で、目の前にいるバスの運転手を注視した。黄色の信号で止まったりすればパクリと噛んじゃうから。ハア、ハア。
 バスの中でただひとつだけ、佐里君に希望を伝えた。明日の土曜日は飲みに出かけないので、もう一度僕のアパートに遊びにくるように、と。
 佐里君は天神の交差点でバスを降りる前に「そうします」と言った。時間を確認すると、腕時計が絶望感だけを僕に伝えた。すでに9時を越えてしまっている。


 遅刻は憂鬱な気分をもたらした。身体から遊離したような掴みどころのない徹夜明けのフワフワ感に規則を守れなかった罪悪感がのしかかる。遅刻三回は一日分の欠勤に相当し、ボーナスに直接影響するという会社規約が冷たく光る白い歯を見せながらにやりと笑った。誰も僕に話しかけようとしない。僕の席だけが疎外感に包まれて、社員の話し声も遠くに聞こえる。

「河村、遅刻なんかしたらあかへんで。何しとったんや昨日、え〜っ」と野瀬課長の声が飛んできた。「お前な、昨日早う帰ったんやろ。残業で夜の2時に帰ったやつだってキチンと出社しとるのに、え〜、何考えとんや」
 僕はその場で立ち上がって、すみませんと野瀬課長の方に頭を下げた。
「昨日の出張日報を早う出しとけ」と課長は言いながら、中指で事務机をトントントンと3回叩いた。
「遅刻もチラシ間違いと同じや。10割やないといかん。失敗は許されんのや。村山が長嶋に投げた天覧試合のあの一球と同じやで。たった一度の手元の狂いが敗北を呼ぶんや。そやから、頼むわな。イライラさせんでくれ」

 注意されている僕に同期入社のキヨシ君がウインクを送ってきた。笠木君もニヤニヤしている。明らかに笠木君は僕の昨夜の出来事を拡大解釈している。げんこつの間から親指を覗かせてみせた。品のない仕草に向かって僕は大きく首を振った。僕は藤木女史が持ってきてくれたお茶を飲みながら気分の回復を図ったが、すぐには調子は戻らない。
 午前10時半頃にヤクルトおばさんがバッグを担いで、いつものようにやって着た。おばさんは僕の席にヤクルトを置くと三ツ谷さんの席に回って、「いつものやつでいいの?」と声をかけた。三ツ谷さんは首を縦に振った。
「ウルトラマンさん、今日の飲み物は?」とキヨシ君が訊ねた。
三ツ谷さんは大きく頷いて立ち上がり、周囲を見渡しゆっくりと右手を上げた。

「ジョアッチ」

高く差し出されたその乳酸飲料の容器の水滴がキラリと光った。ヤクルトおばさんは満足げに目を細めると、三ツ谷さんの机にヤクルトも差し出した。

「ふふふ、私のおごりよ、とっといて」
 
 弱みは見せられないと力めば力むほど、空回りをする気力。僕は足かせをつけられた囚人のように、動けば動くほど余計に疲れを蓄積させた。午前中は何とか乗り切ったものの、疲れのピークは昼食後の午後2時過ぎに「居眠り」となって僕を苦しめ始めた。

「河村、お前、本当にいい身分だな」と永野さんの声が聞こえた。
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by hosokawatry | 2008-06-09 01:17 | ブログ小説・あの蒼い夏に

ガソリンはまだ1リットル149円でした

a0071722_335617.jpg  原油の先物価格が1バレル135ドルに達したということです。日本ではレギュラーガソリンの価格がついに6月より1リットル170円台に突入。値上げをした都心部のガソリンスタンドの映像がテレビで流れていました。5月のうちに満タンにしとけば良かったと思いながら、福岡市西区のセルフスタンドで給油。
 
 価格はまだ、アップしていなくて149円/ℓでした。ラッキーなどと、喜んでしまいました。しかし、この値段だって、よくよく考えてみるとあまり歓迎すべき値段ではありませんね。何年前か忘れましたけど、僕は79円/ℓで給油したことがあります。その当時の倍近くに値上がりしているという訳です。

 2009年には1バレル200ドルを突破するだろうといわれ、日本の小売価格は210〜220円/ℓに到達するのだとか。我が家の経済を強く圧迫することは間違いありません。すでに原油や穀物の高騰が暮らしに少しずつ影響を与え始めています。しかしピンチはチャンスと言うではありませんか。「石油を潤沢に使えることを前提にしない生活」を考える時期に来ているのは確かだし、きっと化石燃料の石油にとって代わる、環境負荷をかけないエネルギー資源開発を促進させるいいきっかけになるのではないかと。

 掲載写真の福岡市西区小戸にあるスポーツ公園の駐車場も先日より有料になりました。小戸公園も含めてこれまでずっと駐車場が無料だったので、さすが福岡市、太っ腹だなぁ〜と思っていましたが、残念です。ガソリン代のこともあるし、歩ける範囲は歩き、車を使わないこと。それが自分の健康のため、家計のため、地球のため。ということで、僕はもっと歩こうと思います。う〜む、夏はかなり手強いけど…。
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by hosokawatry | 2008-06-02 03:06 | やさしく歌って・自由日記