巨大な結婚式場

a0071722_1464651.jpg 昨年の5月にブログでも書いていたんだけど、それまで僕が利用していた海辺のウォーキングコース(公道? 公的スペース?)が建築工事のため、一年間くらい通行止め(個人的には怒っていました)になっていました。マリノアシティの屋外駐車場の海岸沿いに、巨大なウェディング施設はすでにオープンしていたのです。

 そのウェディング施設の名は「マリノア・ノートルダム」。HPによると「ベルギー・アントワープの『ノートルダム大聖堂』をモデルにした大聖堂は、同寺院と正式なシスターチャーチ提携を結んでおり、高さ60mと国内最大級のスケールを誇る」そうです。※メロンネットより

 8000坪という広さを誇り、式場やレストラン、宿泊施設など「FIVESTAR WEDDING(五つ星?)」という名から想像できるように、質の高いサービスを受けられるのでしょう。それにしても、キリスト教信者でない人が、どうしてチャペル式の結婚式を挙げるのでしょうね。不思議な国ですね、日本は。

 記憶に残る結婚式をあげたい気持ちは、僕にもすごくわかるんだけど、「華やかに表面を飾る」ことに熱心すぎるのではないかと少しばかり心配です。当然、利潤を求める資本主義はその部分を狙ってきます。しかし、バブルなものは必ず弾けるもの。不動産バブルでは相当ひどい目にあい、また今、金融のバブルで不況ですが。ウェディング事業も目を引くだけの拡大競争になっているとすれば、個人的には賛成できません。「バブルな愛」ってあるかどうか分かりませんが、やはり大切なのは「心」ですからね。
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# by hosokawatry | 2009-01-19 01:49 | やさしく歌って・自由日記

あの蒼い夏に 〜チラシづくりの青春・33〜





                    33



 土曜日の朝、一人でランニングを済ませた後の冷水シャワーは気持ちよかった。昨夜、いつものように飲み過ぎにならずに済んだのは前田の酩酊のおかげだった。アルコールに飲まれるタイプの後輩も、そういう意味では悪くない。
 しかし、大脳にへばりついている佐里君が一時も意識から離れようとしないので、爽快感にも限界があった。前田への顔面マジック描写も、やり過ぎだったかもしれない。良心がチクリと痛む。それに、チラシ間違いの情けなさは、未だに胡桃の殻のような頑固な硬度を保ったまま脳の奥深く潜んだままだ。
 キリマンジャロの豆が少なくなっている。僕は不快な脳の記憶も一緒に、コーヒー豆を手動式のコーヒーミルでガリガリとひき、湯を沸かした。固めのスクランブルエッグをバタートーストに挟んで食べた。バターに混ぜるマスタードの比率、スクランブルエッグに振りかける塩胡椒とマヨネーズはいつものように完璧だったが、昨夜のバーボンで舌の感度が鈍っている。味覚の何かが物足りない。生野菜がなかったので、冷蔵庫に残っていたきゅうりのピクルスで我慢した。

 僕は「ある願望」が詰まったデイパックを肩から下げて出かけた。かすみとは正午に天神のTOJIで待ち合わせていた。僕たちにはいつだって、落ち着いて話せる場所が必要だった。僕の長時間残業の影響もあり、そのコミュニケーションの時間はいつも不足していたからだ。逢うたびの鮮度は格別だったが、大切なものを失いかねない危うい緊張感も孕んでいた。
 インテリアショップの奥にある静かなコーヒーショップで、僕たちは少しだけ高級なブルーマウンテンを飲みながら、午後の予定を立てた。エクソシスト2は次の機会にすることにして、バーゲンの水着を買いにいく予定だけは以前に聞いていたので、付き合うことにする。ただし、僕はお気に入りの水着が見つかったら、グランドホテルの屋上プールに泳ぎに行くことを提案した。デイパックの中に海パンを入れてきているのだ。タオルは借りれば良い。かすみはためらいもなく、いいよと頷いた。成功だ。
 極彩色のインコのように派手なアロハシャツの女性スタッフが、すごく似合っていると、何度も何度も繰り返している。かすみは結局、マツヤレディスのショップで試着を重ねた後、奨められたオレンジ色のビキニを買った。僕は女性同士のやりとりを遠くから見守った。店を出る時に「胸が大きくない人はビキニの方がいいのよね」と、かすみは僕の方を向いて明るく笑った。

 ホテルの屋上を青い空が包んでいた。プールサイドに腰掛けて、パチャパチャと足を前後に動かしているかすみが眼に入る。夏の日差しに浮かび上がる白い肌は、僕には眩しすぎて正視出来なかった。心臓の鼓動が泳ぐ前なのに妙に速い。日焼けをしていないままの肌には、水着のオレンジ色は強すぎるのかもしれない。小麦色の肌のかすみを見たいと思った。
 裕福そうな家族連れの声が響く。新婚カップルの白い歯。ライトブルーのリクライニングチェアにはサングラス姿の欧米人が横たわっている。透明な水が張られている勾玉型のプールを僕は何度もクロールで繰り返し泳いだ。かすみはゆっくりと平泳ぎを楽しんでいる。

 傾きかけた7月の太陽に顔を照らされながら、僕たちは平和台球場前の堀沿いを歩いた。
「お腹空いたね」
完璧に乾いていない髪を触りながらかすみは言った。僕たちは昼食を食べないまま、プールで遊んでいたことになる。

