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あの蒼い夏に 〜チラシづくりの青春・28〜





                    28
  

 水曜日の午前中、永野さんと三ツ谷さんと僕は年末年始プレテのチームミーティングに入った。一時間少しでコンセプトをとりまとめ、クリエイティブ表現のアイデアを出し合った。
 月曜日に三ツ谷さんがパンチを繰り出す原因になったいわく付きのチームミーティングだったが、すんなりと終わってしまった。高ぶらないように極力声を押さえながら話す永野さんと無表情を貫く三ツ谷さんの二人に、いつもの熱気が感じられない。僕だけが二人の間で、母親を捜す幼いペンギンのように心を乱しながら右往左往した。
 結局、僕が考えた「あなたに感謝」が年末最後の折り込みチラシのメインフレーズに、「もっとあなたのために」というフレーズが元旦に折り込む初商チラシ用に決まった。年末チラシはお客様からの感謝と苦情の手紙の写真をメインビジュアルにして、ボディコピーで御礼と反省の気持ちを表現することになった。初商用のチラシは決め手となるような案が出なかったので、再度アイデア出しをすることに決めた。

 珍しく佐里君から午前中に電話があった。
「メンズショップの案内状ですけど」
「ああ、あのDM、何かあったの?」

 僕はスーパーのチラシ以外にも、メンズショップの会員向け特別セールの案内DMはがきの作成を頼まれていた。営業の湯浦さんからの依頼で、僕の好きなトラッドファッションショップの仕事だった。
 営業の湯浦さんが先方の販促担当者との打ち合わせに出かける。その持ち帰った抽象的な話を、説得力のある格好良いデザインへと具象化させるのが僕の制作としての仕事だ。僕はいつだってストアコンセプトに沿った最高の表現を目指した。それも、新しいトレンドやユニークさをちりばめて。しかし、デザインやコピー表現の最終的な採用・不採用の判断基準は、ショップの店長や社長の好みにゆだねられた。
 クライアントの感性次第、時には気分次第を、僕たちには科学的に乗り越えるためのデザインの理論武装をする必要もあった。「誰が、何を、いつ、どこで、どのように、どうした」という広告作りの基本である5W1Hという理論のフィルターも、頭の中では常に稼働させていた。そして流行通信や多くのファッション雑誌に、デザインの新しさを絶えず探した。
 しかし「上手くできた」と思った時ほど、クライアントの感性に同調することができなくて、ダメ出しを食らうことが多かった。まだ、僕には野瀬課長がいつも口を酸っぱくして言う「半歩先の感性」というものがよく理解出来ていないのだろう。言葉では分かったつもりでも、半歩先の程度を掴みきれないでいる。いつだって懸命に、無意識の中で半歩に思える三歩先を目指そうとしていた。
 校正に出かけた湯浦さんがクライアントに受け入れられずに、不機嫌な顔をして帰ってくることも多かった。不機嫌な顔は新たなデザインを緊急に求めてくる。僕にはそれがたまらなかった。緊急制作にも精神的負担は重くのしかかったが、自分の能力のなさに強い嫌悪感を抱いてしまうことのほうがもっと大きかった。

「『INVITATION』の書体指示にGと書いてありますが、へルベチカでいいですか?」と、佐里君は静かに訊ねた。「余分な飾りがなく、一番落ち着いた書体です。スイスで生まれた書体なんです」
「う〜ん、へルベチカねえ」
「河村さんのような誠実な書体です」
「佐里君も巧くなったね、薦め方が」
「ふふっ、もう二十歳だから」
 佐里君は僕の言葉に純粋に照れながら、みずみずしい謙虚さで応えた。
「じゃあ、それにしよう。その誠実な書体に」
「はい、へルベチカにします」と、佐里君は嬉しそうな声をあげて電話を切った。


 昼休みの少し前に永野さんに電話がかかってきた。永野さんは「少し待っていただけますか」と言いながら、その店のチラシの印刷見本を藤木女史に持ってくるように頼んだ。永野さんは藤木女史が刷見本を用意する間にも、受話器の向こうからの声に顔をみるみる緊張させていった。
 永野さんが広げたチラシのレイアウトには見覚えがあった。

 まさか!

