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あの蒼い夏に 〜チラシづくりの青春・31〜




                    31




 洋封筒が新聞受けに入っていた。郵便切手の上に、福岡ではない郵便局のスタンプが押されている。封止めシールのピエロは笑っていた。かすみからだ。今日はかすみがゼミ合宿から帰ってくる予定だったはずなのに、なぜか手紙が舞い込んでいる。僕はシャワーを浴びる前に、封を切って読み始めた。


こんばんは、河村クン。

勤労青年はどうせ今日も午前様でしょうから、
挨拶はまた「こんばんわ」にしました。
河村クンのアパートの電話機は休日以外は役に立たないので、
前回に続いて連絡は手紙で、というところ。

絶対にあり得ない話だと思っていたけど
このワタシがまたまた手紙を書くだなんて、ハハハです。
友達が聞いても絶対に信用しません。
しかしこれも、仕方ないことなのダ!
バカボンのパパ風の嘆き、第2弾!
このままだと案外本当に、手紙魔になっちゃうかもね。
(本当は、電話に出てくれるのが一番いいんだけど…
そうなると、バカボンのパパの喋り方で
手紙など書かなくてもいいのに…)


まだ合宿中だけど、自分の中では盛り上がりに欠ける状態。
ゼミの担当教授だけはやる気ムンムンで
彼氏がいるものはハッパフミフミ頑張れよ!
もらった男はカキチョビレなんて、
訳のわからない古いギャグ(?)を言って
一人で盛り上がっている有様です。
明日は合宿最終日で、現地解散になっているんだけど
教授だけ、安心院のオオサンショウ・ウオ〜を見に行くんだって
吠えながら張り切っています。変な人なんですよ、ホントに。
せっかく由布院に来たのだから
温泉めぐりとかすればいいのにね。

ところで、この手紙を河村クンが読む頃には
ワタシはもう由布院から福岡に帰り着いていると思います。
それで、お土産もあるし、今週の土曜日に会えないかなって。
金曜日はいつものように花屋さんでバイトしています。
電話ください! 待ってるから。

追い山の夜、公園のベンチで、サマージャケットを
ワタシにかけてくれた素敵なナイトに「おやすみなさい」を贈ります。    
                                                                     かすみ


 佐里君が居なくなって心の中のぽっかりと開いた穴を、かすみの手紙が埋めてくれた。二度目のチラシミスの傷も癒えていない状況下だったので、救われた思いだった。
 不安定な僕の心は、かすみの文章の向こう側にある笑顔を想い浮かべることだけを求めた。そして頭の中で、追い山の夜のキュートな赤いTシャツ姿を思いっきり抱きしめた。


 翌日、僕は永野さんたちが席を立った昼休みに、かすみへ電話を入れた。明日の土曜日、エクソシスト2を見に行かない? 冷えそうだから夏にぴったりだと、かすみは僕に勧めたが、考えとくよと言って待ち合わせ時間だけを決めた。
 佐里君のことが気に懸かるが、斜め前からの永野さんの視線も気になる。さりげなくステップ写植に電話を入れたが、佐里君は今日も出社していないということだった。会社に理由も告げずに欠勤し、アパートにも居ない。始めたばかりだが、共同生活者としての僕への連絡もない。
 佐里君は二十歳で、もちろん社会人としての経験は短い。だからといって、誰にも連絡せずに姿を消してしまうことが許されてもよいなどと、考えてしまうほど底の浅い人間ではなかった。年上の僕が及ばない程の思慮深さは、仕事のやり取りからでも分かっているつもりだ。
 僕は納品されたメンズショップの招待状の写植を眺めた。へルベチカの書体で打たれた『INVITATION』。昨日打ってくれたその写植は、まるで佐里君が用意してくれた「謎」への招待状のようだった。考えれば考える程、深まる謎に足を取られていく。昨夜見た、あの嫌な夢。底なし沼のような蛇の蠢く大地にぬるぬる・ずぶずぶとめり込んでいく感覚が蘇ってくる。

