<   2009年 01月 ( 4 )   > この月の画像一覧

あの蒼い夏に 〜チラシ作りの青春・34〜





                  34



 僕はかすみの手を握りしめながら、浅い夜の斜めに伸びる月影の中をバス停まで歩いた。
 かすみは「河村クン」と僕の名前を呼んだ後、愛すべき指で僕の手のひらに二文字を書き込んだ。少しくすぐったい。僕が首を傾げると、今度は簡単な二文字にして「すき」と書き直した。
 僕は汗ばむ手のひらでかすみの指を包み込み、強く握りしめることでゆっくりと返答した。かすみが門限ギリギリの西鉄バスに乗り込むまで、僕たちは手を離さなかった。
 遠ざかるバスの後部座席から寂しさが入り交じった複雑な笑顔がのぞき、そして消えていく。かすみは今日、誰と泳ぎにいったことになるのだろう。警察官の父親は果たして信じてくれるだろうか? ただ、今、言えることは僕と一緒に大人への道を「しっかり」と歩いているということだ。心配は、多分要らない。僕は相棒が消えてしまっても、約束どうりに大濠公園を走り回っているような男だから。

 日曜日をかすみと佐里君の記憶と一緒に過ごした。僕の部屋に体温を残していった二人。書き込まれたばかりの甘美な記憶。そして消失の危機にある存在の記憶。 
 僕は早朝ランニング以外は暑い部屋で、一日中、本を読み通した。CIAとKGBの局員が争うスパイ小説のページの章が変わるごとに、二人の記憶が割り込んでくる。扇風機にはページを何度も飛ばされるし、いっこうに読み進む速度が上がらない。
 指でしっかりと押さえながら読むことはずいぶん骨の折れることだが、今はそれも仕方がない。冷房専用クーラーはまだまだ値段が高く、社会人二年目の僕には手が届かないのだ。
 夕方、ストーリーの終盤にCIAのエージェントが追いつめられたところで、電話のベルが鳴った。かすみからだった。お土産のジャムはもう食べた?と、聞いてきたので、もう嬉しくって朝からイチゴジャムを動けなくなるほど食べ過ぎてしまい、それで一日中部屋の中で横たわったまま本を読んでいるんだ、と答えた。
「へぇ〜、そう」と、かすみは何故か疑うような口調で言った。「で、美味しかった?」
「うん、とても。昔からイチゴのジャムが大好きだったんだ」
「…… そうなの」と、かすみは声のトーンを落とした。
「そう」
「ん〜、河村クンだって嘘つくんだ」
「えっ?」
「本当はまだ食べてないでしょ、ワタシのお土産」
「うっ……」
「実はね」
「何?」
「だってあれ、マーマレードだったはずだけど」
「ん?」
「その店、マーマレードの箱を切らしていたらしくて、ワタシ、イチゴ用の箱でもいいって言ったんだ、実は」
「………………」

「友達だっていう佐里クンという男の人も、ほんとにただの友達なんだよね? なんだか怪しくなってきたわ」
「………」
「じゃあ、昨日、愛しているって言ってくれたことは?」
「ジャム以外のことは全部本当だよ」
「本当?」
「神に誓って」
 僕は神妙に声をだした。軽いノリで美味しかったよとお土産へのお礼を言ったつもりだったのに、まるで結婚式の宣誓のようなものまでさせられようとしている。軽はずみだった自分を悔やんだ。
 少しばかりの沈黙の時間を演出した後、かすみは気を取り直したように陽気に切り出した。

「うん、でも、許してあげる。ただし条件付きで」

 嘘をついた罰にと、僕はかすみから来週の日曜日のサンドイッチ作りを強引に約束させられた。

 かすみからの電話の後に、佐里君のアパートに電話を入れてみた。呼び出し音を二十回数えた後、力なく受話器を置いた。回り続ける扇風機の風に、テーブルの上の文庫本がパラパラと音を立てながらめくれ続けている。最近、僕は佐里君へのダイヤルをまわす度に、責任を果たせていない虚しさに襲われ始めるようになってしまった。この瞬間も夏の終わりに感じるような、得体の知れない物悲しさと不安が僕を包み込もうとしてる。まだ、夏休みに入ったばかりで、バカンスモードもこれからだという時期なのに。
「お前の友達は見つかったかい。見つかっていないって? そうだろう。もう、止めておくことだな、友達を何とかしようなどと馬鹿げたことは」
 頭の中で、黒い悪魔がご苦労なことだという顔をした。