 嫌な予感は的中した。
 先週の土曜日に大博多印刷に出向いて修正指示を出したあのチラシだ。花柄プリントのワンピースが手違いで入荷できなくなったので紙面から没にして、近くにあった無地ワンピースを代わりに大きく配置し直したチラシだった。永野さんが三ツ谷さんに殴られる原因にもなったチラシだ。
 永野さんは「はい、申し訳ありません」と2回続けて謝った後、頭を下げたまま受話器を置いた。紅潮した顔を僕の方に向けて、「どうしてこうなったのか確かめてくれ」と赤ラッションペンで囲んだ部分を指差した。
 無地のワンピースの写真の上に「今年人気の花柄プリント、ズバリ半額」という文字が入っている。花柄プリントのワンピースの写真と品名・値段を取り払ったものの、その上部にレイアウトされていたコピーはそのまま残っていた。僕は慌てて、記憶を探った。そういえば、そのコピーにはトルの指示をした覚えがない。ゆらっと、目の前の視界が歪んだ。心臓の鼓動が速度を速め、コトは最悪に向かって駆け出している。

「すみません。僕の指示ミスです」
 僕はうなだれた。カラーテレビ五千円に続く、7月に入ってから2回目のミスを起こしてしまったのだ。あれほど、注意をしていたのに。よりによって、他人の仕事の処理をしてしまったばかりに。僕は運の悪さを呪った。
 大博多印刷に残されていた、僕の修正指示用紙にも「コピートル」の指示はないという連絡がすぐに入った。
 永野さんは僕を連れてワタリ係長に報告に行った。職場では報告・連絡・相談を欠かしてはいけない。「報、連、相(ほうれんそう)」を絶対に守るようにと、ワタリ係長は口を酸っぱくして言い続けていた。ワタリ係長はそのまま野瀬課長にミスの報告を上げた。
 
「俺はこの店のチラシで、これまでに間違いは起こしたことはなかったのに」永野さんは悔しそうに言った。
 永野さんのチラシ作りは「クリエイティブ力を発揮すること」より「間違わないこと」に力点が置かれていた。大切な仕事を引き受けているのだから、間違いのないようにキチンと作り上げることが大事なことだとよく聞かされた。
「河村、何百回間違いなくやれても、その後のたった一回のミスで、信頼というのは吹き飛んでしまうんだよ。築き上げるのは大変だけど、壊れるのはあっという間さ。分かるか?」
 僕は無言で頷いた。
「だから、こうやっていつも真剣にチェックもするし、間違いのでないように仕事の段取りも完璧にやっているんだ。写植屋やカメラマンに嫌がられても、納期を譲らないのはそういうことだからなんだ。俺が嫌がられているのも分かっているし、そりゃ『いいよ、いいよ』って物わかりが良い人間の方が気持ちいいだろうってことぐらいは分かるさ。そのほうが皆に好かれるんだし」
 永野さんはそこまで言うと、タバコに火をつけて自分の席に腰を下ろした。僕は首をうなだれて立ったまま永野さんの言葉を聞いていた。正午を回ったようで、食事に行くために席を立つ社員が多くなった。ザワメキ始めている。
「俺だって、本当はクリエイティブにもっと力を入れたいんだよ、お前みたいに時間をかけて」
 少しだけ、寂しそうな表情が永野さんの顔に浮かんだ。 

 三ツ谷さんも立ち上がりながら、スタンドのスイッチをパンと叩いて明かりを消した。永野さんを視界に入れないようにして僕の方を見た。大丈夫バイ、辛抱、辛抱と僅かに頷きながら視線でサインを送ってくれたものの、残念ながら僕の心の状態は大丈夫ではなかった。殴られすぎて破れてしまったサンドバッグから、ボロボロになった誇りと闘争心が床に落ちようとしている。
 