 僕は三時のアポを取っていたので、恵屋の花咲店に会社のライトバンを走らせた。エアコンの付いていない車だったので窓全開で走ったが、その程度で許してくれるほど、夏は甘くなかった。思いっきりネクタイを緩めたが、それも何の役にも立たない。止めどなく汗は流れ、白いボタンダウンシャツを容赦なく濡らした。動物園の夏のシロクマはどうしてあんなに我慢強いのだろう。
 冷房の効いた店内は天国だった。車を降りた僕は商品搬入口横の業者出入り口から、売り場を通って店長室に向かった。

「僕がお願いした狙いについてはよく表現できている。メリハリがついていて、パンチ力を感じるいいチラシが出来そうだ」と咲田店長は言った。「後で必ず、北海道物産展とバッグ&シューズフェアのタイトルの前に気が利いたコピーを入れといてくれる。ほら、母の日セールの『愛すクリームを贈るセンス』のようなやつを。おかげで母の日のプレゼント用に高級アイスクリームがよく売れたもんな。ただの『母の日アイスクリームギフト』じゃ、駄目だったんじゃないかな」
「はい、頑張ります」
 僕は店長との間に芽生えかけている信頼関係を目の光で確認した。
「力のあるコピーだったら、それを大きくして、タイトルを小さくしても良いし」
 咲田店長は受け手に何を伝えるべきか、消費者への言葉を大切にしている人だ。過去にラブレターを出したことがあるに違いない。
「今のチラシはほとんどが商品写真と品名、価格情報だけだろ。販売促進のためにも、もっと多くのことを紙面で提案すべきだと思うんだ。そんな時に、広告表現が必要になると思うね。表現力の的確さや巧みさが。広告代理店以外の会社も考えた方が良いと思うが、どうだろう?」
 スケッチ用紙をくるくると丸めながら、店長は頷く僕にありがとうと言って微笑んだ。
 僕の気分は少しの時間だったが、満ち足りたものになった。久しぶりの雨に恵まれた植物の毛細管現象のように、仕事が上手くいった安堵感が染み込んでいく。会社への帰路、久しぶりに余裕を持って黄色信号で停車することが出来た。

 夕刻に帰社して、一番にステップ写植の社長に電話をした。
「え、えらい迷惑かけてすみません。何か分かったら、す、すぐに河村さんに連絡入れますわ」
 ハンカチで汗を拭く太った社長の姿が目に浮かんだ。

 浮かない顔をしている僕に、笠木君が「飲みに行かないか」と誘ってくれた。キヨシ君と営業の前田も行くらしい。このところ暗い顔の多い僕を元気づけようとしてくれている。
「クリスチナ・リンドバークみたいな娘が居るところなら良いよ」
僕は精一杯の明るい返事をした。笠木君はにやっと笑って、頷いた。
 
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by hosokawatry | 2008-11-30 19:51 | ブログ小説・あの蒼い夏に

188殉教者列福式

a0071722_1291147.jpg 江戸時代、カトリック信仰への迫害に屈することなく、命を神へささげた人々がいました。ペトロ岐部と187殉教者は徳川幕府のカトリック禁止令のもとで、信仰を貫き、殉教した人々です。関ヶ原の戦い後の1603—1639年に、全国各地で無抵抗のうちに命を奪われた人々を、福者に認定する式がありました。

 殉教者の中には、歴史の時間に習った記憶のある、少年遣欧使節の一人としてヨーロッパに渡った中浦ジュリアンも含まれます。司祭・修道者以外にも武士や町民など、多くの子供を含む人々が犠牲になったそうです。指を切り落としていく拷問。はりつけ以外にも、雲仙地獄に落とされたり、凍り付く冬の海に投げ込まれるといった悲惨な殺され方をされました。絶対に許されることではありません。