 七月最後の週は暑く、火曜日に一時間ほどお湿り程度に雨が降った以外は、カラカラと晴れる日が続いた。最高気温がなんと三十四度近くまで上がった日もあった。もちろん熱帯夜は連日続く。そんな中で、僕の心の中の最後の柔らかい部分だけは、かすみを思うことでかろうじて潤いを保つことができていた。
 永野さん・三ツ谷さんとチームを組む「年末・年始の恵屋合同チラシコンペ」のためのプロジェクトは、やっと実りに向かって進み始めていた。幸いなことに、二人の間に起こった衝突のわだかまりも嘘のように感じられなくなった。それは、あくまでも表面上の話だと、周りの誰もがそう認識しているように見えた。中心部のマグマの沸騰温度は、そんなに早く冷めてしまうはずがない、と僕も思っている。
 未定だった正月の折込みチラシのメインフレーズ「もっとあなたのために」のビジュアルも決まった。恵屋はパンを店内で焼き上げるのが自慢だ。地域一番店を目指す恵屋のパン職人のお客様への想いを込めた「フランスパンの手作りシーン」を採用することになった。お客様の幸せのための真剣な職人のまなざし。それは企業理念にもきちんとフィットするし、三人ともこれはいけると思った。

 僕は恵屋の咲田店長から貰ったものの、屋台の晴照に忘れて帰ったフランスパンを思い出した。佐里君と二人で貰った褒美だった。佐里君もそのフランスパンも今はない。徐々に重苦しさを増す喪失感は仕事中も時間をわきまえることなく、悪戯を楽しむ子供のように、僕の心の中をどこまでも追いかけてくる。

 僕たちのチーム案は仕上がりに問題さえなければ、社内コンペで勝つのではないか。僕の中にも確信に近いものが芽生え始めていた。ワタリ係長が「勝ったチームには賞金が出る」と言ったのをはっきりと憶えている。僕は捕らぬ狸の皮算用に入った。
 三人で旨い高級寿司を食べにいくというのはどうだろうか。しかし、犬猿の二人に僕が混じる構成では、これまでの心理状況を考えると、せっかくの旨いものも旨く感じられないのではないか。高級クラブで祝杯をあげるのも、二人の会話の発展次第では間違った方向に走る可能性がある。やっと小さくなっていた炎に、アルコールを注ぐようなことをしてはいけない。とにかく慎重にならなければならないし、いずれにしても骨が折れそうなので、コンペの勝利を簡単には喜べないかもしれない。
 そうはいっても、今年こそは広告代理店の電広堂に負ける訳にはいかない。出来映えも上々、相当に期待できるレベルだ。ワクワク感が広がり、前輪駆動車のように前のめりになりかかっているのが、自分でも可笑しかった。

 
 車のリース会社からの外線電話を竹田さんが三ツ谷さんに取り次いだ。
「ウルトラマンさん、車の修理が終わったそうです。三番です」
 三ツ谷さんは受話器を取りながら立ち上がったが、いつものようにはすぐに言葉が出てこなかった。ウルトラマンへの期待感から、職場内は固唾を飲んだ。
「う〜ん……、ジ、ジャッキ」
 周りの反応が鈍い。いつものように、笑い声が聞こえてこない。思いっきり外したのかもしれない。
 期待に応えられなかった残念な思いに駆られた三ツ谷さんは、かなり焦っているように見えた。外線ボタンを慌てて押し、受話器に八つ当たりをした。
「こら修理屋、お前が悪かとタイ」と三ツ谷さんが大声を出したとたん、野瀬課長が「フフフ、役者やのう」と、舌を鳴らしながら人差し指をワイパーのように二、三度振った。野瀬課長は三ツ谷さんのトリックを見事に見抜いていた。
 皆を驚かそうとした三ツ谷さんはバレたかなと、後頭部を掻きながら改めて三番のボタンを押した。
「お待たせしました、三ツ谷です」
 三ツ谷さんは、外線電話が入っていない四番のボタンを押し、相手のいない受話器に向かって大声を出し、八つ当たりをしていたのだ。野瀬課長はタバコを一本抜いて火をつけ、満足そうに煙を吹き出した。中指でコンコンコンと机をたたかない課長も久しぶりだ。
「まだまだ、若いわな、三ツ谷も」
 流石ですね課長、と持ち上げながら、野瀬課長のタバコの箱に金井さんが近づいてきた。

