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あの蒼い夏に〜チラシづくりの青春・36〜




                  36




 アナザーウェイで飲んだ翌朝も青空だったが、僕の心と肝臓は笑顔を見せなかった。微睡みたい怠惰が早朝ランニングの足を引っ張ろうとしている。そんな折れようとする僕の弱さに、白い手が伸びてくる。助けを求めようとしていた白い手が。窓の外の青い空も僕に決断を促し、戸外へと手招きをする。
 僕は思い切って身体を縛る憂鬱を引き剥がし、ベッドから両脚を降ろした。佐里君、今日も僕は続けるよ。
 そういえば、パンチパーマのお兄さんとはあの雨の日以来、会うこともなかった。僕は大濠公園の外周を走りながら、老婆を捨て身でかばったという白いスーツ姿の男を思った。車にはねられて怪我をしている。まさか? 確か、走るのは夜だと話していたじゃないか。
 汗を出したぶんだけ、気分が軽くなっていく。ありがとう、佐里君。


「おはようございます」
 瀟洒な洋館の緑色した鉄門扉越しに声が聞こえた。振り向くと、品の良い三十歳前後の女性が立っている。毎朝、二階の窓辺で僕と視線を交わしていた女の子の母親だろう。二日酔い気味の直感でも分かった。ただ、その女性の表情には庭のピンク色の花のような明るさはなかった。
「あの、お忙しいご出勤時間に申し訳ありませんが、もしよろしければ、少しだけお時間をいただくわけにはいかないでしょうか」
 僕はいつものように二階の窓を見た後、すぐに腕時計に視線を落とした。五分くらいなら大丈夫だろう。頷いた僕に女性は一歩近づき、手に持っていた画用紙を差し出した。

「実はこの絵を、どうしても渡して欲しいと娘に頼まれまして。この絵のネクタイとあなたのネクタイが同じストライプなので。色も良く似ていますし。それに娘が言う朝の時間にぴったりですし、あなたではと。描かれている絵がチンパンジーみたいで、とても失礼だとは思ったのですが」
 僕は茶色のチンパンジーと白いチンパンジーが仲良く描かれているクレヨン画を眺めた。確かに茶色のチンパンジーが締めているネクタイは、僕のレジメンタイと同じだ。白いチンパンジーは佐里君かもしれない。
「間違いないでしょう」
 僕は頷いた後、ためらわずに毎朝女の子の前で変身していたチンパンジーになった。これ以上の証拠はないだろう。昨日のアルコールは確実に残っている。
「あら、良く似てますこと、フフッ」と母親は笑顔の口元を手の甲で隠した。

「娘さんは?」と訊ねる僕に、母親は身体が弱く外で遊べない娘の話をしてくれた。その娘は今、検査のため入院をしていること。毎朝遊んでくれたチンパンジーのお兄ちゃんが大好きと、病院のベッドでその絵を描き上げたことを話してくれた。おにいちゃんへ、と画用紙の下に精一杯の文字が並んでいる。

「あの赤い花、きれいですね」
 僕はもらった絵のお礼を言った後、庭の花を褒めた。
「ペチュニアというんです」
 束の間の話題に、母親は再び白い歯を覘かせ、表情を緩めた。

 可能な時間の五分を過ぎてしまったので、慌てて出勤途中のサラリーマンに戻った。
 僕はバス停で丸めた画用紙を開いて、もう一度眺めた。人間チンパンジーが良く描けている。にやっと口元が緩む。気配を感じて振り返ると、後ろに並んでいた女子高生が声を出さずに笑っていた。