 日本のこういった殉教者へのはからいを、カトリックの総本山の手によって行われることに意義があるそうです。式は、教皇ベネディクト十六世によって教皇代理に任命された方も来日して行われました。

 予報どおりに強い雨も降り、長崎を取り囲む山は雲に取り囲まれていました。式の途中では、明るい日差しが差し込む眩しい瞬間もありました。黒い雲間を縫って、声なき声が祈りを受けて通り過ぎていきました。1200人の聖歌隊の賛美歌があまりにも美しくて、魂が洗われた感じです。日本全国、アジアの国々から3万人を集めた長崎ビッグNスタジアムでした。
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by hosokawatry | 2008-11-25 01:31 | やさしく歌って・自由日記

あの蒼い夏に 〜チラシづくりの青春・30〜





 
                    30


 僕は何分もの間、水のシャワーを頭からかぶり続けた。脳に張り付く嫌なものを流すために、そして失敗を責め続ける若くて熱い責任感を冷ますために。
 寝る前に、たて続けに二杯のウイスキーをロックで流し込み、タバコ二本を空しい煙にした。
 眠りに就こうとしている全ての細胞の中で、脳神経だけが駄々をこねていた。疲れ切っているのに、意識だけが冴えてくる。タクシーの中ではあんなに眠かったのに。「車内に睡魔の忘れ物をしました」だなんて、誰に申告すればいいのだろう。テニスコートを渡ってくる風にカーテンが揺れても、熱を持ったしつこい失敗の罪悪感は立ち去ろうとしない。
 眠ろうとする努力が、下肢にだるさを運んできた。二杯のナイトキャップが裏目に出たのかもしれない。熱帯夜が熱い両手で、僕の脚の神経を逆立てる。数え切れない程の寝返り。虫が足首をむずむずと這い回る。擦り減る忍耐。僕は叫び声を上げたくなるのを必死でこらえ続けた。

 どこかですすり泣く声がする。
 僕の中に曖昧な意識が蘇ってくる。ベッドの上からは声の方角がよく掴めない。どこかで聞いたような声だ。いや、今日も耳にした近在する肉声だ。忍び寄るただならぬ気配に僕は揺り起こされ、暗闇の中を歩き出した。
 光のないキッチンの方から泣声が聞こえている。僕が向かいかけると、今度は真反対のバスルームの方角から声が聞こえ始めた。僕は静かに方向を変え、忍び足で扉に近づいた。すすり泣きの声が大きくなってくる。
「誰?」
 返事がない。
 僕はそっとドアノブを回した。その瞬間、扉は引き込まれるようにドンと内側に開き、中にいた白い何かがバスルームの壁を突き破り、暗闇の空間へと弾かれたように飛び出した。僕は目を見開いた。その白く丸いものは少年の姿をしていた。子宮内の胎児のように膝を抱くポーズをとり、丸くなっている。その白い身体は飛び出す瞬間、膝を抱く手を解き、僕に向かって必死に腕を伸ばそうとしていた。
 僕に救いを求める白い手。