 毎日、僕はステップ写植に電話をして、佐里君が出社していないかを確かめた。返ってくるいつも同じ答えに、僕は力を抜かれ続けた。ふ〜っ。誰にも負けないくらいのため息。失恋した百人のため息をまとめても、僕のため息の方がきっと大きいだろう。
 夏休みの宿題を放り出してしまって、いったい佐里君はどこに行ったのだろう。とても大切な人生の宿題なのに。


「河村、今日は早く終われるか?」
 ワタリ係長からの内線電話で、今日は木曜日だけど飲みに付き合わないかと誘われた。
[PR]
by hosokawatry | 2009-01-24 23:58 | ブログ小説・あの蒼い夏に

巨大な結婚式場

a0071722_1464651.jpg 昨年の5月にブログでも書いていたんだけど、それまで僕が利用していた海辺のウォーキングコース(公道? 公的スペース?)が建築工事のため、一年間くらい通行止め(個人的には怒っていました)になっていました。マリノアシティの屋外駐車場の海岸沿いに、巨大なウェディング施設はすでにオープンしていたのです。

 そのウェディング施設の名は「マリノア・ノートルダム」。HPによると「ベルギー・アントワープの『ノートルダム大聖堂』をモデルにした大聖堂は、同寺院と正式なシスターチャーチ提携を結んでおり、高さ60mと国内最大級のスケールを誇る」そうです。※メロンネットより

 8000坪という広さを誇り、式場やレストラン、宿泊施設など「FIVESTAR WEDDING(五つ星?)」という名から想像できるように、質の高いサービスを受けられるのでしょう。それにしても、キリスト教信者でない人が、どうしてチャペル式の結婚式を挙げるのでしょうね。不思議な国ですね、日本は。

 記憶に残る結婚式をあげたい気持ちは、僕にもすごくわかるんだけど、「華やかに表面を飾る」ことに熱心すぎるのではないかと少しばかり心配です。当然、利潤を求める資本主義はその部分を狙ってきます。しかし、バブルなものは必ず弾けるもの。不動産バブルでは相当ひどい目にあい、また今、金融のバブルで不況ですが。ウェディング事業も目を引くだけの拡大競争になっているとすれば、個人的には賛成できません。「バブルな愛」ってあるかどうか分かりませんが、やはり大切なのは「心」ですからね。
[PR]
by hosokawatry | 2009-01-19 01:49 | やさしく歌って・自由日記

あの蒼い夏に 〜チラシづくりの青春・33〜





                    33



 土曜日の朝、一人でランニングを済ませた後の冷水シャワーは気持ちよかった。昨夜、いつものように飲み過ぎにならずに済んだのは前田の酩酊のおかげだった。アルコールに飲まれるタイプの後輩も、そういう意味では悪くない。
 しかし、大脳にへばりついている佐里君が一時も意識から離れようとしないので、爽快感にも限界があった。前田への顔面マジック描写も、やり過ぎだったかもしれない。良心がチクリと痛む。それに、チラシ間違いの情けなさは、未だに胡桃の殻のような頑固な硬度を保ったまま脳の奥深く潜んだままだ。
 キリマンジャロの豆が少なくなっている。僕は不快な脳の記憶も一緒に、コーヒー豆を手動式のコーヒーミルでガリガリとひき、湯を沸かした。固めのスクランブルエッグをバタートーストに挟んで食べた。バターに混ぜるマスタードの比率、スクランブルエッグに振りかける塩胡椒とマヨネーズはいつものように完璧だったが、昨夜のバーボンで舌の感度が鈍っている。味覚の何かが物足りない。生野菜がなかったので、冷蔵庫に残っていたきゅうりのピクルスで我慢した。

 僕は「ある願望」が詰まったデイパックを肩から下げて出かけた。かすみとは正午に天神のTOJIで待ち合わせていた。僕たちにはいつだって、落ち着いて話せる場所が必要だった。僕の長時間残業の影響もあり、そのコミュニケーションの時間はいつも不足していたからだ。逢うたびの鮮度は格別だったが、大切なものを失いかねない危うい緊張感も孕んでいた。
 インテリアショップの奥にある静かなコーヒーショップで、僕たちは少しだけ高級なブルーマウンテンを飲みながら、午後の予定を立てた。エクソシスト2は次の機会にすることにして、バーゲンの水着を買いにいく予定だけは以前に聞いていたので、付き合うことにする。ただし、僕はお気に入りの水着が見つかったら、グランドホテルの屋上プールに泳ぎに行くことを提案した。デイパックの中に海パンを入れてきているのだ。タオルは借りれば良い。かすみはためらいもなく、いいよと頷いた。成功だ。
 極彩色のインコのように派手なアロハシャツの女性スタッフが、すごく似合っていると、何度も何度も繰り返している。かすみは結局、マツヤレディスのショップで試着を重ねた後、奨められたオレンジ色のビキニを買った。僕は女性同士のやりとりを遠くから見守った。店を出る時に「胸が大きくない人はビキニの方がいいのよね」と、かすみは僕の方を向いて明るく笑った。