「たった一行のコピーをカットし忘れただけで、店と従業員はひどく恥ずかしい目にあうんだ。半額の花柄ワンピースくださいってお客さんが来たらどうすんだよ? 紛らわしいことになって、お客さんにも迷惑がかかるんだぞ」と、永野さんは疲れを感じてきたのか、ゆっくりとした口調になっていった。
 永野さんは僕の方を見ずに、カラーチャート表を引き出しに仕舞いながら立ち上がろうとしている。もういいぞって言われた僕は言葉を失ったまま、硬い表情でドアに向かった。社外でランチなど食べれる精神状態ではなかったが、一刻も早くその場を離れたかった。
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by hosokawatry | 2008-10-25 16:57 | ブログ小説・あの蒼い夏に

コスモス揺れてイノシシ興奮

a0071722_18433976.jpg 僕の散歩コースのひとつ、能古島はコスモスでいっぱいでした。コスモスが咲き乱れている島の最北端にあるアイランドパークまでは、船着き場から歩いて40〜50分かかります。西鉄バスがあるので無理して歩かなくてもいいのですが、僕は歩きたいから歩くのですけど…。

 若い女性はブーツ姿が多く、中には高いピンヒールのようなブーツを履いている人もいて、大丈夫かななんて心配してしまいます。入園料を払って、公園の中に入るわけですが、勾配がきつい坂の連続なので、スニーカーの方がいいと思いますが。こんなことを言うファッションに理解のない人間は引っ込んでいなさいよ、出る幕じゃないわ、なんてお叱りを受けそうですが。

 コスモス園の先には志賀島が見えます。寝転んで空を見上げると青空に絹の薄衣のような白い雲がかかっていて、吸い込まれるような気分に襲われます。空は寝転がって見るに限ります。ストレスって何だったかな? 嫌なことも忘れさせてくれそうです。どこでもいいから、一度、試してみてください。効果あります。

 島中に「イノシシ出没注意」の立て札が立っていました。昨日は近所の小戸交差点(けっこう、車の量が多いところ)にイノシシが出没して、焼肉のウエストのドアをぶち破って逃げて行ったのだとか。ひょっとして、能古島から1キロくらいの距離がある小戸公園まで、博多湾を泳いで渡ってきた体力に自信があるイノシシだったりして。何日か後に、ウエストの焼肉メニューに「イノシシのカルビ」とか出ていたら、要注意です。こんなこと、あるわけないよね。すみません、ウエストさん。
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by hosokawatry | 2008-10-19 18:46 | やさしく歌って・自由日記

あの蒼い夏に 〜チラシづくりの青春・27〜




                    27



 雲の多い夜明けがやって来て、不愉快な目覚まし時計のように、僕のべたつく首筋をなでまわしていった。心なしか蝉の鳴き声が小さく聞こえる。早朝から日差しがキツいのも嫌だけど、光に満ち溢れていない朝も魅力に欠ける。曇天が今にも泣き出しそうだ。

 僕たちはそんな天気を気にせず、3度目のランニングをするために大濠公園に向かった。途中、思ったとおりに、黒い雲が支配する空から大粒の雨が降り出した。ザーッというアスファルトを叩く音の激しさに少しは躊躇もしたが、そのまま濡れながら池の周回コースまで走った。強い雨脚は衰えそうになく、舗装道路で跳ねては僕たちのやる気を確かめている。
 大濠公園の周回コースは地面で跳ねた雨水が表面にうっすらと流れを作り、路肩で光り始めていた。ジョギングしている人はほとんどいない。池の水面に青い光はなく、どんよりと鈍いグレーが、雨に打たれながら忍耐の模様を作り出している。
 そんな皆が忌避する条件下で、僕たちは走った。心肺機能強化や筋力強化が最終目標ではない。真っすぐな生き方に近づくことが出来るように、「人生の呼吸」を整えるために走り始めたのだ。佐里君にもきっと良い影響をもたらすことを信じて。
 