「河村クン、自慢のサンドイッチ作ってくれる? ワタシ食べたことないし」
「特別の人しか、僕のサンドイッチは口に出来ないのだけど」と、僕はおどけながら敷居の高さを強調した。朝もサンドイッチだったから、遅い昼食にまたパンを食べることには抵抗があったのだ。
「佐里君とかいう男の人は特別で、ワタシは普通なの」
 かすみは「特別」という言葉に反応した。もちろん、かすみは僕と一緒に大濠公園を走っていた佐里君のことも知っている。
「屋台で新幹線とか言っていた女の格好をした人とか、二人で住み始めた少年のような男の人とか。そりゃ、そちらが特別よね、嗜好が怪しい河村クンには」
 僕はうっと、言葉を飲み込んだ。
「それに比べたら、ワタシなんか普通だから面白くないのかしら」
ふと、寂しそうな表情を見せたかすみに僕は少し慌てた。
「い、いや、君は特別さ。僕にとって」と、諦めながらそう言った。今日二度目のサンドイッチというわけだ。
「そう、じゃあワタシにサンドイッチ作ってくれるんだ」
 かすみは上目遣いでフフッと笑い、僕の手をギュッと握りしめた。
 今日は、手紙ではなくて、かすみ本人が僕の部屋に初めて入ることになる記念すべき日になる。

 僕はトーストした厚切りパンに辛しバターを塗った。揚げたてのポークカツを特製のドビーソースにさっと浸して、レタスを敷いたパンにはさんだ。パンの耳をカットした後、半分に切ってカット面を皿に立てた。パセリを添える。
 僕たちは缶ビールを飲みながら、まだ中心部が熱いカツサンドを頬張った。かすみはサンドイッチの店が出せるかもしれないねと言った。僕が学生時代に洋食屋でアルバイトしていたことをかすみは憶えていた。
「ふ〜ん。深夜の勤労青年はチラシを作れるだけではないんだ」
 かすみはカツサンドの味に感心しながら、美味しそうにビールを飲み干した。僕はことわりを入れてタバコに火をつけ、ベッドに腰掛けて夕方の空に煙を吐き出した。乾いたテニスボールの音が隣のコートから僕の部屋に入り込んでくる。素敵な土曜日の夕方だ。
 百道の埋め立て地を通り抜けて、今日最後の海風が吹いている。星が輝き始めるのは、もう少し先のこと。立ち木の影が長く伸びている。FMでデビット・ボウイのスターマンが艶やかに部屋に広がる。ビールのアルコールがふわふわと僕の理性に羽毛を落とすように被いかぶさっていく。
 そうそう、と言って、かすみがゼミ旅行のお土産のイチゴジャムを取り出した。僕が毎朝、パンを食べるのを知っている。朝食とビタミンCの話題になり、ビタミンCと肌の関係に発展し、望んでもいないのに佐里君の肌の白さに行き着いた。
 夢の中で僕に助けを求めて手を伸ばした佐里君。その佐里君がいなくなった部屋にかすみがいる。僕はいつの間にか、押し黙ったままかすみを見つめていた。瞬きのない僕の目の扱いにかすみは戸惑っているように見える。かすみが沈黙に耐えきれずに、ぎこちない笑い顔を僕に向けた瞬間、迫っていた夕闇が僕の背中をすっと押した。
 僕はかすみを強く抱きしめていた。
 いつも元気で強いかすみが腕の中で震えているように感じた。
「河村クン、ワタシのこと好き?」
「うん」
「愛してくれている?」
「もちろん」と僕は照れずにはっきりと答えた。「警察官のお父さんと同じくらいに」
「嬉しい」と呟いたかすみは瞳を閉じ、生まれて初めて味わっていた緊張を解いた。
 ショートカットの髪がサラリと美しく揺れた。
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# by hosokawatry | 2009-01-12 18:30 | ブログ小説・あの蒼い夏に

北風のお正月

a0071722_1433744.jpg 大晦日から続く寒波の影響で、牡丹雪が舞う正月・元旦です。我が唐津の妻の実家は古い木造の日本家屋。マンションと違ってすきま風が冷たく、少年時代の生活を思いだします。ひとつのこたつに身を寄せ合った日々。石油ストーブにはヤカンが載せられ、シュンシュンと湯気をたてていました。
 
 当時、我が家では人を招待し、ご馳走をふるまう経済的余裕はありませんでした。が、愛すべき家屋には北風だけは招き入れる余裕(隙間)がありました。へヘッ、貧乏ならではの温かい心の余裕です。セラミック外壁の現代の家には、ないものです。フム、これは絵本の原作ネタになりそうな話かも。今、書きながら、頭の中で電球のフィラメント(古っ!)が光りました。
 