 ホテルの屋上を青い空が包んでいた。プールサイドに腰掛けて、パチャパチャと足を前後に動かしているかすみが眼に入る。夏の日差しに浮かび上がる白い肌は、僕には眩しすぎて正視出来なかった。心臓の鼓動が泳ぐ前なのに妙に速い。日焼けをしていないままの肌には、水着のオレンジ色は強すぎるのかもしれない。小麦色の肌のかすみを見たいと思った。
 裕福そうな家族連れの声が響く。新婚カップルの白い歯。ライトブルーのリクライニングチェアにはサングラス姿の欧米人が横たわっている。透明な水が張られている勾玉型のプールを僕は何度もクロールで繰り返し泳いだ。かすみはゆっくりと平泳ぎを楽しんでいる。

 傾きかけた7月の太陽に顔を照らされながら、僕たちは平和台球場前の堀沿いを歩いた。
「お腹空いたね」
完璧に乾いていない髪を触りながらかすみは言った。僕たちは昼食を食べないまま、プールで遊んでいたことになる。

「河村クン、自慢のサンドイッチ作ってくれる? ワタシ食べたことないし」
「特別の人しか、僕のサンドイッチは口に出来ないのだけど」と、僕はおどけながら敷居の高さを強調した。朝もサンドイッチだったから、遅い昼食にまたパンを食べることには抵抗があったのだ。
「佐里君とかいう男の人は特別で、ワタシは普通なの」
 かすみは「特別」という言葉に反応した。もちろん、かすみは僕と一緒に大濠公園を走っていた佐里君のことも知っている。
「屋台で新幹線とか言っていた女の格好をした人とか、二人で住み始めた少年のような男の人とか。そりゃ、そちらが特別よね、嗜好が怪しい河村クンには」
 僕はうっと、言葉を飲み込んだ。
「それに比べたら、ワタシなんか普通だから面白くないのかしら」
ふと、寂しそうな表情を見せたかすみに僕は少し慌てた。
「い、いや、君は特別さ。僕にとって」と、諦めながらそう言った。今日二度目のサンドイッチというわけだ。
「そう、じゃあワタシにサンドイッチ作ってくれるんだ」
 かすみは上目遣いでフフッと笑い、僕の手をギュッと握りしめた。
 今日は、手紙ではなくて、かすみ本人が僕の部屋に初めて入ることになる記念すべき日になる。

 僕はトーストした厚切りパンに辛しバターを塗った。揚げたてのポークカツを特製のドビーソースにさっと浸して、レタスを敷いたパンにはさんだ。パンの耳をカットした後、半分に切ってカット面を皿に立てた。パセリを添える。
 僕たちは缶ビールを飲みながら、まだ中心部が熱いカツサンドを頬張った。かすみはサンドイッチの店が出せるかもしれないねと言った。僕が学生時代に洋食屋でアルバイトしていたことをかすみは憶えていた。
「ふ〜ん。深夜の勤労青年はチラシを作れるだけではないんだ」
 かすみはカツサンドの味に感心しながら、美味しそうにビールを飲み干した。僕はことわりを入れてタバコに火をつけ、ベッドに腰掛けて夕方の空に煙を吐き出した。乾いたテニスボールの音が隣のコートから僕の部屋に入り込んでくる。素敵な土曜日の夕方だ。
 百道の埋め立て地を通り抜けて、今日最後の海風が吹いている。星が輝き始めるのは、もう少し先のこと。立ち木の影が長く伸びている。FMでデビット・ボウイのスターマンが艶やかに部屋に広がる。ビールのアルコールがふわふわと僕の理性に羽毛を落とすように被いかぶさっていく。
 そうそう、と言って、かすみがゼミ旅行のお土産のイチゴジャムを取り出した。僕が毎朝、パンを食べるのを知っている。朝食とビタミンCの話題になり、ビタミンCと肌の関係に発展し、望んでもいないのに佐里君の肌の白さに行き着いた。
 夢の中で僕に助けを求めて手を伸ばした佐里君。その佐里君がいなくなった部屋にかすみがいる。僕はいつの間にか、押し黙ったままかすみを見つめていた。瞬きのない僕の目の扱いにかすみは戸惑っているように見える。かすみが沈黙に耐えきれずに、ぎこちない笑い顔を僕に向けた瞬間、迫っていた夕闇が僕の背中をすっと押した。
 僕はかすみを強く抱きしめていた。
 いつも元気で強いかすみが腕の中で震えているように感じた。
「河村クン、ワタシのこと好き?」
「うん」
「愛してくれている?」
「もちろん」と僕は照れずにはっきりと答えた。「警察官のお父さんと同じくらいに」
「嬉しい」と呟いたかすみは瞳を閉じ、生まれて初めて味わっていた緊張を解いた。
 ショートカットの髪がサラリと美しく揺れた。
[PR]
by hosokawatry | 2009-01-12 18:30 | ブログ小説・あの蒼い夏に