 雨に打たれて大きく枝を揺らす柳の先に、動きがスムーズではないランナーの後ろ姿が見えた。黒いスエットシャツとパンツを身につけている。その様子は、まるで黒いスエットシャツをかけた衣紋掛けが、左右に揺れながらのそのそと走っているようだ。
 衣紋掛け…。
 衣紋掛け、衣紋掛け。突然、頭の中の白熱電球がストロボのように強く発光した。同時に中枢神経が危険を察知して、警戒信号を放った。
 通勤バスの中で急ブレーキを踏んだ運転手を怒鳴ったパンチパーマ。夜の屋台の前で、かすみからアスファルトの泥水を跳ね上げられた白いスーツ姿。
 まさか、まさかと思いながら、ドキドキする胸で3メートル程離れた外側を慎重に追い抜いていった。抜き去る瞬間、気付かれないように眼球だけをサッと動かして人物確認をした。
 やはり、あの怖いお兄さんに間違いなかった。くわばら、くわばら。
 抜き去ってからは無意識のうちにスピードが上がったのだろう。普通に走る佐里君を大きく引き離してしまった。泥水を跳ねたときのことはもう済んでしまっている。きちんとかすみと一緒に謝って許しを得ているので、こそこそと逃げ回る必要はなかったはずだ。しかし、僕はライオンに追われるイボイノシシのように前だけを向いて、懸命に脚の回転を上げて走っていた。パンチパーマのお兄さんから少しでも遠くに離れたかったのだ。

 僕は小降りになった舗装道を駆け抜けて、発着点のボートハウスにたどり着いた。佐里君を見るために振り返った。
 まずい。佐里君のすぐ後方に、負けまいと頑張っているパンチパーマの黒いスエットシャツが続いている。
「パンチの兄ちゃんと顔を合わせたくないんだろ。こういうときは、さっさと自分一人で帰ってしまうんだよ」
 悪魔のささやきに、佐里君より先に大濠公園を後にしようとも思ったが、僕には出来なかった。かかわりたくないと思いながらも、その時が迫っている。
 バンジージャンプのダイブを決心する高所恐怖症者のように、僕は観念した。

 佐里君がボートハウス前に駆け込んで来た。間髪を容れずに、ぐちゃぐちゃと靴音を立てながらパンチのお兄さんも勢い良く傾れ込んで来た。
 パンチのお兄さんは腰を折ってキツそうに、大きな呼吸を繰り返している。
 僕は佐里君に「行こうか」と声をかけようとした瞬間、パンチのお兄さんの声よく通る声が響いた。
「ふ〜っ、あんちゃん達は元気やねえ、息があんまり乱れとらんごたる」
 僕は目を合わせて話したくなかった。しかし、習慣というものは怖いもので、パンチパーマの下に細く開いてる目を見つめて、つい「はぁ」と返事をしてしまった。
「ん? 」
 パンチのお兄さんの目が少し丸くなった。
「あんちゃんは何処かで?」
 首を傾げながら僕を見据えている。
 入れ墨をしたパンチパーマのお兄さんから、力のある細い目でまじまじと見られることなど、気持ち良いはずがなかった。蛇ににらまれたカエルの気持ちが痛い程分かるような気がした。佐里君は雨でべたっと貼付いた髪の毛のまま、静かにお兄さんを見ている。
 