師走。
旅に疲れた北風はどこかで休息を取りたいと思いました。
まだまだ目的地は遥か彼方。
見下ろすと大きな街。
高層マンションが立ち並んでいます。
裕福そうな家族が住んでいるのでしょう。
ガラス窓からはごちそうが並ぶ食卓が見えます。
しかし、玄関は重厚なアルミ防犯ドア。
そしてアルミサッシの窓にも
北風が入り込めそうな隙間はありません。
北風は何軒も訪ねましたが
迎えてくれる家はありません。
フラフラになりながら
やっとの思いで街はずれまで飛んできました。
目眩がします。
失速。
気を失いそうです。
落ちながら
もうダメかもしれないと思ったその瞬間。
トタン屋根の家が見えました。
壁板がめくれています。
貧しそうな家です。
木の窓枠も曲がって隙間が見えます。
助かったと北風は思いました。
北風は隙間からそのトタン屋根の家に入り込むことが出来ました。
その部屋には小さな古びた石油ストーブがあり、
かけられたヤカンがシューシューと音を立てています。
質素な食事を家族が囲んでいます。
貧しそうだけど楽しそうです。
赤ちゃんの笑い声が聞こえます。
これが最後の灯油になるかもしれないと、若い父親が心配顔で話しています。
北風は命を助けられました。
北風は暖められたら
自分の使命が果たせなくなることを知っていました。
春一番がやってくる前に目的地に向かわなければなりません。
それでも、
この家族ともう少し一緒にいたいと思いました。
やがて、休息を終えた北風は飛び立ち、
そして、大寒の時期。
父親が心配していたとうりに、灯油を買うことが出来なくなりました。
風邪をひいた赤ちゃんの熱は下がりません。
暖かい春はまだまだ先のことです。
お金のない若い夫婦は祈ることしかできません。
すると不思議なことに、
その年は春一番でもないのに、早々と暖かい南風が3日間吹き続けました。
あの北風が南風になって戻ってきたのです。
風はいつだって、隙間のある家が大好きなのです。

 雪が降り止み、新しい日が射してきました。庭に眼を凝らすと、クモの巣に雪が捕まっています。そして葉を落とした梅の枝先にもう小さな芽が沢山付いています。温かい希望。お腹がすいてきました。もうすぐ、イタリア人の神父が二人、食事にやってくるそうです。それまで少しの辛抱です。北風を一緒に連れてきてもいいですよ。隙間はたっぷりありますから。
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# by hosokawatry | 2009-01-05 01:46 | やさしく歌って・自由日記

フィニッシュで尻餅

a0071722_1740523.jpg 久しぶりに海岸沿いのウォーキングコースを歩きました。日が差し、風も弱い日曜日の夕方です。大きな太陽が浮かぶ西の空には、落陽前に照らし出された茜色の雲がかかっています。海辺からの沈み行く夕陽を楽しもうと、元寇防塁跡〜小戸公園に出かけました。「今年最後の散歩になるかもしれないな」、などと思いながら歩いていたら、この一年のいろいろな出来事が頭をかすめていきます。 

 ちょうど一年前、姪浜の住吉神社の羽魔矢を見物した後、小戸公園を歩いていたら雨に打たれ、携帯電話を駄目にしてしまいました。それで、今年は1月から外歩きにも安心な防水ケータイです。ところが、防水にしたらあまり雨にも遭いません。皮肉なものです。

 今年もこれまでの健康状態はまあまあでしたが、クリスマス前に腰を痛め、腰が完治する前にインフルエンザ? で、腸をやられひどい下痢状態に。ふ〜、本当にキツかった。おかげで2キロ痩せましたが。ブログ小説「あの蒼い夏に」も秋が終わる頃には完結する予定でしたが、遅れています。反省。いや、猛省。

 今年を体操競技にたとえると、E難度の技も使いまあまあだった鉄棒演技も、フィニッシュでこけてしまった感じです。当然、いい点は付きません。だから来年は最後まで頑張れるよう、再度挑戦しなければなりません。機会を与えてくれた、神様に感謝です。ほんの少し考え事をしてる隙に、カメラに撮るつもりの夕陽が雲に隠れていました。がっくり。ドジだけは何度挑戦しても、治りそうにありませんね。

 この一年、しがないブログ小説にお付き合いいただきまして、本当にありがとうございました。来年、いよいよ感動の最終章に向かっていきますので、できれば最後までよろしくお願いいたします。
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# by hosokawatry | 2008-12-29 17:48 | やさしく歌って・自由日記

腰痛、イテテテ

a0071722_24596.jpg 高校3年の時に走り幅跳びで腰を痛めました。椎間板ヘルニアと診断され治療を続けましたが、治る事はありませんでした。痛みを抱えたまま大学4年を迎え、社会に出る前にと、重い腰を上げて手術に踏み切りました。ヘルニアを除去し、一応、それはそれで治りましたが、やはり今でも腰は弱点です。

 腰にメスを入れることの大変さ。成功の確率は100%ではない事。失敗したら下半身にダメージが残るかもしれないなどと、心配事が頭の中を駆け巡る手術の前夜。心細い病院のベッドの中でひとり身体を固くしていました。

 元気づけてくれた母親も帰り、消灯時間が近づく中で、柔らかい足音が聞こえてきました。まだ顔に若さを残す看護婦さんが私のベッドの横にやって来て、話を始めたのです。あなたの手術をする先生は、有名な先生で少しも心配は要らないこと、だから安心して欲しいと。看護婦さんはゆっくりと微笑みながら僕の額に手を置いた後、部屋を出て行きました。

 その心遣いを今でも忘れることはありません。こんな想い出が浮かぶのは、久しぶりに腰を痛めてしまったからです。腰を曲げることができなくて、靴下がはけません。全国高校駅伝をテレビで見ながら、部屋でのびています。クリスマスももうすぐというのに。出歩けないのでまた猫の写真を撮るしかありません。トホホ、情けない。
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# by hosokawatry | 2008-12-22 02:07 | やさしく歌って・自由日記

あの蒼い夏に 〜チラシづくりの青春・32〜





                    32



 パブにクリスチナ・リンドバークはいるはずも無かった。代わりに太いむき出しの腕にタトゥを施した、ロッキー山脈の樵のような大男が斧の代わりにビールを持って現れた。今夜はトレードマークの赤いバンダナを巻いてはいなかった。
「バーボンも出しとくかい?」
グラスホッパーの店主は後頭部で束ねた髪の毛を触りながら、ぶっきらぼうに訊いた。
「はい、それからポテトチップスとバターコーン、それにアタリメをお願いします」
 僕はバーボンのキープの記憶をたどりながら、つまみを注文した。