「佐里君?」
 僕はとっさに右手を差し出していたが、掴むことは出来なかった。

 僕は何も顧みずに白い手の後を追って、暗闇の空間に飛び出した。すぐに訪れた不思議な浮遊感に気づいた。僕はスーパーマンのように宙を飛んでいる。追跡しながら、空を飛べる感動に震え、これまでに感じたことのない高揚感に包まれた。
 なんという自由感なのだろう。僕は誰にも、何からも束縛されずに、自由に追いかけたいものを追いかけている。目的までの時空は希望と可能性に満ち溢れている。僕は両手を広げ、自由の甘美さを全身で味わいながら飛び続けた。
 急に視界が開け、闇の空間が夏の夜空に入れ替わり、広がった。未体験ゾーンに入っていた僕は白い手を追って白鳥座の方角を目指していたが、それもすぐに見失ってしまった。猛烈なスピードでベガの横をすり抜けると、今度は暗黒の中に仄めく明かりが手招きしていた。
 躊躇なく明かりの方に向かうと、次第にすすり泣く声が大きくなってきた。接近するにつれ、発光する球体がブルーだということが分かってくる。全景が俯瞰できると思ったとたん、もう次の瞬間には海に閉じ込められた陸が大きく広がっていた。そして猛烈な速さで森が近づいてきて、視界を樹林が支配した。森に衝突しないように僕はスピードを緩めて、宙の中でゆっくりと浮遊した。
 さらに僕は慎重にゆっくりと進んだ。泣声は強くなってくる。泣声の方角に蠢いている生命体の気配がある。地表近くを飛んでいくと、重力の重みを感じ始めた。僕は得体の知れない何ものかに引き寄せられている。近づいてくるものに目を凝らした。引き寄せられる先に蠢いているのは、ぬめぬめとした蛇の塊だった。相手の身体に巻き付きながら、泣声のような音を立てている。互いに相手の自由を奪おうと絡まりあっていた。どこまでもぬめぬめと続く蛇の不快な地平。僕は味わったことのない恐怖感に襲われ、硬直していくのが分かった。
 急速に自由が失われようとしていた。両手を広げ直しても上昇できなかった。喘ぐ程、強くなる重力に引き込まれ、最後には猟銃で撃たれた鳥のようにまっしぐらに暗鬱な蛇の世界へ落ちていった。


「お前が考える自由や友情なんて、甘っちょろくて、社会じゃ通用しないんだよ」
 落ちていく頭の中で黒い悪魔の声が響き渡った。永野さんの声にも似ていた。

 足首に蛇の湿った感触が伝わってくる。
「佐里君」と僕は大声を上げていた。
 僕はベッドの上で体中に嫌な汗を浮かべていた。奇妙な夢の結末に訪れた恐怖感。ずぶずぶと蛇の群れに脚がのめり込んでいく、言いようのない皮膚感触。僕は完全に目覚めてしまった。苦労を重ねて手に入れた睡眠を手放してしまったことに落胆した。
 佐里君の姿は部屋になく、しんとした無機質の月明かりだけが静かにベッドの影を床に描いている。扇風機はタイマー切れで、佇んでいる。ふ〜っ、僕は今夜、もう一度寝ることに挑戦しなくてはならない。


 佐里君はついに姿を見せなかった。
 僕は大濠公園を走る間、ずっと佐里君のことを考え続けた。

 どうしたんだろう? 

「はい、へルベチカにします」と、昨日は嬉しそうな声をあげて電話を切った佐里君。
 写植の仕事は徹夜をすると、翌日の精度と生産性が一気に落ちてしまうので危険だ。だから、徹夜はしないはずなのに。
 出勤時、バラの洋館に女の子の顔はなかった。佐里君はいない。かすみはゼミ合宿旅行中だ。嫌な想いが残る「気の重い職場」だけが僕を待っている。悩んでいても仕方がない。僕は乗り込むバスの整理券を思いっきり引き抜いた。7月21日、夏休みの初日。博多祇園山笠の「追い山」から一週間も過ぎていないのに、いろいろなことが起こりすぎている。

