19
僕は去年の夏にドライマティーニをたくさん飲み過ぎて、ひどい目にあったことがある。胃が異生物のように意思を無視して動き出し、しゃくり上げ、熱い胃液の逆流による苦さに涙した。胃液以外に出すものがない苦しさは、大人への成長を促す薬だろうが、それ以降も僕は懲りずに何度も「ウグッ」と口を押さえてはトイレに走った。試練の回数に関係なく、ただ、大人になれない自分がいた。
しかし今日は違った。すでに屋台でビールや焼酎を飲んでいたので、最初のジンバックの後はドライマティーニ一杯だけにしようと思った。今夜はかすみも一緒だし、潰れる訳にはいかない。午前4時59分の追い山スタート時間迄、まだ三時間以上も残っている。
ニコニコと元気だったかすみも、グラスのマルガリータが空になる頃にはずいぶん口数が減っていた。微睡みが出番を窺っている。
「少し眠くなってきた」とかすみは言った。
「もう一時半だし」と僕は当然だよとばかりに頷いた。
「ワタシ、受験勉強でも夜は強かったんだけど…」
「受験勉強とは違うよ。アルコールが入ってるんだし。まあ、いい子の寝る時間は過ぎようとしているのは確かだろうけど」
「ワタシ、悪い子?」
かすみの頬には薄いピンクが広がっている。
「お父さんにとってはね」と僕は最後の一口を飲み干した。「僕にとっては、とてもいい子なんだけどね」
僕はマスターに勘定を支払うと、かすみを連れて外に出た。眠気を追い払うために中洲の川沿いを歩こうと提案すると、かすみは僕の左手に触れ、手を繋ぐことでOKのサインを出した。僕達は川沿いの植え込みの横を西大橋までゆっくり歩き、橋の上からネオンの反射に煌めく川面を眺めた。観光ガイドブックにも登場する歓楽街中洲の夜の輝きがそこにある。ネオンサインが流れ、瞬き、そして消えては繰り返す。
厚化粧を施し、ウインクを続ける夜の街には酒の臭い、お金のニオイ、そして疑似恋愛という甘い匂いが渦巻いている。もちろん日曜日の遅い朝の光の中、役目を終えた中洲の路地が見せる素顔も僕は知っている。心をかき乱す香水の匂いは既にない。踏みつけられたタバコの吸い殻。流しきれていない吐瀉物が残る側溝蓋。色褪せた情景の上を漂うすえた臭い。それは銭湯の男湯でアザミさんの姿を確認したときのような気分に等しく、なぜか物悲しい。中洲の夜はいつもきらびやかなドレスをまとい、ネオンに踊り、そしてドラキュラのように朝を恐れた。
祭りが動き出す瞬間はまだ先のことだ。僕たちは川沿いを春吉橋に向かってゆっくり歩いた。左手で握りしめているかすみの小さい手が少し動き、握り返してくる。汗ばんだ手のひらが存在感を強め、頭の中を支配しようとする。
春吉橋のたもとにたどり着いた。突然「彼女が眠いといっているじゃないか」と頭の中の黒い生き物が呟いた。「彼女からサインが出てるんだぞ。お前はこれから男として行くべきところに行くべきだ」とその悪魔は強い口調でさらにたたみかけてきた。
僕は前回のデートのとき、はじめて別れ際の額にキスをしたばかりだった。愛を押さえつけ、無理やり乗り越えようとする若い欲求。昨夜の頭の中のリハーサルにはなかった展開に焦った。人間らしく、男らしくなければならない。しかも優しくなければその資格はない。僕の横には今、かすみがいる。かすみは望んでいるのだろうか。僕はやっぱり男らしく振る舞うべきなのだろう。
少年時代に夢中になって読んだ男性週刊誌の女性の性欲についての記事も憶えている。「女性には待っている部分もある。愛しているのなら、きちんと相手のことも察してあげるべきだ」と。
アザミさんの声が聞こえる。「そんなおとこに限って、好きなものをキチンと好きだと言えないんだから」
「少し疲れたみたい」とかすみは言った。
「ほら、そうだろ」と悪魔がにやりと笑って相槌を打つ。
心臓の鼓動が決断を迫っている。僕はアルコールが駆け巡る中で判断を下した。かすみとつないでいた手に力を込めて、橋のたもとを90度東の方角に向かった。国体道路の一筋向こうに南新地トルコ街が覗いている。