「以前、冷泉公園の屋台の前でお会いしました」
 僕の心臓は背中をポンと叩かれたら、口から飛び出しそうな状況下にあった。ドキドキしながらも僕はきちんと話しをしようと試みた。「泥水をかけてしまい、大変ご迷惑をおかけさせてしまい、い、いや、おかけしてしまい申し訳ありませんでした」
 僕はまたぺこりと頭を下げた。
「ハハ〜ン。あん時のあんちゃんか」
 パンチのお兄さんは口元を緩めたものの、目は笑っていない。
「そげん何遍でちゃ、謝らんでよかタイ」
「ハァ…」
「それよか、こげんハヨからランニングバするやら、感心っタイね」
「………」
 僕の顔を眺めた後、佐里君の白くて華奢な顔を見て、ようやくお兄さんの怖い目が緩んだ。
「それに、こげな雨ん中バね。感心、感心。あんちゃん達は優しか顔ばしとるとに、気合いが入っとるバイ。ほんなこつ、うちの若いもんにも教えてやりたかくらいタイ」
「………」
「最近の若いもんは苦労バいやがるけんな。もっと先のことバ考えて、少しは我慢することも覚えないかん。我慢せにゃいかん」
 声がさらに大きくなり始めた。「大切なもんが分からんやつが増えすぎたバイ。年寄りバ大切にしようとせんし」

 はぁと相槌を打ちながら、この場が緊張感に支配されないようにと、作り笑いをすればもっと楽かもしれない。しかし、そうすればかえってぎこちなさが露呈しそうだったので、僕はじっと目を動かさず、そして黙っていた。佐里君は相変わらず寡黙だ。じっと立っている。

「いつも走ってるのですか?」
 そのつもりはなかったのに、緊張のせいか、思わぬ質問が口をついた。
「ああ、このあいだからタイ。いつもは夜走りよるとバッテン、昨日は用事で走れんやったケン、今走りよったとタイ」
 どうしてこんなに良く通る声なんだろう。お兄さんが喋る時には雨音が聞こえなくなる。

「とばしりバかけられて、タクシー追いかけた時、全然駄目やった。昔は走ることは苦にならんやったとに、すぐに息の切れてしもたケンな。鍛え直さにゃいかんと思うて、走り始めたとタイ」
 昔、走ることが苦にならなかった、という走り方はどんな走り方だったのだろう。やはり、あの衣紋掛けの横揺れみたいな走り方だったのだろうか。僕は思わず笑いそうになってしまった。危ない、危ない。一瞬だけ緊張が緩んでしまった。

 良かったら、あんちゃん達、一度遊びに来んね? と最後に誘われた時、僕は冷や汗を押さえながら丁寧に断った。じゃあな、と、ようやく解放してくれたが、2〜3分が20〜30分にも感じた。
 雨が上がっていたことさえ、僕は全く気付かなかった。
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by hosokawatry | 2008-10-14 10:54 | ブログ小説・あの蒼い夏に

あの蒼い夏に 〜チラシづくりの青春・26〜


                  26


 永野さんが覗き込んだ僕のノートには「あなたに感謝」と大きく書いてあった。その下には初商用の「もっとあなたのために」というフレーズが並んでいる。

「『感謝&挑戦』というコンセプトから出て来たコピーです」と、僕の机の横に立っている永野さんに言った。
「それはまあ、いいんだけどな。他にはないの? 他の切り口のヤツは」
 永野さんは僕のノートを手に取ってさっと目を通した後、机にポンと放り投げてよこした。
「もう少し、違ったコンセプトがあってもいいんじゃないか」と永野さんは僕を見ながら言った。「最初のミーティングはアイデアが沢山あったほうがいいんだよ。分かるだろ?」
「ええ」と僕は頷いた。
「最初はアイデアラッシュに近いんだよ。それが、これだけじゃ全然物足りないよな、えっ?」永野さんの指が野瀬課長のように、こんこんこんと僕の机を3回叩いた。
「すみません」
 永野さんの言葉がエアコンの冷気よりずっと冷たく感じた。