 佐里君の会社に電話をかけると、今日は休んでいるということだった。すぐに佐里君のアパートに電話をかけたが、いつまでもコール音が鳴り続けるだけだった。昨夜の夢の中で、僕に向かって手を伸ばしたのは佐里君だったはずだ。助けを求めていたのだろうか。僕は勤務時間中に、近くの永野さんの視線を気にしながら、何度も佐里君のアパートに電話をかけ続けた。結局、夕刻までに佐里君からの連絡はなかったと、佐里君の同僚が僕に電話をくれた。
 佐里君は例の友達のところだろうか。僕は会ったこともない佐里君の遊び友達のことを思った。嫌な予感がするものの、僕には解決策がなかった。どこに行けば良いのかも分からない。考えても途方に暮れるだけだった。
 深夜過ぎに仕事を終えた僕は、今日手に入れたばかりの佐里君のアパートの住所へタクシーを走らせた。探し出したアパートの部屋は鍵がかかっていて、磨りガラスの奥は暗かった。僕は念のためにドアをノックし、ロックされているドアノブをガチャガチャと回してみた。思案に暮れながらタバコに火をつけると、僕の脇をカップルが怪訝な顔をしながら通り過ぎていった。

 辛くて泣いていなければいいのだけど。

 僕は夜の闇の中で立ち尽くしていた。
 
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by hosokawatry | 2008-11-16 19:05 | ブログ小説・あの蒼い夏に

あの蒼い夏に 〜チラシづくりの青春・29〜



                    29



 僕はフラフラと綱場町に向かった。一人っきりで食事を取れる場所が必要だった。うちの会社の人間が普段はあまり行かないラーメン屋へと、無意識のうちに足は動いていた。車で満ち溢れている大通りの騒音も耳に入ってこない。周囲の光景はよそよそしく流れていき、僕は疎外感に占領されていた。信号の色が赤に変わったことすら分からなかった。ずいぶん大きなクラクションが飛んできたことも、今日の記憶に残らないだろう。
 博多で二番目においしいラーメンという過激なフレーズが出ている「柳生」という店に入った。ひっそりと老夫婦が営んでいる路地裏のラーメン屋だが、古いタイプの博多ラーメンの味はけっして悪くない。
 注文を済ませたその瞬間に、入り口の引き戸がガラガラと音を立てた。
「やっぱり、河村さんだわ」
 聞き覚えのあるそのかん高い声は婦人服のモデルの声だった。カメラマンも一緒だった。撮影途中で昼食をとりに来たのだろう。そのモデルはよく喋ることで有名だった。
 僕は湯気の向こうに見える14型のテレビを見るふりをして、天井のシミを眺めながら静かにため息をついた。一人になりたいという、敗者のささやかな願いさえも奪われていく。

 僕の午後はこれまでに味わったことのない苦さを振りまきながら、カタツムリのようにゆっくりと過ぎている。あのいまいましい「花柄ワンピース、半額」のコピーへの対処は、売り場で担当者が謝って理解を求めるということだった。とにかく、来店客に迷惑をかけてはいけないのだ。我が社からも念のために、営業の人間がひとり開店前に入るようになった。
 梅雨明けしたのだろうか。雨は昨日で上がり、今日は暑くて蒼い夏空が広がっている。いまだに湿っているのは僕だけだろう。僕は博多の街の不幸を全て背負ってしまった。世の中は明日から長く楽しい夏休みに入ろうというのに。僕は絶望の淵から、さらに出口の見えないブラックホールに落ち込もうとしている。
 僕の仕事ぶりは素人の空中ブランコのように危険過ぎるのだろうか。少なくとも野瀬課長や永野さんの目にはそう映ったに違いない。僕はすでに、周りの多くの人を巻き込んでは、かなり危険な目に遭わせている。
 能力の無さに落胆した心は惨めな貝になり、殻を閉じようとしていた。「たった一回のミスで、信頼というのは吹き飛んでしまうんだよ」と、永野さんの声が暗闇の中に響く。お前はだめなやつだ、この仕事はもう無理だ、と頭の中で黒い悪魔も囁いた。二度の失敗。得意先とこの会社に迷惑をかけすぎている。これはもう、辞表ものだろうか。
 僕は職場の中で、ひとりぼっちを味わっていた。周りの社員の動作が自信に満ち、これまでになく表情が活き活きしている。電話の呼び出し音と話し声、コピー機の動作音、椅子を引く音。折り畳んだコピー用紙を広げる音。本当の孤独は静寂の中にはない。ひとりぼっちの寂しさはジングルベルが流れる雑踏の中に見つけることができる。ブルーな気分は何回も経験済みだ。
 笑い声が矢になって、容赦なく僕の心に向かって飛んでくる。