 レーナード・スキナードのサウンドがカントリー調の店内に響いている。厚みのある引き摺った音。サザンロックが懐かしい土の匂いを運んでくるようだ。開き戸を押しのけながら、マカロニウエスタンのジュリアーノ・ジェンマが拳銃片手に突然入ってきても、恐らく僕の中では違和感は感じないだろう。西部? 南部? マカロニ? 良くは分からないが、それはともかくアメリカ的なのだ。曖昧だが、なんとなく大らかな感じの中にいる。居心地はそんなに悪くない。
 笠木君は出来るだけ仕事には触れない話から始めた。ギターが弾ける笠木君は四畳半フォークの話題に胸を張った。キヨシ君はポテトチップスを齧りながらグイとビールを飲み干した。バターと唐辛子で炒めたアタリメで、バーボンロックをやる頃には、いつものようにアートとデザインの違いについて、激しく声が飛び交うようになっていた。
 アルコールに赤くなったキヨシ君の顔の隣で、営業の前田の顔だけが照度を落とした明かりの下で青白く見える。酒を飲んでも赤くならないタイプの人間なのだろう。
 前田がもう少し腹にたまるものはないですか、と訊いてきたので、ピリッと辛いチリライスを一皿注文した。美味しそうなので、みんなでつつくと、すぐに食べ終わってしまった。前田はチリライスの分け前に不満そうだった。
 若者はいつも腹を空かしている。
 前田は渋い顔をしてポテトチップスを齧りながら、周りを見渡していた。眼が少し座りかけて、瞳の中の光にはオオカミの欲望が誕生しようとしている。斜め前の四人掛けテーブルに若い女性の三人連れが座っていた。

「ファクシミリが来年か再来年に導入されるって、支店長から聞きました」
 僕たちが知らない情報を、入社一年目の前田が知っていた。少し不愉快だった。
「書類情報をそのまま伝送できるんです。すごいですね。僕は担当店が比較的近いのでそうでもないけど、湯浦さんたちは助かるでしょうね。何時間も車に乗って、わざわざ原稿入稿や校正に行かなくても良くなるかもしれないし」
「へ〜、そんなものが会社に入るの? 便利になるね」
 キヨシ君は嬉しそうだった。
「しかしね、もしそうなら前田たちは、仕事が無くなるわけだ。えっ、困るよね、そうなったら」
 今日一日、思うようにならなかった僕は、少し前田に絡んだ。「湯浦さんだって、そうだ」
「打ち合わせが必要な時だけ行けば良くなるし、出張の負担も減るし、ずいぶん便利になると思いますけどね」
 前田はロックグラスのバーボンに視線を落としながら、三人連れの女の子にちらっと目を配ってる。


「今だって、きちんと打ち合わせをしてこないやん、営業の人は」
 笠木君が営業の仕事ぶりを批判したら、すぐに前田の顔に反抗の色が浮かんだ。
「それは、きちんとしたデザインを上げてくれない制作の人だって同じですよ」
 前田は気色ばんだ顔を笠木君に向けた。
「でも、いいやん。これからは前田たちの仕事はファクシミリがしてくれるというし、楽になって。まあ、ファクシミリは正確に原稿を届けてくれるだろうから、こっちは構わないけどね、営業の人がい行かなくなっても。ファクシミリは打ち合わせ能力は持っていないけど、まあ、現状でもどうせ出来てないわけだし、同じやからね」
 笠木君は皮肉を交えて揶揄した。
 営業も制作も頑張る人は頑張っている。もちろん、頑張れない人も多く存在する。そんなことは誰でも分かっているはずなのに、アルコールが入ると、タッグを組むパートナーの力量不足や熱意不足に我慢が出来なくなる。
 職種間で歪みあってもお互いが前に進むことはない。だからといって、対立を恐れて話すことを止めたら成長できるはずがない。そのまま昨日の世界に取り残されてしまうだけだ。僕たちは毎日、異論や違和感という壁に戸惑いながらも立ち向かっている。僕は信じる。壁の向こうには、今日よりもっと魅力的な明日が必ずあるに違いないと。そうでなければ、喘ぎながらも歩みを進める毎日の意味が無くなってしまう。
 僕たちは北アメリカに生息するビーバーのように、齧り倒した水辺の木々を懸命に広い集めている。お気に入りの小川のダムが出来上がる前に、洪水で流されてしまうかもしれないというのに。運の良し悪しはサイコロ好きな神様が握っているから、ちょっぴり危険ではあるが、そう言ったところで、今の僕たちにはどうしようもない。
 青春は懸命なお人好し。だからビーバーのように可愛くもあるし、けっしてそのことが滑稽だとは思わない。とにかく前を見続けるしかないのだ。

 飛び交う声がさらに熱を帯びてきた。大声の割に言葉は痩せて、会話は不毛の領域にさしかかっていた。キヨシ君がトイレのために席を立った。瞬間、会話が途切れた。テーブルの上にはタバコの煙と非難の応酬に疲れた心地悪さが居座っている。
 いなくなった佐里君と明日会う予定のかすみが頭の中で交互に浮かんだ。落ち着かない気持ちがアルコールに加速され、非難合戦の後でもあり、いつものように気持ちよく酔えなかった。
 