「こんなんじゃ、今日のチームミーテイングはだめだな。先週の予定だったのを、お前が今週にして下さいと言ったので、無理やり延ばしたんだよ。それなのに、何だよこれは。ひとつだけじゃないか」
「はぁ」と、僕はうなだれた。

「今日は中止だ、中止だ」
「…………」
「結構忙しいはずなのに、先週の追い山の日は早く帰って飲みに行くし、徹夜して翌日はヘロヘロで仕事にならんし。その仕事を休日に回すなんて、言語道断だ。お前の土曜出勤だって、会社は超過勤務手当払ってんだよ。分かってんのか」
 僕は今回の土曜出勤にはタイムレコーダーを押さなかった。自分の都合で出勤せざるを得なくなったからだ。僕は下唇を噛み締めた。

「そして、土曜日に出てもまだ、この程度というわけか」
「…………」
「いい加減にしないとな」

 永野さんが僕の机に置いていた手を離そうとしたその瞬間、さっと影が走り、飛び込んで来た。
 三ツ谷さんが年上の永野さんの胸ぐらをつかんでそのまま強く押した。右フックをお見舞いしようとしたが、すでに身体がすっ飛んでいた永野さんの鼻をかすめただけだった。
 永野さんの身体は版下墓場のスチールラックに尻から突っ込んだ。どさっと音を立てて倒れこんだところは、使用後の版下の束の上だった。後頭部をラックで打ったようにも見える。

 緊張感が職場を走った。椅子から立ち上がる音がいくつも聞こえてくる。ワタリ係長が慌てて駆け寄って来て、二人の間に割って入った。
「土曜日に出て来た衆矢はあんたの担当の仕事ばしよったとバイ」三ツ谷さんは青白い顔をして、興奮を抑えながら永野さんに言った。「その処理で、長い時間ばかけて印刷所に行ったとバイ」

 永野さんはパンチがかすった鼻の先を指で触りながら、三ツ谷さんを睨んでいる。鼻から血が滲んでいる。
「それに、衆矢は自分の都合で勝手に残業ばつけるような人間じゃなかことぐらい分からんとですか? あんたは」

 フロアに居た多くの人間の目と耳がその場に注がれていた。気がつくと僕は三ツ谷さんを背後から羽交い締めにしていた。
 三ツ谷さんはなおも固めた拳を緩めずに前に出ようとした。僕は僅かに前に引き摺られたが、三ツ谷さんは懸命に止めようとする気持ちを分かってくれ、やがて、拳を緩めた。
「何も知らんと、よう、そげんかことば言うタイね」
 三ツ谷さんは諦めにも似た表情で、ゆっくりと静かに言った。

 永野さんは手を差し出すワタリ係長の手を借りずに、ゆっくりと起き上がった。痛みを感じ始めたのか、後頭部を右手で押さえながらトイレに向かっている。
 僕は三ツ谷さんにすみませんと言った。三ツ谷さんは衆矢は心配せんでもヨカ、人の気持ちがわからんヤツが一番悪かタイと言って、ネクタイのゆるみを締め直しめながら自分の席に帰っていった。

 しばらくして野瀬課長がワタリ係長と永野さん、三ツ谷さんと会議室に入って行った。すぐに僕にも招集がかかり、会議室の椅子に座らされた。課長は僕たちにいくつかの質問をする際、今日も計ったように中指で机の表面をこんこんこんと3回叩いた。
 後輩をかばう気持ちは分かるが、その行動はどう考えても社会人のとる振る舞いではないと三ツ谷さんがまず怒られた。本来なら、社内暴力は処分の対象だが、今日だけは大目に見ておくということだった。僕は仕事の段取りをしっかり組み立てること、永野さんは人の気持ちをもう少し分かってやれと言われた。僕たちは10分後に解放され、三ツ谷さんは、納得がいかないという仕草を僕に示しながら席に着いた。
 