「河村クン、大丈夫。足痛くない?」という言葉を最後に、かすみはかすかな寝息を立て始めた。かすみは今、追い山出発地点近くの冷泉公園のベンチで、僕の太ももを枕にして眠っている。
僕は今夜、悪魔の言葉と戦った。アルコール支配下の性欲と戦ったと言った方が正直かもしれない。それは、ある意味でとても辛い戦いだったが、僕は信じられるかすみの言葉を最後まで信じて戦った。
かすみは「僕と一緒に追い山を観る」ために父親に嘘をついてまで出てきたこと。今日の出会いがスムーズではなく、ずいぶん疲れさせたこと。そして、かなりお酒も飲んだこと。そんな状況下に置かれたかすみが僕に向かって言った「少し眠くなってきた」「少し疲れてきたみたい」という言葉に、嘘が入り込む余地はななかったはずだ。それに、かすみは駆け引きを楽しむような人間じゃないことを僕は知っている。
相手の気持ちを完璧につかむことなどできはしないけど、少なくとも僕は彼女の言葉と自分の心に忠実であろうとした。姫を守る中世の騎士のように格調高くはできなかったが、疲れたかすみを公園のベンチに座らせることくらいはできた。途中、狼に変わろうとした軽い自分が情けなかったが、とにかくこうして膝枕の提供もできている。僕なりの男らしさで。
桜の葉がカサコソと揺れる夜明け前の公園。僕はコクッと折れる自分の頚に、ハッと意識を取り戻した。慌てて目の前に焦点を探し、記憶を拾い集めた。かすみに掛けていた僕の綿のジャケットが地面に落ちている。かすみの小さな胸のふくらみが微かに動く。梅雨の雲間に役目を終えた白い月がのぞき始めている。土居通りの薄闇の中を人の気配が動きだし、街は薄明に向かいはじめた。舗道を踏みしめる人の足音が大きくなってくる。話し声も一緒になると、ザワザワと聞こえはじめるから不思議だ。
僕は未明の冷気に身震いし、地面のジャケットまで静かに手を伸ばした。かすみを起さないようにゆっくりとジャケットを肩と身体に掛け直した。かすみの寝顔は水鳥の羽毛のように柔らかく、シロクマの赤ちゃんのいたずらよりも純粋に見える。ふ〜っ。僕は抱きしめたくなる感情に手錠をかけ、湧き上がる温かさだけを楽しんだ。
櫛田神社に入り、境内の清道旗を回るために各流れの山笠が土居通りに並んでいる。追い山行事では30数秒の櫛田入りの時間を競い、さらにその後、博多の街の五キロメートルを全力でを駆け抜ける。これもまた時間を競う。
カメラを持った観客が舗道に溢れた。午前4時49分の太鼓の音に呼応して、山笠を舁く水法被の男達のヤーッというかけ声が薄明を切り裂く。拍手が起こり、一番山が動き出した。一定の間を置き、次々と山笠が飛び出し、追い山はクライマックスを迎える。
山笠の男達のかけ声に眠りを破られたのか、かすみは少し身体を動かした。僕の膝の上で顔を伏せてしまった。
「起きた?」僕は表情を隠したかすみに向かって訊ねた。
かすみは顔を伏せたままで声を出さずに頷いた。
「始まったよ、見に行くかい?」
少し間を置いてかすみは伏せたままの首を横に振った。
夜明けが追い山のようにスピードを上げて僕たちを通り過ぎていく。かすみは動かない。
僕はかすみを自宅の近くまでタクシーで送り、自分のアパートまでそのまま走ってもらった。かすみはタクシーの中で「ごめんね河村クン、酔っちゃって。今日はありがとう」と元気の無い声を僕に向けた。
そして楽しかったよと言った僕の肩に、力を抜いて頭をもたれかけた。
新聞受けに朝刊がのぞき、配達の牛乳に手が付けられていない朝。バラの花が咲いている瀟洒な洋館を過ぎたあたりでタクシーを降りた。シャワーを浴び、着替えて、パンでも齧るくらいの時間はあるだろう。僕はフワフワと反応の鈍い頭と身体でアパートに向かった。
僕の部屋のドアの前に人がいる。首をうなだれ両膝を抱えてうずくまっていた。細くて白い腕が目に入った。
やれやれ、何という日だ。日付は新しくなったのに、昨日からの流れは止まっていない。引きずるものが多すぎる。僕は泥のような眠りにはまっていた佐里君を何度も揺すった。