 青二才だろうが、それでも僕はプロの端くれだ。負けてはいられない。気を取り戻そうと歯を食いしばった。今週末に提案するラフスケッチに取りかからなくてはならない。恵屋花咲店の一周年記念祭のチラシ原稿を広げた。咲田店長が楽しみにしてくれているので、期待を裏切るわけにはいかない。
 僕は本社の企画室から届いていた、有名スーパーのチラシと東京の百貨店のチラシを広げた。企画室で収集している全国のチラシサンプルからの貸し出し依頼資料だった。靴とバッグのフェアを大きく取り扱っているチラシ、北海道物産展の特集が掲載されているチラシを俯瞰した。咲田店長が靴とバッグ、北海道物産のセールに力を入れたいと言っていたからだ。
 タイトル訴求力、アイキャッチの表現力、商品コーナータイトルおよびコピーの誘導力、そして完成度が量れる紙面全体の構成力。僕は気になったチラシを選り抜き、エッセンスを抽出した。それを今回のチラシ制作コンセプトの表現に利用した。開店一周年だから、「メリハリがついた美しさと元気のよいデザイン」に狙いを定めていた。

 「もうそんな悪あがきは止めておけ。お前は能力なしだ。すぐに足を洗うべきだ」と黒い悪魔が耳打ちする。僕はその都度ペンを止めて、何回も深いため息をつきながらもスケッチを続けた。
 脳が受けた失敗のショックは大きく、疲労感を伴って僕を包み込んだ。午後6時過ぎに、近くの定食屋でハムエッグ定食を食べた後も黙々と仕事を続けた。重症患者がいるというのに、オリビア・ニュートン=ジョンの風のような歌声がキラキラとFMで流れていた。

 星の瞬きが窓越しに深夜を告げている。生ぬるいエアコンの風に集中力を奪われた竹田さんが、牛丼じゃんけんしませんかと声を上げた。堰を切ったように10人が席を立って、コピー機の前に集まった。
 いつも参加する僕にキヨシ君が声を掛けてくれたが、僕は「ごめんね」と元気無く断った。そういえば、佐里君からの連絡がなかった。先に帰る方が連絡を入れることにしていたので、まだ仕事が終わらないのだろう。
 「あ〜っ」と大きな竹田さんの叫び声が上がった。言い出しっぺが負けるという、じゃんけんの伝説は守られた。竹田さんは今夜、10人分の牛丼とみそ汁代を支払わなければならない。

 
「お客さん、いつも仕事遅くまでやってますね」
「はあ」
「先週もお客さんを乗せたしね。覚えてません?」
「ごめんなさい」と僕は小声で呟いた。
「いやぁ、謝ったりされると困っちゃうんだけど。しかし、お客さんの会社の人たちはよく仕事をしますね」
「……」
 深夜のタクシーは天神交差点を猛烈なスピードで抜けていった。
「今、通り過ぎた銀行と病院勤務の人、それにタウン情報誌の人。それにお客さんの会社だね。この時間に連絡をくれるところは」
 僕はタクシー運転手によく働く社員として、褒められているのだろうか。

 ところで、怖い話が嫌いでなかったら、と運転手は前置きをした後、喋り始めた。
「私には釣り好きの友達がいまして、その友達は会社の同僚とよく一緒に海釣りに出かけていましたが。あぁ、お客さん、釣りやりますか?」
 僕はいいえと力の抜けた返事をした。気持ちのよい冷房に気を許した身体は、後部座席に深く沈み込んでしまっている。魂が身体を支えきれていなかった。奇妙な重さに意識も引きずり込まれている。緩んだ視界にいきなり暴走車が入って来て、爆音だけを残しながら暗闇の中に消えていった。
「週末でもないのに、本当にうるさい奴らですわ」
運転手は不愉快さを隠しきれずに、バックミラーで僕の方をちらっと眺めてそう言った。

