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僕はガサゴソという音で目を覚ました。机にうつ伏せになった状態で音の方向に視線を向けると、壁際の使用済み版下棚の前に人がいた。パチンコに行ったはずの三ツ谷さんの後ろ姿がある。その版下墓場で写植文字をピンセットで剥がしていた。
僕はどのくらい寝込んだのだろう。壁時計に目をやると午後11時30分を過ぎていた。記憶は紙面1/3迄のチェックにとどまっている。僕は20分の仕事をした後、一時間以上も寝てしまったことになる。
隣の机に僕がやりかけた最終チェックのコピー用紙は広げられていた。残りのチェックは三ツ谷さんが済ませてくれたのだろうか。気付かれないように顔を僅かに浮かせて用紙を覗いた。白い部分が見当たらず、紙面全体が黄色のマーキングで覆われてしまっている。紙面にはかなりの赤文字が入っている。誤植が多かったのだろう。それで、三ツ谷さんは必要な写植文字を探していたに違いない。
やり残したチェックの続きを済ませ、その上、写植文字を拾って修正までも。
なんと言うことだろう。言葉では表現できないものが僕の胸を触れて通り過ぎた。
僕は生温い室温の中で鳥肌を立てていた。
思わぬ光景に動揺して顔を上げることが出来なかった。昨夜の徹夜デートのつけがもたらしたものを、三ツ谷さんが何も言わずにフォローしてくれている。自分が蒔いた種なのに…。チラシの間違いなど許されない状況の中にある僕を、救おうとしてくれているのだ、きっと。自覚の足りない自分が恥ずかしかった。
三ツ谷さんは小さい写植文字をテープで止め終わると、もう一度チェックして最終版下のコピーを取り始めた。僕はコピーの音で目覚めたことにして、勇気を奮い起こして顔を起した。
「二カ所だけ文字が直せんやったけん、後は色校の時たい」と三ツ谷さんは言って、版下とコピーをセットにして僕の机に置いた。
僕は目を潤ませながら「すみません」としか言えなかった。
「飲んだ翌日はきつかけんなぁ」と僕の肩を右手でポンと叩いて独身寮に帰っていった。
永野さんの言葉は僕の心を氷漬けにし、三ツ谷さんの行動は僕の心を氷解させた。何が一番大切なことか、考える必要もなかった。僕はただひとつの理由で今日の最後を確かなものにできたのだ。
僕たちの周りには言葉を越えるものが確実に存在する。
「飲んだ翌日はきつかけんなぁ」の一言が蘇ると、再び涙がにじみ視界がぼやけた。
FMではジェットストリームが流れ始めている。もうすぐおかまバーが大好きな大博多印刷の営業マンが現れるだろう。僕は急いでトイレで顔を洗った。
僕はぼろ雑巾のようにクタクタになった身体をベッドに投げ出したとたん、朝が電話のベルとともにいきなり訪れた。
仕事から逃れられない素敵な土曜日が始まろうとしている。皮肉なもので、休日出勤の日の空は青い。
「河村クン、おはよう。どう、昨日は元気だった?」
キュートな天使の声が朝の受話器から溢れ出す。
「おかげさまで、忘れられない金曜日になったよ」と僕は言った後、理由をかいつまんで説明した。
「なるほど、昨日の夜も午前様だったわけね。電話に出ないわけだ。ほんとうによく働く若者だこと。感心しちゃうわね、まったく」と、かすみはあきれながらも、来週はじめにゼミの二泊三日の合宿旅行で湯布院に行くことを話し始め、スケジュールを細かく読み上げた。ただ、梅雨が明けるかどうか微妙な時期だったので、天気が気になると言った。天使は話し好きだ。僕が今日も仕事だと言うと残念そうに、ゼミ合宿から帰ったらまた会う約束をして受話器を置いた。
特別の場合を除いて、休日出勤の場合は一時間以上遅く出かける。土曜日の朝10時半。バラの洋館に女の子の姿は見えなかった。遅い時間だったので、僕は久しぶりにバスの座席に座って出勤した。
今日の夜は佐里君がアパートにやって来る予定なので、仕事は夕方までにかたをつけなければならなかった。細々とした仕事を済ませると、来週末に提出予定の花咲店の開店1周年祭のチラシスケッチと年末年始の恵屋合同チラシのプレゼン案が残った。
残った二つの大きな仕事に優先順位をつけた後、笠木君とキヨシ君と近くのブラジレイロに昼食を取りに出かけた。僕たちはとても美味しいハッシュド・ビーフを食べながら、今年発売予定のプリントゴッコについて話を交わした。情報通の笠木君が丁寧に解説してくれるので助かる。
今日は飲みにいけないけど、と僕がいうと、キヨシ君は来週グラスホッパーに行きましょうと言った。笠木君はムーランの方が良いけど、と口を尖らせる。
午後から恵屋の年末・年始合同チラシのコンセプトメイクとアイデア出しを始めた。
支店内につくられた5つの制作グループによる「社内競合プレテ」は既に始まっている。僕のグループはデザイナーの三ツ谷さんと永野さん、コピーライターである僕の3人がメンバーだった。同期入社の三ツ谷さんと永野さんは誰もが認める不仲であるが、ワタリ係長が考えたこのグルーピングには何か訳があるのかもしれない。年長であることから永野さんがグループリーダーになっている。
今週ミーティングをしようと永野さんに言われたのだが、来週にという僕の希望を通してもらっている。来週頭のアイデアの擦り合わせに間に合わすには、どうしても今日中にはアイデア出しまで進めておかなければならない。
博多祇園山笠の追い山が駆け抜けてから36時間ほど過ぎた。もうすぐ梅雨明け宣言がなされるだろう。僕は額に汗をかきながら、12月30日と1月1日に新聞折り込みされるチラシ内容を考えている。
訓練すれば、かき氷を食べながら暖房器具のイメージコピーを書くことも難しくはない。ただし頭の中に冬を作り出す作業には必要以上に時間を取られてしまう。「その気」になるのが遅いことが僕の欠点でもあった。しかし、今日は時間を多くはかけられない。佐里君が夕方以降に僕のアパートにやってくるからだ。今日は特に効率よく仕事をしなければならない。急げ、急げ。
チラシはラブレターだと言い放つ恵屋の社長になった気分で、年末と年始の「気持ちの伝え方」を考えることにした。僕は今、5000人の社員のトップに立つ社長だ。まず大晦日の気分で「感謝」というキーワードを、次に元旦の気持ちになって「挑戦」というキーワードを抽出した。年末・年始のセールコンセプトは「感謝&挑戦」に決めた。
コンセプトをお客様に、消費者に届きやすいように表現することが僕らの仕事だ。ミーティングのために、まずはコピーフレーズとビジュアルのアイデアを複数案、出さなくてはならない。
アイデア捻出モードに入ろうとしたところで、電話が鳴り始めた。