 藤木女史が運んで来てくれたお茶を飲みながら、僕はふ〜っとため息まじりのセブンスターの煙を吹き出した。月曜日の午前中がこれでは、今週も思いやられる。結局、チームミーティングは二日後に行うようになった。チーム編成に変更はなく、ワタリ係長の指示で永野さん、三ツ谷さん、僕の3人でこれからも進めることになった。僕は水と油の融和剤にはなれそうもない。仕事そのものも頼りないが、そう言う意味でもヤッパリ僕は力不足だ。
 笠木君がコピーを取りにいく時、僕の肩をポンと叩いていった。先ほどから永野さんと三ツ谷さんは視線を合わせようとしない。競合プレゼンの順番を待つ控え室のように、空気が緊張して妙によそよそしい。
 蟹の指を持つ金井さんが僕のセブンスターを目指して歩いてくる。僕はもうひとつため息をついた。
 
 ブラインド越しの梅雨もまだ明けていない。晴れていた空に黒い雲が姿を見せ始めている。


 アパートのドアを開ける前から、カレーの匂いを確認することが出来た。午後10時過ぎの僕より、早く帰宅することが出来た佐里君が晩飯を作ってくれていた。月曜日は週の中で、写植打ちの仕事は少ない。月曜の料理当番をかって出た佐里君のディナーはカレーライスだった。
 僕たちは一本の缶ビールを二人で分けて乾杯した。佐里君の身体に入るアルコールを制限しなくてはならない。その災難は共同合宿者の自分にも降り掛かってくる。残念ながら、コップ一杯のビールで我慢しなくてはならない日が続く。
 天神ビルの地下に店がある、火を噴きそうなサムソンの死に辛カレーほどではないが、けっこう辛いカレーだった。中洲にある湖月のサラッとした美味しいカレーよりはトロッとしていて、味も悪くはなかった。僕は氷をぎっしり詰めたコップに水を注いでは、飲み干すことを繰り返した。そして佐里君が買って来た小ぶりならっきょを、カリッと噛んだ。

 明日からの晩飯について話し合った。明日の夜からは午前様になる可能性も高く、二人で食べられなくなることが予想される。
 当日、早く退社できる方が会社を出る前に相手に電話するようにすること。晩飯のことは、その時の状況を判断して決定すること。予め深夜になることが分かっている場合は、夕刻に職場の近くで自由に食事をしてよいこと等を決めた。長く続かせるコツは、柔軟なルールにあることだと、僕は信じている。

 カレーを食べながらも、三ツ谷さんに殴られ、鼻を押さえながら睨み返している永野さんが何度も頭に浮かんだ。しかし、いずれもすぐに消えていった。今は佐里君を元気にすることが先決だ、悪いけど。

「FMをつけててもいいかい?」と、僕は灯りを消す前に佐里君に訊ねた。
 佐里君はハイと言って、タオルケットに身を包んだ。「問題ないです」
 ニール・ヤングのハーベストというアルバムに入っているダメージ・ダンが流れている。曲は気に入っているがジャンキーの内容だ。僕たちの明日には関係ない歌だ。
 僕は光る汗と少し日に焼けた佐里君の顔を思った。大濠公園の壕の外周を駆け抜けるスレンダーな体躯が脳裏を過る。しなやかな髪の毛をなびかせる佐里君の夏の早朝。佐里君が元気を取り戻していく姿をイメージすることが出来る。僕は久しぶりの満足感に包まれていた。
 
 今夜は僕がベッドで寝る番だった。僕は両手を伸ばし、組んだ手のひらを頭の下に置いて、開いた窓から夜空を眺めた。雲間にのぞく星がウインクしたように見えた。
「頑張ってネ、河村クン。ワタシ応援しているから」とかすみの声が心地よく響いてきた。
 さあ、明日の朝が待っている。
 佐里君はまだ、眠りについていないようだ。ゆっくりと寝返りを打っている。
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by hosokawatry | 2008-10-04 19:43 | ブログ小説・あの蒼い夏に