「男ばっかりで、こんな仕事の話ばかりじゃ面白くないって思いません?」
 しばらくしてから前田が口を開き、若い女性の3人組を視線で指した。
「僕が話を付けてきましょうか?」
 身を乗り出す前田に、トイレから帰ってきたキヨシ君が止めとけよと言ったが、このくらいのことが出来ない男は駄目だという顔で立ち上がった。
「勝手にしとけばいいんよ、言っても分からんやつは」と笠木君は怒気を含ませて言ったが、前田の成功を期待する心が透けて見えるような気がして面白かった。三人組の中の一人は胸の大きい娘だったからだ。理性はかろうじて保てているが、羊の脳の下からトカゲの脳みそがその影響力をじわりと発揮し始めている。
「一人だけクリスチナ・リンドバークがいたね」と、僕はその状況を楽しみながら笠木君に言った。
「いや、まだその領域まで達していない。あれは芸術だ、爆発だ」と笠木君は北欧のセクシー娘を賞賛した。「比べること自体、失礼だ」

 ほっとけとは言ったものの、笠木君もすぐに席に帰ってこない前田を気にしている。一度、自分のグラスを取りに戻っただけで、そのまま女性軍の中で笑顔を振りまいている。百八十センチはゆうに超える長身と甘めのマスクの前田には、モテる要素が詰まっていた。キャッ、キャッという声に混じって、ハハハという男の正統な笑い声が聞こえてくる。悔しいけれど、楽しそうだ。
 キヨシ君が放っといて帰りましょうかねと、こりゃ駄目だというように首を左右に振りながら言った。言うことを聞かなかった後輩に、嫉妬心が混じった怒りが少しずつ顔を見せ始めている。

「ここは酒を楽しむところで、ナンパするところじゃないんだよ。こんな事するんじゃ、もう来てもらわなくても結構。お前さんたちの仲間にはよく言っといてもらわないと」
 店主は僕たちを見据えて、太くて低い声で告げた。腕のタトゥも怒っていた。
 前田は一緒に踊ろうとでもしたのか、嫌がる女の子の腕を引っ張り始めたかと思うと、グエッ〜とテーブルの上に吐き散らし、気を失ったまま平伏した。グラスや皿が床に飛び散り、女性の悲鳴を皿の裂ける音が追いかける。突然で一瞬の出来事に呆然とし、女性や店主の怒りと困惑の中、頭を下げて謝り続けるしかなかった。前田の嘔吐物が容赦なく女性のブラウスに飛び散っている。

 僕たちは二軒目の店にも行けず、大柄な前田の身体を支えながら独身寮まで帰り着いた。気を失った身体は柔らかい鉛のように重く、三人掛かりでもてこずった。ギシギシと軋む独身寮の狭い階段を運ぶ苦しさは、普段はペンしか持たない僕たちの想像を遥かに超えていた。熱帯夜の中の重労働で僕たちは汗まみれになり、僕の手も前田の嘔吐物でべたべたと汚れている。僕たちは、どうしてこんなに大きい人間を入社させたんだと、人事部をののしりながら手を洗った。
 蒼い顔をしているものの、安堵感が漂うベッドの上の前田の寝顔を見ていると、再度怒りがこみ上げてきた。
 笠木君がすぐに自分の部屋から黒の太マジックを持ってきた。
「朝、歯を磨く時にびっくりするやろね」と、笠木君は言った後、前田の鼻の下にグイグイとひげを書き始めた。
「そ、それ、油性じゃないですか」
 慌てるキヨシ君を尻目に、大丈夫、大丈夫と言いながら顎にもひげを入れている。
 僕も「少しは眼が悪くなるくらいに本でも読めよ、若いの」と言いながら黒ブチの眼鏡を眼の回りにプレゼントしてあげた。
「それなら僕も」と言った後、キヨシ君は三倍は太い眉毛を書き入れた。そしてさらに、閉じている目蓋に眼を書き込んだ。「夜に出てくる幽霊も、これなら逆にびっくりするかもしれないね」
「明日は休みだから、良いだろう」と僕は言った。
 よく考えると、前田は土曜日にもよく得意先に出向いている。ファクシミリが導入されていれば、前田が言ったように、明日の出張は救われる可能性があったのかもしれない。でも、残念ながらまだまだファクシミリは先の話だ。

 
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# by hosokawatry | 2008-12-14 14:05 | ブログ小説・あの蒼い夏に

猫は布団で丸くなる

a0071722_033985.jpg 昨日の土曜日は久しぶりに雪が降りました。今日の日曜日の朝は結構冷え込み、ついに暖房を入れました。この数年、師走といえども寒い感じがしなくて、年が明けてからやっと暖房のお世話になったことも。地球温暖化は福岡からホワイトクリスマスの楽しみを奪ってしまったようです。

 しかし今年は早々に九州にも寒気が流れ込み、例年になく寒いような気がします。そんな今日は12月の第一日曜日で、恒例の「福岡国際マラソン」が行われました。僕の住まいはマラソンコースに近いので、よく朝日新聞のマークが付いた紙旗を振りながら応援するのですが、今日はTVで眺めるだけにしました。

 昔はダイエー所属だった中山竹通が、世界記録をはるかに上回る超高速で、みぞれが降る前半をぶっ飛ばしたり、瀬古がイカンガーを逆転して優勝したりと、本当に面白かったものです。最近はアフリカ勢にまったく歯が立たず、期待が持てないのが残念です。結局、北京オリンピック銅メダルのツェガエ・ケベデ(エチオピア)が2時間6分10秒(すごい!)で初優勝しました。