「ところで、さっきの続きですけどね、同僚の人は釣りに行ったときは必ず奥さんが作った弁当を持ってきていたそうです。愛妻家っていうんですか、結婚指輪をしっかりはめてるタイプですわ。まあ、友達の方は自分でおにぎりを握っていくそうですが。嫁さんが作ってくれないとかで…。で、その同僚のひとは、ある時、夜の磯釣りに出かけ、足を滑らしてしまったのか、行方不明になってしまったんですね。危ないんですね、磯釣りは」

 最後の最後まで、心静かに過ごさせてくれない一日だ。腹立たしささえ湧いてこない程、弱りきっているのというのに。タクシーの運転手の声は元気に続いている。

「5〜6年前かな、新聞にも出てたし、お客さん覚えてませんか? 結局、死体は上がらなかったそうですけど。私の友達もその釣り場には、それ以来、気持ち悪くてずっと行かなかったと言ってました。ある時、事故のあった近くの磯で釣り仲間がデカイ鮃を釣ったそうで、さばいてみると腹の中から金の指輪が出てきて驚いた、という話を聞いたそうです。その刺身はこれまでに食べた鮃の中でも特別に美味しかった………」
 僕は怖さより猛烈な眠気に襲われ始めていた。
「………… 指輪にK.Tなんてイニシャルでも彫っ……、田中さんという名前…………」
途切れ始めた僕の意識は、もう意味を捉えきれなくなっている。
「魚相手にこんなモテ方されるとはね。モテ過ぎも考えも………」

「お客さん、お客さん。この辺りじゃなかったですか?」
 突然、天からの大声が雷鳴のように落ちてきた。眠りに落ちていた僕は慌てて背を伸ばし、目の焦点を合わせた。
 バス停一駅分の距離を乗り過ごしてしまっている。Uターンした後、領収書を切ってもらった。タクシーを降り、熱帯夜に佇む自分のアパートのドアに向かった。鍵を回したが部屋に明かりは点いていない。佐里君はまだ仕事を続けているのだろうか。
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by hosokawatry | 2008-11-09 14:13 | ブログ小説・あの蒼い夏に

宵曳山(よいやま)もキレイ、唐津くんち

a0071722_123638.jpg 14の町の曳山が、昔の面影を残す町並みに繰り出す「唐津くんち」。「エンヤ、エンヤ」「よいさ、よいさ」の掛け声とピーヒャラという笛の音。毎年11月3日(文化の日)と4日にその曳山の華麗な姿を見せますが、その前夜(2日)の宵曳山(よいやま)も見逃せません。

 暗闇の中の提灯に映し出される幻想的な伝統美。秋空の下、昼に見る曳山も素敵ですが、もうひとつの感動にきっと出会えると思います。妻の実家のすぐ近くの狭い路地を巡行するので、夕食をとって出かけると、ちょうどデザート代わりの美しい曳山に巡り会えるというわけです。

 国の重要無形民俗文化財に指定されている「唐津くんち」は唐津神社の秋祭り。JR唐津駅から歩いてすぐの唐津神社参道では、露店がずらっと並ぶので祭り気分を満喫できます。曳山見物と一緒に露店めぐりをセットにすれば、最高のデートコースになりそうです。

 僕は唐津出身の人間ではありませんが、それでも、唐津くんちが大好きです。老若一緒になって曳山に汗をする姿には、祭りがある町ならではの美しい規律を感じます。伝統が息づく町の背骨はピンと張っているようです。もちろん博多祇園山笠もそうですけど。
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by hosokawatry | 2008-11-04 12:05 | やさしく歌って・自由日記