 僕はその日、バイト先の花屋にいたかすみに電話をかけた。病気の小さな彼女の見舞いに使う花束を作ってもらおうとしたが、かすみは賛成しなかった。その子の家の庭にはたくさんの花が咲いているのを話していたからだ。庭の花が病室に飾られることは間違いない。
 それより、これからもたくさん絵を描いてほしいな、との願いを込めて、スケッチブックを持っていくことにした。
 僕たちは日曜日に天神の文房具屋でスケッチブックを買い求めた。そして、最初のページにチンパンジーの写真の切り抜きを貼り込んだ。その上に「また、あおうね」と書いた吹き出しを重ねた。
 かすみと一緒に日曜の午後、瀟洒な洋館を訪ね、そのお見舞いを母親に手渡した。母親はこれから病院に向かうところだと言った。娘の手術日が近づく母親は、思わぬ見舞いに目頭を押さえた。
「大喜びしますわ、きっと」
 小さな心臓にメスが入ることを話してくれてた後、おかまいも出来ませんでと、僕たちに頭を下げて慌てて出かけていった。三年後には歩いてもすぐのところに、最先端の医療機器を備えた市立こども病院が建つという。断念ながら、チンパンジーを好きな女の子には間に合わなかった。

「必要なときには無いのよね。なんでもそう」
 かすみは遠ざかる母親の背中を眺めながら、僕の手を握りしめた。
「僕はそばにいる」
「今日は、ね」
 僕の肩にそっとかすみは頭をもたれかけた。
 


「今年の立秋は八月八日やと思うが、得意先への暑中見舞いはその前に出しておくようにせなあかん。もし遅れて八日以後になったら、必ず『残暑見舞い』に変えなあかんで」と野瀬課長が朝礼でしゃべっている。
 僕たちはいつの間にか八月の声を聞いてしまった。相変わらず、アフター5は仕事のためにあり、僕たちは実験室の白い鼠のように、昼夜を問わずに回転車の中を懸命に走り、回し続けている。チラシ作りは主婦が食事作りを放棄しない限りは続く。チラシはオイルショックの狂乱物価も、三年前にしっかり乗り越えたのだ。
 僕は違った意味で、この夏のチラシ作りを乗り越えなくてはならなかった。次のチラシ間違いは絶対に許されない身の上なのだ。エアコンの吹き出し音と滲む汗に侵されながらも、僕は毎日の業務に必要以上の緊張感を強いられた。集中を欠けば3度目の失敗を迎えることになってしまう。
「間違いのない仕事の進め方」が一番大切なことだという、課長や永野さんの言葉がやけに身に沁みる。大きく漕ぎだそうとする心と揺れないように気を配る心。僕は荒波の中に、苦手なバランスを求められた。


 雨が少ない日が続いた。渇水を心配する記事が新聞に掲載された。そんな日の残業の夜、「心の水遣りにいこう」と竹田さんが誘ってくれたので、ドライ・マティーニを飲みに出かけた。
 長男の竹田さんは、故郷の滋賀県に帰ることになったと、いつものように黒い首筋をぼりぼり掻きながら、あっさりと言った。熟考の末の諦観なのだろう。やけにさっぱりとして、乾いている。
 一ヶ月前に俺はチラシ作りに疲れたミミズだ、湿ったミミズだと言った竹田さんが懐かしい。
「親父の店を継ぐよ」
「店ですか?」
「ああ、農機具販売の店だ」
「農機具?」
「知ってるだろ、ヤン坊マー坊なんてTVに流れている天気予報」
 竹田さんは両切りピースの紫煙をゆっくりと吹き出した。
「そのメーカーの耕耘機なんか売るんだよ」
 
 マスターが二杯目のグラスを目の前に置いた。

「もう、クリエイティブとは関係ない世界さ。終わりだよ」
「でも、竹田さんは売るためのコピーを書いてきた」
「ああ」
「販売にもそのクリエイティブは役に立つんじゃ?」
「どうだろう」
「けっこう、恵屋さんには人気があったじゃないですか。もう終わりなんて、もったいない気がします。」
「そうかな?」と言ったっきり、竹田さんは黙りこくった。
 しばらくして「河村、これまで俺の中にプライドを感じたことがあったか?」と質問をしたきり、それ以来、自分から口を開こうとはしなくなった。

「幸運機キャンペーンが出来ますね」と誘いかけても空返事がかえってくるようになった。三杯目のドライ・マティーニに竹田さんの背中が揺れだした。呆れるほどアルコールに強かった竹田さんが酔っている。マスターが心配そうに視線を向けた。
 竹田さんはやっぱり疲れていた。僕が残業をしているときには、いつだってその姿を見つけることが出来た。ハイレベルな質を追いながら、量の要求に応えようとした竹田さん。そのプライドは前髪を薄くして、三杯のマティーニに沈んでしまうほどの竹田さんに姿を変貌させた。