 僕はうとうとしてしまい、TVの最後の場面は見逃してしまいました。僕の後ろでは、我が家の猫がまあるくなって寝ています。マラソンのことを書いている村上春樹の「シドニー」をBOOK OFFで買ってきていたので、少し読んでみようかな。指の爪がみかんの皮で黄色になっている手で、寝ている頭を撫でようとしたら、猫に不機嫌な顔をされた日曜日の午後でした。
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# by hosokawatry | 2008-12-08 00:36 | やさしく歌って・自由日記

あの蒼い夏に 〜チラシづくりの青春・31〜




                    31




 洋封筒が新聞受けに入っていた。郵便切手の上に、福岡ではない郵便局のスタンプが押されている。封止めシールのピエロは笑っていた。かすみからだ。今日はかすみがゼミ合宿から帰ってくる予定だったはずなのに、なぜか手紙が舞い込んでいる。僕はシャワーを浴びる前に、封を切って読み始めた。


こんばんは、河村クン。

勤労青年はどうせ今日も午前様でしょうから、
挨拶はまた「こんばんわ」にしました。
河村クンのアパートの電話機は休日以外は役に立たないので、
前回に続いて連絡は手紙で、というところ。

絶対にあり得ない話だと思っていたけど
このワタシがまたまた手紙を書くだなんて、ハハハです。
友達が聞いても絶対に信用しません。
しかしこれも、仕方ないことなのダ!
バカボンのパパ風の嘆き、第2弾!
このままだと案外本当に、手紙魔になっちゃうかもね。
(本当は、電話に出てくれるのが一番いいんだけど…
そうなると、バカボンのパパの喋り方で
手紙など書かなくてもいいのに…)


まだ合宿中だけど、自分の中では盛り上がりに欠ける状態。
ゼミの担当教授だけはやる気ムンムンで
彼氏がいるものはハッパフミフミ頑張れよ!
もらった男はカキチョビレなんて、
訳のわからない古いギャグ(?)を言って
一人で盛り上がっている有様です。
明日は合宿最終日で、現地解散になっているんだけど
教授だけ、安心院のオオサンショウ・ウオ〜を見に行くんだって
吠えながら張り切っています。変な人なんですよ、ホントに。
せっかく由布院に来たのだから
温泉めぐりとかすればいいのにね。

ところで、この手紙を河村クンが読む頃には
ワタシはもう由布院から福岡に帰り着いていると思います。
それで、お土産もあるし、今週の土曜日に会えないかなって。
金曜日はいつものように花屋さんでバイトしています。
電話ください! 待ってるから。

追い山の夜、公園のベンチで、サマージャケットを
ワタシにかけてくれた素敵なナイトに「おやすみなさい」を贈ります。    
                                                                     かすみ


 佐里君が居なくなって心の中のぽっかりと開いた穴を、かすみの手紙が埋めてくれた。二度目のチラシミスの傷も癒えていない状況下だったので、救われた思いだった。
 不安定な僕の心は、かすみの文章の向こう側にある笑顔を想い浮かべることだけを求めた。そして頭の中で、追い山の夜のキュートな赤いTシャツ姿を思いっきり抱きしめた。


 翌日、僕は永野さんたちが席を立った昼休みに、かすみへ電話を入れた。明日の土曜日、エクソシスト2を見に行かない? 冷えそうだから夏にぴったりだと、かすみは僕に勧めたが、考えとくよと言って待ち合わせ時間だけを決めた。
 佐里君のことが気に懸かるが、斜め前からの永野さんの視線も気になる。さりげなくステップ写植に電話を入れたが、佐里君は今日も出社していないということだった。会社に理由も告げずに欠勤し、アパートにも居ない。始めたばかりだが、共同生活者としての僕への連絡もない。
 佐里君は二十歳で、もちろん社会人としての経験は短い。だからといって、誰にも連絡せずに姿を消してしまうことが許されてもよいなどと、考えてしまうほど底の浅い人間ではなかった。年上の僕が及ばない程の思慮深さは、仕事のやり取りからでも分かっているつもりだ。
 僕は納品されたメンズショップの招待状の写植を眺めた。へルベチカの書体で打たれた『INVITATION』。昨日打ってくれたその写植は、まるで佐里君が用意してくれた「謎」への招待状のようだった。考えれば考える程、深まる謎に足を取られていく。昨夜見た、あの嫌な夢。底なし沼のような蛇の蠢く大地にぬるぬる・ずぶずぶとめり込んでいく感覚が蘇ってくる。

 僕は三時のアポを取っていたので、恵屋の花咲店に会社のライトバンを走らせた。エアコンの付いていない車だったので窓全開で走ったが、その程度で許してくれるほど、夏は甘くなかった。思いっきりネクタイを緩めたが、それも何の役にも立たない。止めどなく汗は流れ、白いボタンダウンシャツを容赦なく濡らした。動物園の夏のシロクマはどうしてあんなに我慢強いのだろう。
 冷房の効いた店内は天国だった。車を降りた僕は商品搬入口横の業者出入り口から、売り場を通って店長室に向かった。