北風のお正月

a0071722_1433744.jpg 大晦日から続く寒波の影響で、牡丹雪が舞う正月・元旦です。我が唐津の妻の実家は古い木造の日本家屋。マンションと違ってすきま風が冷たく、少年時代の生活を思いだします。ひとつのこたつに身を寄せ合った日々。石油ストーブにはヤカンが載せられ、シュンシュンと湯気をたてていました。
 
 当時、我が家では人を招待し、ご馳走をふるまう経済的余裕はありませんでした。が、愛すべき家屋には北風だけは招き入れる余裕(隙間)がありました。へヘッ、貧乏ならではの温かい心の余裕です。セラミック外壁の現代の家には、ないものです。フム、これは絵本の原作ネタになりそうな話かも。今、書きながら、頭の中で電球のフィラメント(古っ!)が光りました。
 

師走。
旅に疲れた北風はどこかで休息を取りたいと思いました。
まだまだ目的地は遥か彼方。
見下ろすと大きな街。
高層マンションが立ち並んでいます。
裕福そうな家族が住んでいるのでしょう。
ガラス窓からはごちそうが並ぶ食卓が見えます。
しかし、玄関は重厚なアルミ防犯ドア。
そしてアルミサッシの窓にも
北風が入り込めそうな隙間はありません。
北風は何軒も訪ねましたが
迎えてくれる家はありません。
フラフラになりながら
やっとの思いで街はずれまで飛んできました。
目眩がします。
失速。
気を失いそうです。
落ちながら
もうダメかもしれないと思ったその瞬間。
トタン屋根の家が見えました。
壁板がめくれています。
貧しそうな家です。
木の窓枠も曲がって隙間が見えます。
助かったと北風は思いました。
北風は隙間からそのトタン屋根の家に入り込むことが出来ました。
その部屋には小さな古びた石油ストーブがあり、
かけられたヤカンがシューシューと音を立てています。
質素な食事を家族が囲んでいます。
貧しそうだけど楽しそうです。
赤ちゃんの笑い声が聞こえます。
これが最後の灯油になるかもしれないと、若い父親が心配顔で話しています。
北風は命を助けられました。
北風は暖められたら
自分の使命が果たせなくなることを知っていました。
春一番がやってくる前に目的地に向かわなければなりません。
それでも、
この家族ともう少し一緒にいたいと思いました。
やがて、休息を終えた北風は飛び立ち、
そして、大寒の時期。
父親が心配していたとうりに、灯油を買うことが出来なくなりました。
風邪をひいた赤ちゃんの熱は下がりません。
暖かい春はまだまだ先のことです。
お金のない若い夫婦は祈ることしかできません。
すると不思議なことに、
その年は春一番でもないのに、早々と暖かい南風が3日間吹き続けました。
あの北風が南風になって戻ってきたのです。
風はいつだって、隙間のある家が大好きなのです。

 雪が降り止み、新しい日が射してきました。庭に眼を凝らすと、クモの巣に雪が捕まっています。そして葉を落とした梅の枝先にもう小さな芽が沢山付いています。温かい希望。お腹がすいてきました。もうすぐ、イタリア人の神父が二人、食事にやってくるそうです。それまで少しの辛抱です。北風を一緒に連れてきてもいいですよ。隙間はたっぷりありますから。
[PR]
by hosokawatry | 2009-01-05 01:46 | やさしく歌って・自由日記