 銀色の三日月が照らす路地裏の道は、希望が見えるほど明るくなかった。割れた舗装に揺れる後部座席。竹田さんは目の前の座席の背を、何かにすがるように両手で抱え込んでいる。揺れない人生はない。不安定な二人を乗せた深夜タクシーは、ヘッドライトに浮かび上がる聖福寺前の路地を独身寮へ急いだ。
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by hosokawatry | 2009-02-23 00:30 | ブログ小説・あの蒼い夏に

愛宕山

a0071722_19422438.jpg 明日から2月本来の気温に戻りそうですが、今日の日曜日もまだ春の暖かさは続いています。台風かと思うような春一番は通り過ぎたものの、車のフロントガラスには、黄砂(ひょっとしたら花粉も)が積もっています。

 午前中は天気も良く、青い空が手招きします。やっぱり外出の誘惑に勝てません。暖かいので、そんなに早歩きしなくても汗をしっかりとかいてしまいました。小戸公園の球技場からは、ソフトボールの練習の声。湾内を滑るヨットが気持ち良さそうです。本当に2月中旬なのかなぁ?

 ちょっと頑張って、愛宕山まで足を伸ばしてみました。室見川河口の西側にある小高い丘のような山(青サギが集団で住んでいます)です。山頂にある愛宕神社は日本三大愛宕神社の一つとして有名で、神社までの石段を上る前の広場には梅ヶ枝餅を売る店が二軒あります。

 もうひと月と少しで愛宕山は桜色に染まり、さらに魅力を増します。眼下に広がる百道の近代的な街の風景を眺めながら、抹茶と梅ヶ枝餅でゆるりとした時間を過ごすのもいいかもしれません。あ〜、もうすぐ桜の季節なんですね。一年過ぎるのがあまりにも速過ぎます。
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by hosokawatry | 2009-02-15 19:45 | やさしく歌って・自由日記

しろうお漁間近の室見川

a0071722_19414429.jpg 立春を過ぎてから、不思議と寒い日が訪れません。昨日も良い天気だったし、今日も青空が広がる気持ちのよい一日でした。福岡に春を告げる「室見川のしろうお漁」がもうじき始まりますが、そのための「やな掛け作業」に着手したと新聞に書いてあったので、早速昼から室見川河畔に出かけることに。

 青空を映す川面に目を移すと、川の中央部に杭がたくさん打ち込まれていました。その、まだ完成していない「やな」の杭上では、たくさんのユリカモメがご休憩。いい遊びものが出来たと喜んでいます。

 その近くで、カモメに混じったカモが逆立ちをした格好で、餌を捕っています。水中(川底?)の餌を捕ろうとペコンと頭を水中に突っ込むので、水面上は尻が突き出たおかしな格好になるわけです。周りを見渡すと、何羽も同じような格好をしていました。

 立春から聖バレンタインデーの頃は寒い日が多かったものです(過去はそうだった)。気温が低い季節のぴりっとした空気の透明感。日差しの中に感じる春の希望。そんな清楚な趣は大好きです。今日は暖かくて気持ちよかったけど、きりっとした姿勢正しい季節の空気も味わいたかったな〜、と室見川河畔公園を歩きながら、少し複雑な気分になってしまいました。
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by hosokawatry | 2009-02-08 19:45 | やさしく歌って・自由日記

あの蒼い夏に 〜チラシ作りの青春・35〜




                    35



「河村、大博多印刷の営業担当と仲が良いんだろ? 今日、アナザーウェイとかいう、面白い店に連れて行ってくれるらしいのだけど。一緒に行かんか? それに少しばかり聞きたいこともあるし」
「ワタリさん、それ業務命令ですか?」
「その方が行きやすいのなら」
「はぁ、アナザーウェイですね」
 僕はアザミさんの顔を思い浮かべながら、しぶしぶ了承した。「河村クンって、やっぱり怪しい人だったのね」と頭の中でかすみがつぶやいている。よく考えればアナザーウェイはこれで五回目かもしれない。誤解を招くには十分な回数だ。
「アナザーウェイって、もうひとつの道という意味か?」とワタリ係長は僕に訊ねた。
「ワタリさんならママに喜ばれると思いますし、楽しめるかもしれません」
「どういう意味や、それ?」
 僕は八時過ぎまでは版下入稿があるので、それまでは無理ですと言った。じゃあ九時出発ということにしよう、とワタリ係長は受話器の向こうから業務命令を下した。