「僕がお願いした狙いについてはよく表現できている。メリハリがついていて、パンチ力を感じるいいチラシが出来そうだ」と咲田店長は言った。「後で必ず、北海道物産展とバッグ&シューズフェアのタイトルの前に気が利いたコピーを入れといてくれる。ほら、母の日セールの『愛すクリームを贈るセンス』のようなやつを。おかげで母の日のプレゼント用に高級アイスクリームがよく売れたもんな。ただの『母の日アイスクリームギフト』じゃ、駄目だったんじゃないかな」
「はい、頑張ります」
 僕は店長との間に芽生えかけている信頼関係を目の光で確認した。
「力のあるコピーだったら、それを大きくして、タイトルを小さくしても良いし」
 咲田店長は受け手に何を伝えるべきか、消費者への言葉を大切にしている人だ。過去にラブレターを出したことがあるに違いない。
「今のチラシはほとんどが商品写真と品名、価格情報だけだろ。販売促進のためにも、もっと多くのことを紙面で提案すべきだと思うんだ。そんな時に、広告表現が必要になると思うね。表現力の的確さや巧みさが。広告代理店以外の会社も考えた方が良いと思うが、どうだろう?」
 スケッチ用紙をくるくると丸めながら、店長は頷く僕にありがとうと言って微笑んだ。
 僕の気分は少しの時間だったが、満ち足りたものになった。久しぶりの雨に恵まれた植物の毛細管現象のように、仕事が上手くいった安堵感が染み込んでいく。会社への帰路、久しぶりに余裕を持って黄色信号で停車することが出来た。

 夕刻に帰社して、一番にステップ写植の社長に電話をした。
「え、えらい迷惑かけてすみません。何か分かったら、す、すぐに河村さんに連絡入れますわ」
 ハンカチで汗を拭く太った社長の姿が目に浮かんだ。

 浮かない顔をしている僕に、笠木君が「飲みに行かないか」と誘ってくれた。キヨシ君と営業の前田も行くらしい。このところ暗い顔の多い僕を元気づけようとしてくれている。
「クリスチナ・リンドバークみたいな娘が居るところなら良いよ」
僕は精一杯の明るい返事をした。笠木君はにやっと笑って、頷いた。
 
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# by hosokawatry | 2008-11-30 19:51 | ブログ小説・あの蒼い夏に

188殉教者列福式

a0071722_1291147.jpg 江戸時代、カトリック信仰への迫害に屈することなく、命を神へささげた人々がいました。ペトロ岐部と187殉教者は徳川幕府のカトリック禁止令のもとで、信仰を貫き、殉教した人々です。関ヶ原の戦い後の1603—1639年に、全国各地で無抵抗のうちに命を奪われた人々を、福者に認定する式がありました。

 殉教者の中には、歴史の時間に習った記憶のある、少年遣欧使節の一人としてヨーロッパに渡った中浦ジュリアンも含まれます。司祭・修道者以外にも武士や町民など、多くの子供を含む人々が犠牲になったそうです。指を切り落としていく拷問。はりつけ以外にも、雲仙地獄に落とされたり、凍り付く冬の海に投げ込まれるといった悲惨な殺され方をされました。絶対に許されることではありません。

 日本のこういった殉教者へのはからいを、カトリックの総本山の手によって行われることに意義があるそうです。式は、教皇ベネディクト十六世によって教皇代理に任命された方も来日して行われました。

 予報どおりに強い雨も降り、長崎を取り囲む山は雲に取り囲まれていました。式の途中では、明るい日差しが差し込む眩しい瞬間もありました。黒い雲間を縫って、声なき声が祈りを受けて通り過ぎていきました。1200人の聖歌隊の賛美歌があまりにも美しくて、魂が洗われた感じです。日本全国、アジアの国々から3万人を集めた長崎ビッグNスタジアムでした。
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# by hosokawatry | 2008-11-25 01:31 | やさしく歌って・自由日記

あの蒼い夏に 〜チラシづくりの青春・30〜





 
                    30


 僕は何分もの間、水のシャワーを頭からかぶり続けた。脳に張り付く嫌なものを流すために、そして失敗を責め続ける若くて熱い責任感を冷ますために。
 寝る前に、たて続けに二杯のウイスキーをロックで流し込み、タバコ二本を空しい煙にした。
 眠りに就こうとしている全ての細胞の中で、脳神経だけが駄々をこねていた。疲れ切っているのに、意識だけが冴えてくる。タクシーの中ではあんなに眠かったのに。「車内に睡魔の忘れ物をしました」だなんて、誰に申告すればいいのだろう。テニスコートを渡ってくる風にカーテンが揺れても、熱を持ったしつこい失敗の罪悪感は立ち去ろうとしない。
 眠ろうとする努力が、下肢にだるさを運んできた。二杯のナイトキャップが裏目に出たのかもしれない。熱帯夜が熱い両手で、僕の脚の神経を逆立てる。数え切れない程の寝返り。虫が足首をむずむずと這い回る。擦り減る忍耐。僕は叫び声を上げたくなるのを必死でこらえ続けた。

 どこかですすり泣く声がする。
 僕の中に曖昧な意識が蘇ってくる。ベッドの上からは声の方角がよく掴めない。どこかで聞いたような声だ。いや、今日も耳にした近在する肉声だ。忍び寄るただならぬ気配に僕は揺り起こされ、暗闇の中を歩き出した。
 光のないキッチンの方から泣声が聞こえている。僕が向かいかけると、今度は真反対のバスルームの方角から声が聞こえ始めた。僕は静かに方向を変え、忍び足で扉に近づいた。すすり泣きの声が大きくなってくる。
「誰?」
 返事がない。
 僕はそっとドアノブを回した。その瞬間、扉は引き込まれるようにドンと内側に開き、中にいた白い何かがバスルームの壁を突き破り、暗闇の空間へと弾かれたように飛び出した。僕は目を見開いた。その白く丸いものは少年の姿をしていた。子宮内の胎児のように膝を抱くポーズをとり、丸くなっている。その白い身体は飛び出す瞬間、膝を抱く手を解き、僕に向かって必死に腕を伸ばそうとしていた。
 僕に救いを求める白い手。

「佐里君?」
 僕はとっさに右手を差し出していたが、掴むことは出来なかった。

 僕は何も顧みずに白い手の後を追って、暗闇の空間に飛び出した。すぐに訪れた不思議な浮遊感に気づいた。僕はスーパーマンのように宙を飛んでいる。追跡しながら、空を飛べる感動に震え、これまでに感じたことのない高揚感に包まれた。
 なんという自由感なのだろう。僕は誰にも、何からも束縛されずに、自由に追いかけたいものを追いかけている。目的までの時空は希望と可能性に満ち溢れている。僕は両手を広げ、自由の甘美さを全身で味わいながら飛び続けた。
 急に視界が開け、闇の空間が夏の夜空に入れ替わり、広がった。未体験ゾーンに入っていた僕は白い手を追って白鳥座の方角を目指していたが、それもすぐに見失ってしまった。猛烈なスピードでベガの横をすり抜けると、今度は暗黒の中に仄めく明かりが手招きしていた。
 躊躇なく明かりの方に向かうと、次第にすすり泣く声が大きくなってきた。接近するにつれ、発光する球体がブルーだということが分かってくる。全景が俯瞰できると思ったとたん、もう次の瞬間には海に閉じ込められた陸が大きく広がっていた。そして猛烈な速さで森が近づいてきて、視界を樹林が支配した。森に衝突しないように僕はスピードを緩めて、宙の中でゆっくりと浮遊した。
 さらに僕は慎重にゆっくりと進んだ。泣声は強くなってくる。泣声の方角に蠢いている生命体の気配がある。地表近くを飛んでいくと、重力の重みを感じ始めた。僕は得体の知れない何ものかに引き寄せられている。近づいてくるものに目を凝らした。引き寄せられる先に蠢いているのは、ぬめぬめとした蛇の塊だった。相手の身体に巻き付きながら、泣声のような音を立てている。互いに相手の自由を奪おうと絡まりあっていた。どこまでもぬめぬめと続く蛇の不快な地平。僕は味わったことのない恐怖感に襲われ、硬直していくのが分かった。
 急速に自由が失われようとしていた。両手を広げ直しても上昇できなかった。喘ぐ程、強くなる重力に引き込まれ、最後には猟銃で撃たれた鳥のようにまっしぐらに暗鬱な蛇の世界へ落ちていった。


「お前が考える自由や友情なんて、甘っちょろくて、社会じゃ通用しないんだよ」
 落ちていく頭の中で黒い悪魔の声が響き渡った。永野さんの声にも似ていた。

 足首に蛇の湿った感触が伝わってくる。
「佐里君」と僕は大声を上げていた。
 僕はベッドの上で体中に嫌な汗を浮かべていた。奇妙な夢の結末に訪れた恐怖感。ずぶずぶと蛇の群れに脚がのめり込んでいく、言いようのない皮膚感触。僕は完全に目覚めてしまった。苦労を重ねて手に入れた睡眠を手放してしまったことに落胆した。
 佐里君の姿は部屋になく、しんとした無機質の月明かりだけが静かにベッドの影を床に描いている。扇風機はタイマー切れで、佇んでいる。ふ〜っ、僕は今夜、もう一度寝ることに挑戦しなくてはならない。


 佐里君はついに姿を見せなかった。
 僕は大濠公園を走る間、ずっと佐里君のことを考え続けた。

 どうしたんだろう? 

「はい、へルベチカにします」と、昨日は嬉しそうな声をあげて電話を切った佐里君。
 写植の仕事は徹夜をすると、翌日の精度と生産性が一気に落ちてしまうので危険だ。だから、徹夜はしないはずなのに。
 出勤時、バラの洋館に女の子の顔はなかった。佐里君はいない。かすみはゼミ合宿旅行中だ。嫌な想いが残る「気の重い職場」だけが僕を待っている。悩んでいても仕方がない。僕は乗り込むバスの整理券を思いっきり引き抜いた。7月21日、夏休みの初日。博多祇園山笠の「追い山」から一週間も過ぎていないのに、いろいろなことが起こりすぎている。

 佐里君の会社に電話をかけると、今日は休んでいるということだった。すぐに佐里君のアパートに電話をかけたが、いつまでもコール音が鳴り続けるだけだった。昨夜の夢の中で、僕に向かって手を伸ばしたのは佐里君だったはずだ。助けを求めていたのだろうか。僕は勤務時間中に、近くの永野さんの視線を気にしながら、何度も佐里君のアパートに電話をかけ続けた。結局、夕刻までに佐里君からの連絡はなかったと、佐里君の同僚が僕に電話をくれた。
 佐里君は例の友達のところだろうか。僕は会ったこともない佐里君の遊び友達のことを思った。嫌な予感がするものの、僕には解決策がなかった。どこに行けば良いのかも分からない。考えても途方に暮れるだけだった。
 深夜過ぎに仕事を終えた僕は、今日手に入れたばかりの佐里君のアパートの住所へタクシーを走らせた。探し出したアパートの部屋は鍵がかかっていて、磨りガラスの奥は暗かった。僕は念のためにドアをノックし、ロックされているドアノブをガチャガチャと回してみた。思案に暮れながらタバコに火をつけると、僕の脇をカップルが怪訝な顔をしながら通り過ぎていった。

 辛くて泣いていなければいいのだけど。

 僕は夜の闇の中で立ち尽くしていた。
 
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# by hosokawatry | 2008-11-16 19:05 | ブログ小説・あの蒼い夏に