「あ〜ら、衆矢君じゃないの。元気だった〜? 大博多印刷君も久しぶりね」
 アザミさんはいつもの強烈な香水の匂いをまとって現れた。僕たちはエアコンのよく効いたL字ボックス席に腰を下ろすと、アザミさんはそこがいいわ、と言いながら、大博多印刷の営業とワタリ係長の間に身体を割り込ませた。
 水割りを作りながら、アザミさんは初対面のワタリ係長を見て嬉しそうに微笑んだ。よろしくね、うふっ、と言葉をかけ、ワタリ係長の手の甲に自分の大きな手のひらを重ねた。一瞬、ワタリ係長の手が固くなったように見えた。男の体温を感じ取ったワタリ係長の表情がぎこちなく映る。
「ところで、衆矢君。かすみちゃんは元気?」
 アザミさんは触れられたくない彼女の話題に、堂々と切り込んできた。
 逃げていると思われたくないので、僕は真面目ぶった口調でアザミさんに応えた。
「エキは飛ばしたけれど、止まるべきエキはひとつだけです」
 冗談を言ったつもりだったが、僕はテレを隠せない程、顔が赤くなっていくのが分かった。
「あら〜、まあ。赤くなって。それにしてもきちんと言ったわね。たいしたものだわ。ん〜、ワタシが見込んだだけのことはあるわ。やっぱり新幹線男じゃなかったものね。このまき散らすだけの大博多印刷男と違って」
 アザミさんは隣の大博多印刷の営業を横目でちらっと見た。
 その後、僕を優しい眼差しで見つめながら、「そう、ついにエキを飛ばしてしまったのね」と少しばかり口惜しそうな表情を見せた。
 ワタリ係長は初めて聞く、分かりにくい新幹線の会話にも、ニコニコと付き合ってくれている。その後、アザミさんが大博多印刷の新幹線男と話し込んでるのを見計らって、永野さんと三ツ谷さんの状況と佐里君の性格などを訊いてきた。

「仕事の話? 二人で真剣な顔をして。もっと、楽しくやらないとつまんないわよ人生は。そうでしょ係長?」と、僕の話を真剣に聞いているワタリ係長に向かって言った。そして、両方の手でワタリ係長と大博多印刷の新幹線男の股間をグッと握りしめた。
「あら〜、係長。さすが立派だわ」
アザミさんは慌てて腰を引いたワタリ係長に向かって、熱い視線を送った。
「新幹線男のより、ぜんぜん迫力ね」
「悪かったですね」と、大博多印刷の営業は不貞腐れた。
「ん〜、別にあなたのが小さいとは言ったわけじゃないわ」
「はい、はい」

「ところでね、みんな悪の十字架の話、知ってる? そう、じゃあ、恐怖のみそ汁は? な〜んだ、みんな知ってるの? つまんないわね。でもまあ、結構有名な話だから、知らない方がおかしいかもね」

 アザミさんはタバコを一本抜き出すと、僕たちに煙がかからないように向きを変えて美味しそうに吸い始めた。ニコチン・タールのキツいタバコは重い煙になって、エアコンの風に運ばれていく。アザミさんはほんの少し宙を睨んだ後、再度、話を切り出した。
 アザミさんは真面目な顔をしながら、道ならぬ恋に走って心中した恋人たちの話だと前置きをした。最近仕入れた文学的下ネタらしい。
「発見された死体は必ず男はうつぶせになっていて、女は仰向けになっているんだって」
「本当ですか? そんな話信じられないなぁ」と、大博多印刷の営業マンは言った。
「不思議だけど、本当らしいわよ」
 アザミさんは自信満々に言い切った。
「言われてみれば、そう、それが男女の無意識の形かもしれないな?」
 大博多印刷の営業マンは怪しみながらアザミさんに視線を返した。僕は科学的根拠が見いだせるはずのない現象など信じなかったが、にこっと笑って首を縦に振った。
「ところで、死んだ方の男の体を『死体』というけど、女の死体はなんて言うか分かる?」
 三人とも首を揃えて横に振った。
「『遺体』って言うんだってよ。女のは」
「男がシタイで、女がイタイですか。うん、良くできてる話ですね。ははは」とワタリ係長が笑った。
「ところがね、最近はそうでもないらしいのよ。最近は俯せの女の死体が多いって言うし、男の仰向けも良く見かけるってよ」
「それって、ウーマンリブ運動の結果でしょうね」と大博多印刷の営業は言った。
「男がだらしなくなったからよ、そんなの。女のせいにしちゃ駄目よ」と、アザミさんはぴしゃりと言い返した。
「で、そんな仰向けになった男の死体をなんと言うか分かる?男はイタイとか言わないしね」
「男は仰向きになっても『シタイ』って言うんじゃないですかね」
 大博多印刷の営業の答えに、アザミさんはゆっくり横に首を振った。
「『いいタイ』って言うんですって、博多の男は。絶対に断らないそうよ」
「反則ですよ、そんなの。最初っから博多の男って言ってくれなくっちゃ。ねぇ、ワタリ係長」
 大博多印刷の営業はワタリ係長に相槌を求めた。ワタリ係長は笑いながら「いや、良くできている話だ」としきりに感心し続けた。

 いつも笑わせようとしてくれるアザミさんのプロ魂には感謝しなければならないが、今日はここに完全燃焼できない自分がいる。佐里君の記憶が僕の心に暗い影を落としている。
 アザミさんに新幹線男と嫌みを言われ続けた大博多印刷の営業は、歌詞だけが画面に出る最新型のカラオケで「わかってください」を歌っている。その歌は僕にはとてももの悲しい歌に聞こえた。

 アザミさんは友人が最近遭遇したという事故の話を始めた。中洲の近所の交差点での話らしい。赤信号を渡ろうとしていた老婆を、身を乗り出して車から救った男の話だった。その男は老婆を守ろうと、身体でかばったところをその車にはねられてしまったという。  
 「こら、気をつけんか。こっちの信号は青バイ」とあわてて運転席から降りてきた男を、その白いスーツ男は、「何っ、なんば言いよるとか」と言って殴り倒した。その後、白いスーツ男もぶつかった腰の部分を押さえながら、気絶するように倒れ込んだということだった。

「自分のことしか考えんようになった世知辛いご時世に、自分の身を投げ出して人をかばうなんてね。そんな人がまだいるのね。ま〜、大したものだわ」
 すぐに殴る行為はどうかと思うが、とにかくアザミさんは白いスーツ男を持ち上げた。
 僕は徹夜で過ごした追い山の翌日を思い出していた。睡眠不足でふらふらしながら残業をしていたあの夜。パチンコに行っていたはずの三ツ谷さんがいつの間にか現れていて、一人で深夜に仕事を手伝っていてくれたことを。
 僕は自分のことだけに一生懸命になりすぎてはいないだろうか。他人のための優しい思いやりを口にすることもあるが、それは本当だろうか。いざという時に、僕はその人たちのように立ち上がれるのだろうか。
 失踪した佐里君のことも、心の中に自分勝手なヒロイズムを育てているだけなのかもしれない。そうであれば、この一週間の僕のこの心配は何だったんだろう。自作の虚構に酔い、その奴隷に成り下がっていたのではないだろうか。
 いいや、そうではない。こんな僕だって、他人のために本気になれることはある。僕は冴えない頭を振って確かめた。
 アルコールが入った頭で、考えすぎない方がよい。今夜の僕は悪酔いのパターンに足を突っ込もうとしている。けっして気分が良くなる方向を向いていない。
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by hosokawatry | 2009-02-02 02:03 | ブログ小説・あの蒼い夏に